ラストラリー
「大地‼ 頼んだ‼」
一瞬、桟橋の手前で足を止めた俺の方へ振り向いてそう言い残すと、呼び止める間もなく、隼人は一人で海の中へと飛び込んでしまった。
俺が隼人から伝えられた次の作戦は、この場で呪文を唱えている博を守ることだった。だから、ここに俺が残ったのは間違いなんかじゃない。むしろ今俺がしようとしていたこと、隼人と一緒にしゅうちゃんを助けに行こうとしていたことの方が多分マズかったんだろう。だから今俺がここに残ったのは、結果オーライな筈だ。なのに――。
「……クソ……クソ、クソッ‼ クソォォォォ‼」
俺の頭の中は、悔しさと、惨めな気持ちでいっぱいだった。
本当は俺も隼人と一緒に行きたかった。あんな化け物のいる場所へ、隊長である俺が友達一人だけを行かせるなんてことはできないし、しゅうちゃんを助けるのは俺の役目だと思っていたからだ。だけど実際には、これ以上前に進むどころか、水の中を覗き込むことさえできなかった。無理やり足を動かそうとしても、つま先が八の字になって、足の裏にはのり付けされたみたいに動かない。
そうだ、怖いんだ。俺は水の底にいたあの化け物に心底ビビっちまっていた。だから本当は、隼人に作戦を伝えられた段階でホッとしていたんだ。俺はもう、この中に入らなくても良いんだって思ったから。
何やってんだよ、俺は‼ なんなんだよこの足は‼ 徒競走も持久走でも、俺は一等賞だったんじゃないのかよ⁉ 跳び箱だって幅跳びだって、博にも隼人にも負けたことなんてなかったじゃんか‼ 俺はなんだってできるんだって、いつもそう言ってたじゃんか‼ なのに、どうしてこんなに大事なときにだけ動かないんだよ‼
「クソォォォッ‼ …………ッ、ちくしょぉ……」
博が呪文を唱える中、大きな水辺を前にして、結局俺は何もできず、ただその場で膝を付いて俯くことしかできなかった。
「お、おい、止めろ馬鹿‼ 止めろ‼ 止めろと言っているだろ‼ 分からないのか⁉ 今お前たちのやろうとしていることは、尊き神に対する冒涜だということを⁉ そ、そこの馬鹿ガキ‼ すぐに呪文を唱えている眼鏡のガキを止めるんだ‼ そうすればこの僕が、お前だけは助かるよう御子様へ直々に口添えをしてやる‼ どうだ、悪い条件じゃないだろう⁉」
上から紺ノのやつが何かを言っている。だけど言っていることが難しくて、俺には何のことだかさっぱりだった。めんどくせぇ。もうどうだって良い。どうせビビりでアホな俺にはもう何もできることなんてないんだ。ならもう、ここで黙っていよう。
「こ、この……無知で愚かな……人間の、ガキ……冒涜者共が……‼ ならば、これならどうだ‼ 『……――――』」
紺ノは古い紙切れのようなものを取り出すと、日本語じゃない言葉で何かを唱え始めた。すると俺の頭の中で、“動け”、“博を止めろ”と俺が俺に命令する。でも、俺が博を止めなくちゃいけない理由なんて分からない。あれ、そう言えば、俺が俺に命令って、じゃあ俺に命令している俺は、一体誰なんだ?
………………。
どうでもいいや。もう考えるのも面倒くせぇ。
「は……? はぁ⁉ な、何故従属の呪文が効かないんだ⁉ 半分以上力を失ったとは言え、これはルルイエ異本の断片なんだぞ⁉ そんな、まさか……こ、このガキは、本能でのみ活動する単純な生物よりも更に単純な思考回路をしているとでも言うのか⁉ あ、あり得ない‼ いくら
あいつ、なんかさっきから一人で慌ててるな。ま、どうせあいつはあそこから降りて来られないみたいだし、何を言ったって俺には関係無ぇけど。
「クソッ……クソクソクソ‼ こんな筈では無かったのに‼ 外の封印を解きさえすれば、あとは生贄を用意して、御子様が目覚めるのを待つだけで、全てが、僕の手に入って……。…………、ク、クフフ……フハハハハ‼ あぁ‼ もう良い‼ もう分かった‼ このまま指を咥えていても、どうせ僕はクトゥルフ様に始末されるんだ‼ ならばお前たちガキを道連れに、地上に地獄を体現してやろうじゃないか‼」
頭を掻き
紺ノの体は鱗やエラに、それとなんだかよく分からないウネウネと動く触手みたいなものに全身が覆われていって、変身を終えてみれば、その姿は日曜日の朝にやっている特撮番組の、レンジャーと戦う奇妙な怪人のような姿になっていた。
「うあー……。あー、
という掛け声と共に、紺ノのやつは横穴から飛び降りると、ズンッという鈍い音を立てて足から着地した。すると――。
「……――ッ‼ い、いったぁぁぁぁぁい⁉ う、うごご……な、なんで、こんな……。…………ッ⁉ な、なんだこれは⁉ 足ッ、なんだこの脚ぃ⁉ 脚だけが人間のままじゃないか⁉」
紺ノは水かきのある手で自分のズボンをまくると、そこにはすね毛の生えた脚が顔を覗かせている。よく見ると、変身した紺ノは上半身はパンパンに膨れ上がって、肩も腕もガチガチになっているのに、下半身は元のヒョロヒョロな人間のままで、見た目が超アンバランスだった。
「うわっ、ダッセー……」
「う、うるさい‼ こんな、こんなの僕本来の姿なじゃない‼ あ、あいつだ……茂垣のやつが最後にかけた呪文のせいだ‼ あんの、クソ坊主めぇッ‼」
地団駄を踏む紺ノ。だけど、落ちたときのダメージがまだ足に残っていたみたいで、二、三回地面を踏みつけると、その場で情けない声を出して呻いていた。それから少しすると、紺ノは痛みを我慢する顔をしながらもヨタヨタと歩き始める。ボーっと行く先を見ていると、その足取りは博の方へと向かっていて――。
「……――ッ‼」
それだけは駄目だ‼
俺は全身の筋肉にエンジンを掛けながら立ち上がると、フルスロットルで発火させて紺ノの方へと走った。
確かに俺は弱虫かもしれない。隼人や博みたいに勉強はできねぇし、難しいことは分かんねぇ。だけど今この瞬間、俺のやらなくちゃいけないことはちゃんと分かってる。絶対に博の邪魔はさせねぇ。それは、あの恐ろしい化け物に一人で立ち向かって行った隼人から授かった作戦で、友達と交わした約束だから。
「うぉぉぉぉぉぉぉりゃあぁぁぁぁぁぁぁ‼」
全速力で走る俺は、一瞬たりとも減速しないまま、紺ノの真正面から腹に突撃するように組み付いた。だけど――。
「ぐっ……このッ、馬鹿ガキ‼ これ以上僕の邪魔をするな‼」
ぐるんぐるんと目の前の景色が揺れる。気付いたとき、俺はゴロゴロと固い岩の地面を転がっていた。どうやら俺は紺ノの太い腕に掴まれて、投げ飛ばされたらしい。
「いっ、てぇ……。……ッ‼ ガァァァッ‼」
全身のあちこちがジンジンとして痛い。でも今はそんなことはどうだって良い。俺はすぐに立ち上がって、紺ノの横っ腹にタックルを決めてやると、今度は僅かに体がグラついた。けれど、変身した紺ノの体はあまりにも重くて硬く、倒すには全然力も体重も足りなかった。
「しつこいな、馬鹿ガキめ。人間のガキが、力でこの僕に勝てるとでも思っているのかよ‼」
紺ノにシャツの背中を引っ掴まれると、もの凄い勢いで引き剝がされそうになる。今度こそ絶対に離すもんか。そう思って、俺は必死に紺ノの体にしがみ付いた。それでも俺の力じゃ全然敵わなくて、あっという間に力負けすると、地面に向かって放り投げられてしまう。
「クソッ‼ 畜生‼」。そう口にしてやりたいのに、息が切れて声を出すこともできない。運動だったら、体力だったら学校の誰にも負けないんじゃなかったのかよ。なのに、相手がちょっと大人だからって、半分人間じゃないからって、そんな程度で俺は負けちまうのか。結局俺は、一人じゃ何もできないんじゃんか。なんで俺は、こんなにも弱いんだ。
そう思うと悔しくて、悔しくて、勝手に涙が溢れてくる。無理やり立ち上がろうにも、さっきの衝撃で体が言うことを聞かない。体が動かないと、今度はゴチャゴチャと嫌なことばかりを考えてしまって、余計に涙が溢れてきた。
『――時にはその場に立ち止まり』
ふっと、誰かに言われた言葉を思い出す。これ、誰がなんて言っていたんだっけ。これを言われたのは確か、ほんの少し前のことだった筈で――。
『――立ち止まり、頭を悩ませることもまた同じくらいに必要だ』
そうだ。思い出した。そう言っていたのは蒼蓮さんで、立ち止まって頭を悩ませろって言ってたんだっけ。でも、今はそんな場合じゃないだろ。こんな所で黙って考え事をしていても、このままじゃ紺ノのやつに博が邪魔されて――。
思いがけずに見えたもの。それは、破れたズボンの隙間から見えた、人間のままの紺ノの脚。すると俺は咄嗟に立ち上がって、フルパワーで紺ノの背中を追った。背中や脇腹、膝に首。つうか、全部が痛てぇ。だけど、もう体がバラバラになっちまったって構わない。
蒼蓮さん、俺、やっぱ駄目だ。頭を悩ませるって、全然何のことだか分かんねぇんだもん。でもさ、頭なんか使わなくたってこれだけは分かってるぜ。俺は絶対に友達を守る。そして蒼蓮さんの言っていたその場に立ち止まるっていうのは、つまり――。
「どりゃぁぁぁぁぁぁぁ‼」
「……へっ? わ、わッ‼ わぁぁぁぁぁぁぁ⁉ ヘブッ⁉」
俺は紺ノの股下に向かってスライディングすると、人間の脚のままの膝を両腕で思い切りロックした。すると膝を固定された紺ノは前のめりに傾いて倒れ、そのまま顔面を地面に思い切り強打する。
本来人間ってのは重心が腰の辺りにある。でも今のこいつは、上が怪物、下が人間のままで、上半身の方が明らかに重い。その結果、今みたいに脚の運動の起点の一つで、しかもその中心に位置する膝をガッチリ固定してやれば、下半身でバランスを取ることができず、こうして頭から前にぶっ倒れるって寸法だ。
ただこの際、紺ノの体の質量保存の法則がどうなっているのかがちょっと気になるけど……ま、そのお蔭で上手くいったんだし、怪物だから物理法則が当てはまらないってことで良いんだろう。
俺には頭を使うなんて向いてねぇ。だけど力を上手く使えば、こうしてデカい怪物だって倒してやれるんだ。そして蒼蓮さんの言っていたその場で立ち止まるっていう言葉の意味。そうだ、俺はこいつを倒す必要なんて無い。俺の役目は、ここでこいつを足止めすること。なら、こうしてこの場で動けなくしてやれば良い。蒼蓮さん、そういうことだったんだろ?
「ぐ、ぐぅ……こ、の……ガキが……。よくも、邪魔をしてくれやがって――ッ⁉ ぐわぁぁぁぁぁ⁉」
顔を強打して未だ回復していない紺ノを脚を取って、膝十字固めをお見舞いしてやる。こいつは母ちゃんが父ちゃんと喧嘩しているときに良く使っていた技だけど、何があっても絶対に友達には使うなと言われていた。だけどこいつは友達なんかじゃないんだ。なら、どれだけやったって母ちゃんに怒られやしない。
「あぁぁぁぁぁぁ⁉ 痛い痛い痛い痛い‼ ギブギブギブギブ‼」
「今ギブって言ったな⁉ じゃあもう博の邪魔はしないか⁉」
「…………、……し、しない……」
「嘘つけ‼ 今俺のことを騙してやろうって思ってただろ‼ この野郎ぉぉぉ‼」
「ぐわぁぁぁぁぁ⁉ ……――ッ‼ このクソガキが‼ 下手に出てりゃ調子に乗りやがって‼」
俺は紺ノの脚ごと持ち上げられると、そのまま思い切り地面に向かって振り下ろされる。しまった、こいつ、強くなった上半身に腹と背中の筋肉を合わせて使って――。
気が付くと、俺は何度も何度も地面に叩きつけられていた。その度に全身に衝撃が走って、痛いって感じるよりも先に、目の前がチカチカして意識が飛びそうになる。でも、今度こそ絶対にこの手は離さない。そう思ってはいたけれど、最後に頭をぶつけたとき、一瞬だけ意識が飛んで、気付けば俺はその辺に投げ出されていた。
やべぇ。すぐに立たなくちゃ。ちゃんとそう頭では分かっているのに、全身がガクガクしていて、全然力が入らない。まるで頭と体が別々のものになっちまったみたいだ。
「ククク、良い気味だなぁ。まるで地面を這いまわる虫けらみたいじゃないか」
気付けば紺ノが俺を見下ろしていた。
マズい、このままじゃ博がやられちまう‼ 動け‼ 動け‼ 動けよ、動け‼ ここで俺が立てなくちゃ博がやられる‼ 博がやられちまったら、隼人もしゅうちゃんも助からねぇ‼ 今何もできないで、何が隊長だよ‼ 何が友達だよ‼ もう一度立ち上がって、こいつを止めなくちゃだろ、俺‼
「……うッ、お、ぉぉ……」
頭の中で必死に渇を入れたけど、もう声さえ殆ど出て来なかった。クソ、俺が弱かったから、こんなところで負けちまうのかよ。そう思っていると――。
「クク、ハハハハハ‼ …………ッ‼ お前らみたいな‼ 虫けらの‼ 所為でなぁ‼ 僕のような‼ 上位存在の‼ 約束された未来が‼ 台無しになったんだぞ‼ どうしてくれる‼ あぁ⁉ どうやって責任を‼ 取るつもりなんだって‼ 聞いてんだよ‼ オラァ‼」
何故か紺ノのやつは博の方へ行こうとしないで、言葉を吐き捨てるみたいにしながら俺を踏みつけ始めた。
もう俺は抵抗できないってのに、博をほったらかしにして、わざわざこっちに来てくれるなんてラッキー。これで博が呪文を唱える時間を稼げるぞ。もしかして紺ノやつ、自分の任務を忘れてるんじゃないか? だったらこいつ、俺よりもずっとアホじゃん。よっしゃ。家に帰ったら母ちゃんに、俺よりもアホなやつがいたんだぜって、そう自慢してやろう。
でもなんか、体のどこも痛くなくなってきたな。今まで全身痛くて苦しくて、駄目になっちゃいそうだったのに。あぁ、これってあれかな。死ぬ前に痛みが消えるっていう、なんとかラリーとか、なんとかズハイってやつ。そっか。俺、死んじゃうのか。夏休み、まだ半分も残っていたのに、勿体ねぇな。
母ちゃん、絶対に怒るよな。旅行へ行く前、危ないことは絶対に、ぜーったいにするなって言われてたのに、約束破っちまった。それに隼人と博とも、残りの夏休みでめいっぱい遊ぶって約束してたのに。ヤベーよな。二つも約束を破っちまうなんて。
ま、でもこうなっちまったらしょうがねぇか。俺だけお別れを言うのがちょっと早くなっちゃったって思えばさ。ごめんな、隼人、博。本当はちゃんとさよならを言いたかったけど、なんか俺、駄目みたいだからさ。だから、お前たちだけで、先に、帰って……――。
目を瞑りそうになったそのとき、俺の全身を、ギュオーンというもの凄い音と光が叩いて、俺は閉じそうになった目を開けずにはいられなかった。その音と光は、隼人としゅうちゃんの潜って行った水の中から立ち上っている。あれ、これって……。
「あっ……あ、あ、あッ‼ あぁぁぁぁぁぁぁぁ⁉ なん、なんてことを⁉ み、御子様⁉ き、貴様……貴様らぁッ‼ 人間のガキがぁぁぁぁ‼」
今まで俺を踏みつけていた紺ノは膝を付くと、頭を抱えて大慌てしている。そうか、博がやったんだ。てことは、苦痛龍の復活は阻止できたんだな‼ よっしゃあ‼ どうだまいったか‼ ザマーミロ‼
………………。
いや待てよ。まだあの中には、隼人としゅうちゃんがいるんじゃ――。
「――ッ‼ 隼人‼ しゅうちゃん‼」
俺はその場から立ち上がると、水辺までダッシュして覗き込む。すると、中は大変なことになっていた。水はグルグルと渦を巻き、何もかもが底にできた真っ黒な大穴に向かって吸い込まれてゆく。まるでデッカいトイレの水を流したみたいだ。
隼人‼ 隼人としゅうちゃんはどこだ⁉ まさか、もう穴に吸い込まれちゃったのか⁉
大慌てで二人を探すと、ここからそんなに遠くない場所に、しゅうちゃんを抱えた隼人の姿を見つける。けれどここから見ただけでも分かるくらい隼人は苦しそうで、目が合ったのに俺のことも見えていないみたいだった。
「隼人‼ こっちだ‼ 俺はここにいる‼ あとちょっとだぞ‼ 頑張れ‼」
駄目だ、聞こえてない。それに今まで水を蹴っていた足もとうとう動かなくなり、俺の方に手を伸ばしたままの姿勢で止まってしまう。
「――ッ‼ 待ってろ‼ 今行くぞ‼」
俺は隼人の方に向かって飛び込む。指先が水に触れた頃には、全身の痛みも化け物にビビっていた気持ちも、何故かどこかへと消えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます