Yes/No

 ザブン、ゴボゴボと、飛び込んだ際の衝撃が全身に叩きつけられる。それに目と口に塩辛い水が入り込んできて涙が出そうだ。いや、それどころじゃない。青瀬、青瀬はどこだ。それに迫りくるであろう鮫たちも。濃い塩水でぼやける視界のまま、縦へ横へと首を振って周りの様子を探り、青瀬の姿を探す。見つけた。幸いなことに、まだそこまで深くは沈んでいない。


 俺は体に纏わりつく水を掻いて、下へ、下へ進もうと試みる。けれど服を着ているからか、或いは塩水の浮力による影響でか、思うように先へと進めない。そもそも潜るのと泳ぐのとでは勝手が違っているのだ。それでも俺は必死に水を掻いて、静かに沈んでゆく青瀬を追いかけた。


 そうしてもうあと少しのところで手が届きそうになったそのとき、俺はある違和感を覚える。どうして鮫たちは、侵入者である俺のことを襲ってこないのだろうと。さっきまであれだけ水中を縦横無尽にウヨウヨと泳ぎ回っていたのに、今はどこにもその姿が見当たらない。


 あの鮫たちはどこへ行ってしまったのだろう。いつの間にか透明度を取り戻していた水の中を見渡してみると、そこには異様な光景が広がっていた。鮫たちは壁にへばりつくように身を寄せて、まるで息を殺しているかのように静止しているのだ。こいつら、一体何をして――。


 そのとき、ドックンと、水の中を大きな衝撃が走った。なんだ、今のは。音の出所はどこだ。そう思っていると、ドックン、ドックン、ゴォン、ゴォンとテンポ良く何かの音が鳴り始める。音の出所は底の方からだ。


 それに気付いた次の瞬間、水底からガァン、ガラガラと硬いものが割れ、崩れるような音がしたと思えば、そこから砂煙を巻き上げながら、巨大な何かが勢いよく浮き上がってきた。巨大な何かは壁の方へと方向を変えると、その場にへばりついていた鮫を掴み、巻き取られたコードのようにシュルシュルと再び水底へと沈んでゆく。


 一瞬だけ見えたそれ。黒緑色で、幾つもの吸盤のようなものが付いるそれは、たこの足のようだった。だけどそれは、いつか動物園で見た象の鼻やキリンの首よりも、もっとずっと太くて長い。そんな巨大な触手が、二本、三本と水底から上がって来ては、壁に張り付いた鮫をまるで剥ぎ取るかのように捕まえて、次々に水底へと引きずり込んでいった。


 呆気に取られ、何もできずにただ呆然と触手の行く先を目で追っていると、砂煙の立ち込めている水底は、たちまち鮫たちの血で赤黒く染まっていった。間違いない。底にいる何かは、鮫たちを食っている。


 なんだよ、今の。なんなんだよあれは。あれが苦痛龍、あんなものが生物だっていうのかよ。恐らく体の一部であろう触手を見ただけでも俺の心は凍り付き、恐怖だけで死を錯覚しそうになる。


 大地のやつ、あんなものを間近で見たのか。駄目だ、こんな場所には一分一秒だっていられない。早く青瀬を回収して逃げなくちゃ。


 恐怖でかじかすくむ手足。けれどそんなことに構ってはいられず、俺は今まで以上に必死で手足をばたつかせ、青瀬の方へと泳いだ。その間、絶えず水底から上ってくる触手は鮫たちを捕らえ、水底に沈んでゆく度、「死にたくない‼」「助けてくれ‼」と叫ぶ鮫たちの叫ぶ声が耳に届く。


 水の中へ入ってからまだ数秒しか経ってはいないだろう。だけど恐怖で時間が凝縮され、たったの一秒が何十倍、何百倍にも感じる。俺は鮫たちがおとりになっている間、どうか捕まりませんようにと願った。けれど鮫たちの悲痛な声が俺の傍を横切る度、どうかあいつらも助かってほしいと、次第にそう願わずにはいられなくなってしまう。


 そんな恐怖と混乱でゴチャゴチャな頭のまま、ついに俺は青瀬を捕まえた。ならばもう、今はもう他のことはどうだって良い。このまま泳いで、一気に水上まで――。


 そのとき俺は、下を見た。見てしまった。


 そこにあったのは、血煙で真っ赤に染まった水底に浮かぶ二つの黒い玉。赤に染まる世界の中で、ツルンと光沢を持ったそれが、一際目立って見えてしまったのだ。二つの黒い玉と、俺の視線が交差すると、水底の玉はパチパチと消えたり見えたりを繰り返して、その後ニコリと、まるで笑うかのように歪み、それはつまり――。


 その先を考えちゃいけない。そう判断した俺は、青瀬を小脇に抱えて一目散に泳いだ。でもその間、どうしたってそれ・・を思考の外へ追い出すことができなかった。そうだ。あれは目だ。巨大な生物の目。苦痛龍の目。一瞬、あいつの目は瞬きをして、俺と目が合い、こっちを視認して、たった今俺は餌として認識された。


 途端に息が苦しくなった。ここへ潜ってからもう何秒も息をしていないからじゃない。捕食者に狙われているという今の状況に、心と体が圧迫感を覚えているんだ。凝縮された時間の中、逸る気持ちとは裏腹に、自分の動きが異様なほど緩慢かんまんに感じる。それでも俺は一刻も早く恐怖から遠ざかろうと、上を目指して必死にもがく。


 早く。早く。早く。あと少し、もう少しで、二人の待っている場所へ――。


 そうしてあと一泳ぎのところで、突如右の足首がもの凄い力で締め上げられた。あまりの痛みで俺は息を吐いてしまいながらも、痛む方の足へと視線を落とす。すると視線の先、俺の右足首に、水底から伸びる巨大な触手の先端が絡みついていた。


 捕まった。そう認識するよりも先に、俺はそこから逃れようとして何度も何度ももう片方の足で思い切り触手を蹴飛ばした。しかしどれだち力いっぱい蹴ろうとも、触手はびくともしない。けれど、何故か俺は他の鮫たちのように、一気に水底へ引きずり込まれることは無い。一体、どうして――。


 “その脇に抱えている子をボクにくれたら君は助けてあげるけど、どうする?”。


 それは心地良くも、しかし同時に吐き気を催すような、まるで頭の中へ直接入り込んでくるかの如く甘苦い声で囁いてきた。そしてやや遅れて、怪物の言葉の意味を理解する。こいつは、俺の命を助ける代わりに、青瀬のことを寄越せと言っているんだ。


 途端にズシリと、水の中にも拘わらず、青瀬を抱える方の腕が重くなったように感じた。そして同時に理解する。この腕の重さは、俺と青瀬の命の重さなのだと。


 考えろ隼人。今この状況からではどうやったって抜け出すことはできない。なら、俺に与えられた選択肢は二つに一つ。青瀬を渡さず俺たち二人共喰われるか。それとも、青瀬を見殺しにして俺一人が助かるかだ。怪物が約束を守る保証は無い。だとしても、このままじゃ二人共助からないだろう。なら、賭けにはなるかもしれないけれど、どちらか一人でも助かった方が良いに決まっているじゃないか。仕方がないことだ。もしもここで俺が青瀬を見捨てたって、博も、それにこの怪物の恐ろしさを間近で体験した大地は尚更のこと、俺を責めたりはしないだろう。


 そうして一瞬にも満たない内、悩みに悩んだ結果――。


「ぎゃ、ぎゃいやだね‼ ごどヴぁることわる‼」


 声にならない声で、青瀬を引き渡すことを拒否してやった。理由なんて無い。だけど青瀬を見捨てるなんて、そんなの絶対に嫌だったからだ。


 “そう。じゃあ、しょうがないね”。


 その声は、まるで子供が興味を失ったつまらない玩具に対して掛ける言葉のように、冷酷ながらも怨嗟えんさを含んだ声色をしていた。そして怪物の宣言から間もなくして、俺と青瀬は血煙の溜まる水底の方へと引っ張られ、ガバッと開かれた怪物の口の中へと引きずり込まれてゆく。


 食われるッ‼ そう思って固く目を瞑りそうになった次の瞬間、突如どこからか現れた大きな鮫が、俺の足首に絡みついていた触手に噛みついた。すると、水底から今までに聞いたこともないような恐ろしくも不快な音が響く。これは、怪物の声なのか。いや、それよりもこの鮫は――。


「よう言うた隼人‼ それでこそ漢っちゅうもんじゃ‼」


 触手に噛みついていたのは、鮫の親方の大黒だった。


ぼぼぐおおおぐろ⁉」

「大黒、さんじゃ‼ けが‼ 本ッ当に礼儀のなっとらんガキじゃのう。それでもな、おどれのように根性座っとるやつは嫌いにゃなれん。おどれは本物の漢じゃ。だから助けちゃるって決めたのよ。まぁそうでなくとも、こんクソガキにはいつか一発やったろうとは思っとったんじゃがな‼ ギャハハハハ‼」


 大黒が助けてくれた。だけど、大黒の巨大な顎で噛みつかれても、足首に絡みついた怪物の触手は緩まることがなく、右に左に暴れ回って、大黒を振り払おうとしているようだった。


「往生際ん悪いガキじゃ。しかも今の問いはなんじゃい。どうせどっちを選んでも、終いにゃ二人共喰うつもりだったんじゃろうが‼ おうおどれら、まだそんなところでおくしとるつもりかい‼ こいつぁ儂らんことば雑魚が如くこき使ったド腐れで、これが一矢報いる最後の機会、儂らん最後の花道ぞ‼ どっちに転んでも終わりっちゅうなら、最後くらい深き海んもんの意地ば見せたらんかい‼」


 大黒は壁に張り付いた鮫たちに向かって発破を掛ける。すると今まで怯え、すくんでいた鮫たちは、一匹、また一匹と、怪物の触手に噛みついてゆく。鮫が触手へ噛みつく度に水底から上がる絶叫。しかし、怪物もただやられているだけでは済まなかった。触手に噛みついた鮫を他の触手で引き剥がしては、次々に水底へと引きずり込んでしまう。


 俺はハッとして、触手の拘束から逃れようと、踏ん張って足首を引き抜こうとする。けれど、鮫たちの援護で多少拘束が緩みはしたものの、固く絡みついた触手はなかなか外れない。


 駄目だ、息が苦しくなってきて――このままじゃ、怪物に食われる前に、溺れて……――。


 酸欠で頭が朦朧もうろうとして、意識を手放してしまいそうになったそのとき。水底の一番深い場所から血煙を掻き消すように、鋭い音と共にカッと眩しい閃光が立ち昇った。光と音に当てられて、俺は弱々しくも意識を取り戻すと、かすむ視界の先に見えたのは、水底に描かれた眩い魔法陣。数秒の後、静かに衝撃が収まってみると、魔法陣が描かれていた場所には真っ暗な暗闇が広がっていた。それから間を置かず、ごうごうという音と共に下へと引っ張られるような感覚。間違いない。これは、あの暗闇に向かって引っ張られているんだ。


 やった……やったぞ‼ 成功だ‼ 博がやったんだ‼


 ………………。


 それどころじゃない‼ このままだと、俺と青瀬まであの暗闇の中に吸い込まれてしまう‼


 意識を取り戻した俺は、再び触手から足を引き抜こうと試みる。すると今度は、思いの外あっさりと抜けた。どうやら怪物は暗闇に引っ張られるのに抗っているらしく、俺に構っているどころではないようだ。


 目が翳んで殆ど何も見えなくなっていた俺は、小脇に抱えた青瀬の感触を確かめると、視界の先に広がる光を目指し、最後の力を振り絞って水を蹴った。

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