暗闇の中に潜む邪悪

 魚の血の匂いが気にならなくなるくらいまで潜ってきた頃、辺りを見渡してみると、鮫も他の魚もいなくなっていた。晴れた視界の先を意識してみると、改めてこの場所がとんでもなく広いということが分かる。


 もう随分潜った筈なのに、水の底はまだまだ遠くて、ここからじゃぼんやりとしか見えない。もしも鱗が生える呪文と、水の中で息ができる呪文が無かったら、いくら俺でもこんなに深く潜って来られなかっただろう。あとで博に礼を言わなくっちゃな。


 ところで、隼人と博は底へ行けって言っていたけど、底ってどこだ? 底って言われたって、パッと見ただけでも端から端まで滅茶苦茶広そうだぞ。そう思って、キョロキョロと見渡してみると――。


「おっ?」


 水の底に真っ黒い大きな穴を見つけた。でも、どうしてあそこだけあんなに真っ黒なんだ? 他は壁も床も全部光っていて明るいのに。もしかして、あそこだけ材質が違うのか?


 なんてことを考えながら穴を見ていると、俺の顔の横を何かが横切った。ハッとしてそっちを見ると、それは細長い一本の光の筋だってことが分かる。いや、一本だけじゃない。そいつらは光る壁や床からピョコっと飛び出すと、どんどんその数を増やして、まるでヒョロヒョロな生き物みたいに穴の中へ潜り込んでゆく。


「おもしれー‼ あの光、生きてるみたいじゃん‼」


 俺は任務のことも忘れて、穴の中に向かうヒョロヒョロを捕まえようとして泳いだ。でも、どれだけ素早く泳いで近付いても、光のヒョロヒョロは俺の手をすり抜けてしまって、なかなか捕まえることができない。


「あっ、クソ……。よっしゃ‼」


 絶対に捕まえてやるぞ。少しだけムキになった俺は、体を穴の方に傾けて、思いっきり水を蹴って加速した。水の中をグングンと進む体。目の前に迫る真っ黒な穴。そうしてあと一歩のところで、光のヒョロヒョロに手が届きそうになった、そのとき――。


「あでッ⁉」


 ゴチンという音を立てて、何かに頭をぶつけた。片手で頭をさすりながら、頭をぶつけたものの正体を探ろうとしてもう片方の手でそれに触ると、手にゴツゴツとした岩のような感触が伝わってくる。どうやら俺は穴の底に着いたらしい。周りの様子を見ようとして、体を起こしながらしばしばする目で辺りを見ると、この場所は――。


「なんだ、ここ……」


 この場所は、今までの綺麗な洞窟とは何もかもが違っていた。こんな光景、俺は今までに見たことが無いし、隼人や博みたいに正確にこれを説明をすることはできないけれど、俺の言葉で言うならば、ここはとてつもなく大きな檻の中だった。


 穴の中は上の洞窟ほど広くはない。だけど、それでも俺たちの学校の体育館くらいの広さがあって、ぐるっと穴の周りを囲うように太い柵が張り巡らされているこの場所からは、こんなにも広い場所なのに、何か嫌な圧迫感みたいなものを感じる。


 檻の外は真っ暗で、先がどうなっているのか見えなかった。ここは上の洞窟とは違って壁や床が光っている訳じゃないし、穴の外から入って来る光は僅かで、今立っている場所もギリギリ周りの様子が分かるのがやっとなくらいに薄暗いのだ。


 それにこの、檻の外から聞こえてくる、ゴォン、ゴォンという鈍くて重たい音はなんだろう。その正体は分からないけれど、ただこの音を聞いているだけでも、なんだか背中がゾワゾワしてくる。


 これ以上この場所にいたら駄目だ。


 そう直感して上に戻ろうと決めたそのとき、この場所の真ん中くらいの位置に、何かがぽつんと立っているのを見つける。なんだろうと思って泳いで近寄ってみると、それは見覚えのあるものだった。これ、海の洞窟の中にあった、水晶が乗っていた台と同じものだ。そうか、ダイザって、The 台ってことだったのか。


 俺は隼人から預かったリュックサックを前掛けにして持つと、中から水晶を取り出して台の上に置く。すると台の上の水晶は、ぼんやりと光始めた。よし、ちょっと嫌な感じがしたけど、ここで合ってたみたいだな。結果オーライ、結果オーライ。これで俺の任務は完了だ。


「よっしゃ、あとは上に戻るだけ――」

「大地くん」


 戻ろうとしたそのとき、誰かが俺の名前を呼んだ。あれ、この声って、誰の声だっけ。なんか最近どこかで聞いたことがあるような。そう思って穴の中をキョロキョロと見渡してみると――。


「――⁉ しゅ、しゅうちゃん⁉」


 間違いない。檻の外にしゅうちゃんがいた。


「しゅうちゃん⁉ どうしたんだよ、そんなところで⁉」

「ボクね、捕まってここに閉じ込められたの。ねぇ大地くん、すぐこっちに来て。助けて。お願い。助けて」

「お、おう‼ ちょっと待ってろ‼ 今すぐ助けてやるからな‼」


 俺は急いでしゅうちゃんの方へ向かって泳いだ。すると、もう後数メートルのところで、突然手の甲がチクリと痛む。


「痛って! なんだ、これ……あっ……」


 手の甲に何かが突き刺さっていた。それは、碧蓮さんにもらったペンデュラムのホッシーの先端だった。そうだ。さっき俺は、お守り代わりにしようと思って、ホッシーの紐を手首にグルグル巻きにしていたんだ。じゃあ今のは、泳いだときに紐が解けて、先端の尖った部分が刺さっちゃったのか? そう思っていると、突然ホッシーの先端が水に浮き、ビュンと勢い良くしゅうちゃんの方を差して、チカチカと光り始めた。


「わっ‼ わっ⁉ な、なんだよホッシー‼ お前、どうしちゃったんだよ⁉」

「ねぇ大地くん、それ、どこかにやってよ。その光、ボク、なんだか嫌だよ」

「お、おう‼ 悪ぃな、しゅうちゃん‼ 今すぐに、助けて……、……ッ――⁉」


 ホッシーの先端が光ると、一瞬、檻の先に何かが見えた。真っ黒で、ネバネバしていて、うねる巨大なそれ。俺はそいつと、ほんの一瞬目が合ってしまった。でも、そんなの嘘だ。こんな生き物がいる筈が無いじゃないか。


 魚人間。デカいミミズの化け物。喋る鮫の親方、大黒。あいつらだって、とんでもない怪物だった。でも、こいつだけは駄目だ。こんなものが俺たちと同じ世界に存在しているなんて、そんなことを認めてしまったら……。だったら俺は、俺たち人間なんて、そんなの、ただの――。


「ねぇ、大地くん。こっちへ来て。助けて、助けてよ」


 その先のことを考えようとした瞬間、しゅうちゃんの声で声を掛けられる。ハッとして前を向くと、少し前までそれ・・をしゅうちゃんだと思い込んでいた俺の目と頭が、どれだけ馬鹿だったかってことを思い知らされた。


 それは、しゅうちゃんなんかじゃなかった。真っ黒で、ザラザラ、ゴツゴツとした巨大な何かの先端。そんな得体の知れない何かが、暗闇の奥から檻の手前までヌッと伸びてきていて、今までしゅうちゃんのフリをして俺に話しかけていたってことに気付いてしまった。


 なんなんだ、これは。デカい腕……いや、尻尾に、吸盤きゅうばん? それにこの、ゴォン、ゴォンという何かを吸って吐くような音は、まさか、呼吸をする音じゃないのか? 考えれば考える程、俺の心臓の鼓動が早くなっていって、その度に、冷たい血が全身に回って行くみたいだった。


 気が付くと、檻の中へ吸い込まれて行く光のヒョロヒョロの他に、血の色が混じっていた。これは、さっきまで鮫が喰い散らかした魚の血だ。穴の中まで降りて来た魚の血が何本もの細い束となって、檻の前に立つ俺の近くを横切ると、目の前の大きな何かの呼吸に合わせて、檻の中へと吸い込まれてゆく。


 檻の中へ血が吸い込まれる度、暗闇の中の何かは喜んでいるみたいだった。真っ暗なこの場所からじゃ中の様子は見えないけど、それでもそいつは、まだ足りない、もっと欲しいとでも言うみたいに、今度は俺を呼び寄せようと――。


 その先を想像するよりも先に、俺は上を目指して一目散に泳ぎ始めた。これ以上ここにいちゃ、頭がどうにかなってしまう。すると――。


「ねぇ、どこ行くノ? 大地クン? ねぇ、ねェ、ネェネェネェネェネェネェネェネェ――」


 ドンドンと柵を叩いて、しゅうちゃんじゃない何かが、しゅうちゃんの声で俺を呼び止めようとするけれど、俺はそれを無視して必死に泳いだ。


 なんで俺はすぐにおかしいと思わなかったんだ。人間のしゅうちゃんが、水の中で普通に話せていることを。あんなにデカい檻の向こう側から、わざわざ俺のことを呼んで助けを求めていた理由を。


 いや、そもそもが間違っていた。俺が今までいた場所。最初に俺は自分が閉じ込められる側で、檻の中にいるような錯覚をしていたけれど、そうじゃない。あそこは檻の中じゃなくて外。つまり俺から見て柵の先が内側で、あの場所はきっと、暗闇にいたあいつを閉じ込めておく為の場所だったんだ。


 寺で喧嘩したとき、俺は隼人のことを、ビビりな臆病者だと思っていた。でも違う。こんなやつを退治してやろうなんて考える方がどうかしていた。もっとちゃんと碧蓮さんの話を聞いて、どう逃げるだとか、どう隠れるかとか、真っ先にそんなことを考えなくちゃいけなかった。だから隼人は、あんなにも俺のことを怒ったんだ。


 隼人が正しかった。そして俺は、なんて大馬鹿野郎なんだ‼


 一秒でも早くこの場を離れたいという思いと、一秒でも早く自分が馬鹿だったことを隼人に謝りたいという思いで、俺は必死に上を目指して泳いだ。だけどその間、暗闇の中のあいつは、しゅうちゃんの声でずっと俺の名前を呼ぶ。どれだけ聞こえないフリをしても、その声はいつまでも、いつまでもずっと足元から追いかけてくるみたいに俺の耳に届いていた。

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