二つの海 世界を隔てる境界線

 どれだけ歩いたのだろう。足元を流れる水に足と取らながら、でこぼこで滑る岩の地面を歩き続けていた俺たちはもうとっくにへとへとだった。それに、最初の内は幻想的に思えていたこの場所も、歩く先々にどこまでも同じような光景が続いていれば、精神的にもだんだんしんどくなってくる。


 チラッと二人の方を見ると、博だけではなく、大地もその顔にも明らかな疲れの表情が浮かべていた。そう言えば、もう随分前から誰一人として喋るどころか、弱音すら吐いていない。それくらいに今の俺たちには余裕が無いのだろう。


 あとどれくらい歩けば辿り着ける。こんなんじゃ、苦痛龍と対決する前に俺たち全員の気持ちが切れてしまいそうだ。そうして三人の誰もが、心と体の両方に限界を覚えていたそのとき、ついに視界の先に光を見つけた。


「お、おい‼ あれって‼」

「あぁ! きっとあそこが」

「うん。さっき本が見せた記憶の通りなら……」


 三人で顔を見合わせると、俺たちはどこからか沸いてきた希望を燃料にして、疲れた体を引きずるように、長い長い道のりの終わりと思しきその場所を目指してダッシュする――。



 ***



 辿り着いたその場所で、俺たちの全員が言葉を失っていた。通路を抜け、足を止めた視界の先に広がっていたのは、世界中どこの誰にだって見たことがある筈がなく、今までとは比較にもならない広大で雄大な光景だったからだ。


 まずこの場所は、とてつもなく広い大空洞だいくうどうだった。この広さを一体何に例えたら良いのだろうか。少なくとも俺の知っている限り、校庭を含めた学校の全敷地よりも、大きな球場よりも、もっとずっと広いであろうことは間違いない。


 次に言わねばならないのは、この場所には“海”があるということ。それは比喩なんかじゃない。閉ざされた洞窟という空間の中に、大きな海が広がっていたのだ。それも観光地のパンフレットに載っているような、岩場に開いた小さな亀裂の中に海水が入り込んでいるものとはスケールが違い過ぎる。空間全体に響く寄せては返す波の音や、生命の存在を感じさせる潮の匂いを含んだこの膨大で広大な水の塊を見たならば、きっと誰もが大海を思い起こすだろう。


 そして何よりもこの空間を異様たらしめているのは、海が二つあるということ。太平洋と大西洋のように、左右で隣り合わせになっているということではない。隣ではないとすれば何処に。それは俺たちの頭上よりも遥かに高い場所。そう、もう一つの海は、天井の代わりと言わんばかりに広がっていた。


 この光景を見たときに一瞬、いつかどこかの水族館で見た透明なトンネルの形をした水槽を思い浮かべたけれど、すぐにそれらが全くの別物であると思い至った。頭上に広がる水の塊は常に波打ち、時折そこから潮っぽい匂いを含んだ水滴が滴り落ちてはくることはあっても、水面は決壊することなく、ゆらゆらと佇んでいる。これは、本物の海なのだ。


 この旅行が始まってからというもの、俺たちは説明しようのない出来事にいくつも遭遇してきた。だけど今目の前に広がるこの光景は、怪物や魔法とは次元の違う、想像したことすらもない圧倒的な神秘だ。こんなことが有り得る理由を、二つの海が空間と言う境界線を挟んで混じり合わない原理を、一体誰なら説明できるというのだろう。


「す、げぇ……」


 小さく大地が感嘆の声を漏らす。悔しいが、俺にも今の言葉以上の感想を抱くことができない。だけど俺たちの中でただ一人、目の前の神秘的な光景を前にして、何故か博だけは表情を強張らせていた。


「……博?」

「あぁ……やっぱり、この場所、この光景は……さっき一瞬、本が見せてくれた記憶のものと同じだ。じゃあ、この中には……」


 俺たちを置いて、一人歩き出す博。その後へ黙って付いて行くと、水面を前にピタリと足を止める。


「なぁ、博ってば。お前、どうしたんだよ?」

「……見れば、分かるよ……」


 たじろぐように数歩その場から下がり、水中を指差す博。博の指の先、俺たちは黙って覗き込むように目で追うと、そこには――。


「う、わっ……」

「な、んだ、こりゃ……」


 仄かに青白く輝くその場所は広大で底深く、並々と満たされた水の中を、ある生き物たちが悠々と泳いでいた。そのある生き物とは、大きな魚である。そしてその魚というのが、パッと見ただけでも何種類もの、しかも尋常ならざる数の、鮫、鮫、鮫の群れが渦を巻くようにして泳ぎ回っているのだ。


「……なぁ、これって、イルカじゃ、ねぇよな……?」

「……あぁ。鮫にしか見えないな……」

「でもこれ、実は鮫じゃなくて、シャチってことはねぇのか……?」

「いや、例えこれが鮫じゃなくてシャチだったとしても、それはそれでヤバいだろ」

「いやさ、なんつうのかな……。多分、シャチとだったら話せばもしかしたら友達になれるかもしれねぇとは思うんだけど、鮫とはちょっと無理っつうか……。あの真っ黒い穴みたいな目がさ、俺のことを喰っちゃうぞ~って、なんか、そんな風に言っているような気がするんだよな」


 まぁ、言わんとしていることは分からなくもない。だけど、話したら友達になれるかもしれないっていうその発想はもう、原始人を通り越して野生児ではないのだろうか。


「それで博、俺たちはこれからどうすれば良いんだ? 見たところ、この場所には海が二つあるようにしか見えないんだが」

「そうな。鮫はいるみてぇだけど、苦痛龍は見当たらないもんな」

「……僕たちの目的地も、苦痛龍も、海の中だよ……」

「はぁ? いやいや、海の中って。天井のあんな高い所、俺たちじゃどうやったって届く筈がないって」

「俺ら三人で肩車すればいけるんじゃねぇか?」

「全然高さが足りないだろ。つうか、三人で肩車するってことがまず無理だよ」

「じゃあ、壁をよじ登るとか?」

「こんなほとんど垂直な壁をよじ登ることなんてできないって。しかもこの壁もさっきの通路と同じで水が浸み出しているから、間違いなくツルツルだぞ」

「そっか~。じゃあ、どうすっかなー……」

「そもそも仮にあそこへ辿り着けたとして、下じゃなく上にある水の中に入れるのかって疑問もあるけどな」

「「う~ん……」」

「違うよ」

「えっ、違うって、何が違うんだよ?」

「そっちじゃない。僕たちの目的地も、苦痛龍が封印されているのも、目の前の方の・・・・・・、海の中だよ」

「目の前の、って……これ?」

「そう」

「これって、ここの、この、鮫のウヨウヨしている方の……こっち?」

「そう」

「もしかしても思うが、まさか、この中に入る感じなのか?」

「そう。入る感じ」

「「…………、……ッ⁉ 無理無理無理無理無理‼」」

「ひ、博‼ おま、お前、分かっているのか⁉ ここ‼ この中にいるのは、鮫‼ 鮫なんだぞ‼」

「そうだぜ‼ これ、イルカでもシャチでもないんだぞ‼ そんな中、俺たちにどうしろって言うんだよ⁉」

「まず、ここからじゃ見えないけれど、苦痛龍はこの海の底に封印されているみたいなんだ。それで苦痛龍を倒す方法だけど、海の底の中央に、さっき隼人が持って来た水晶を設置する為の台座があるらしい。その水晶を水底まで持って泳いで、台座の上に置くことができたら、あとは僕がこの本に載っている呪文を唱えて、苦痛龍を倒すことができるみたいだよ」

「……なぁ博、その言い方だと、勿論鮫は俺たちのことを襲ってはこないんだよな?」

「あ、当たり前だぜ‼ だって、泳いでいる最中に襲ってくるんじゃ、水晶を持って行くどころじゃないだろ⁉ な、なぁ、博……?」

「この鮫、苦痛龍の守護者らしいんだよね。だから当然、苦痛龍を倒すための準備をしようとしてこの中に入ろうものなら、容赦なく襲ってくると思う」


 声色一つ変えずに淡々と説明する博を前に、俺と大地は鮫とはまた別ベクトルの恐怖を覚え、戦慄の表情を浮かべていた。それから遅れて、改めてこの鮫だらけの海の中へ飛び込まなければならないという現実を意識した俺たちは、恐怖で頭がおかしくなったのか――。


「は、隼人‼ お、お前が行けよ‼」

「は、はぁ⁉ なんでだよ⁉」

「だ、だって、昨日の水泳勝負じゃ、俺たちの中で隼人が一番速かったじゃねぇか‼ だったら、隼人が行くべきだろ⁉」

「人間の俺が泳ぎで鮫に敵う訳がないだろ‼ こいつらからしたら、俺たちの泳ぎの速さなんて誤差だよ誤差‼ だ、大体、大地お前、シャチが大丈夫だって言うなら、お前が行くのが適任だろ‼」

「無理だって‼ 俺さっき、鮫は絶対に駄目って言ったじゃんか‼」

「生態系上では鮫よりシャチの方が強いことになってるんだよ‼ シャチが大丈夫って言うなら、鮫くらいどうってことないだろ‼」

「どっちが強いとかそういう問題じゃねぇだろ⁉ 俺はコニュミケーション・・・・・・・・・の観点から無理だって言ったんだ‼」

「コニュミケーションじゃなくて、コミュニケーションだ、アホ大地‼ かと思えば、観点とかいうちょっと難しい言葉は知ってるし‼ ただのアホなのかとんでもないアホなのか、いい加減どっちかにしろよ‼」


 とんでもない口論を始めてしまった。しかし、こうして口論している最中にも拘わらず、なんて酷いことを言っているのだろうと思う。俺たちがやっているのは、今日まで一緒に泣いて笑い合った友達を、ここまで一緒に命懸けでやってきた親友を、鮫の泳ぐ海へ突き落そうとしているようなものじゃないか。けれど、もしも今ここで一歩でも譲ろうものなら……。そう考えると、「じゃあ俺が」と言うことができなかった。


「良い方法があるよ」


 と、突如博が、俺たちの間を割るようににして口を挟んだ。


「ほ、本当か、博?」

「う、うん。この方法なら平等で、誰か一人が危険に晒されることは無いと思う」

「さ、流石は博‼ よっ、小学生博士‼ 流石は眼鏡をかけているだけのことはあるぜ‼」


 いや、眼鏡は関係ないだろう。だけど、正直ホッとした。本を通して記憶を覗いた博なら、きっとこの状況を打開する良い方法を思いついたに違いない。それに何より、命懸けだったとは言え、あんな醜い口論を止めてくれたことには、それ以上に安心した。そうして俺と大地は、博のことをまるで救世主か何かであるかのように思い、次の言葉を待っていた。の、だが――。


「まず、その水晶を海の中心へ向かって放り投げるんだ」

「お、おう。それで?」

「その後、僕たち三人で同時に海の中へ飛び込んで、鮫を掻い潜りながら、水晶を落とした場所まで全力で泳ぐんだ」

「なるほど……。…………、えっ? あ、あの、博……?」

「すると、きっと僕たちの誰かが襲われる。でもそうすれば、襲われているその誰かに鮫が群がって、他の二人から注意が逸れる。その結果、水底まで僕たちの誰かが生き残る可能性が高くなるよね。最悪一人が辿り着いてまたこの場所に戻って来ることさえできれば、苦痛龍を倒す使命は果たせるんだ。僕は蒼蓮さんから呪文を唱える役割を言い渡されたけど、二人を犠牲にしておきながら、僕だけが安全な場所で待っているなんてことはできない。だから僕もちゃんとこの中へ潜るし、ここへ戻って来ることができたのが僕じゃなかったとしても、その誰かには命懸けで苦痛龍を倒す為の呪文を唱えてほしい。この作戦は、誰かの犠牲の上に成功するんだ。ほら、こうすれば平等でしょ?」

「…………、……も、もしも、その方法で、全員が鮫に食われて、誰も助からないし、苦痛龍を倒すこともできなくなったら、どうするつもりなんだ?」

「そのときは仕方ないよ。でも、僕たちが死んじゃったなら、そんな先のことは考えなくても良いんじゃないかな」


 「良いんじゃないかな」じゃ、ねぇよ‼ 何を平気そうな顔でしれっととんでもないこと言ってんだよ‼ もりも仮にそんな恐ろしい方法で苦痛龍をどうにかすることができたとしても、結果がどうあれ絶対に後味が悪いに決まっているだろ‼


 と、そう言いたかったのだが、あまりの衝撃に俺も大地も突っ立ったまま言葉が出てこなかった。


 博のやつ、まさか本当に本気なのか? だけど冷静に考えてみれば、一人でこの中へ飛び込んだとしても、まず成功はしないだろう。だとすれば博の言った作戦とは、苦痛龍を倒す為には絶対に必要なことで、犠牲は出るけれど、最も犠牲を出さない理に適った方法なのかもしれない。それでも、こんな方法――。


「なんちゃって、嘘だよ。そんな恐ろしいことなんてする訳ないでしょ」

「「……えっ?」」

「もう、本気にしないでよ。三人で帰って残りの夏休みを満喫しようって約束したじゃない。なのに、二人ともちゃんと僕の話を聞かないままどっちが飛び込むだのって言い始めるんだもん。だから、ちょっと脅かしたんだ」

「ほ、本当か……? 本当に嘘なのか……? それは嘘じゃないんだよな……?」

「本当に嘘じゃないよ。あ、あれ。嘘なのか本当なのか、どっちなんだっけ……。で、でも、大丈夫。ちゃんと方法は考えてあるから」

「そ、その博の考えた方法なら、誰も鮫に食われないで済むんだよな……?」

「勿論だよ。ちゃんと三人で家に帰ろう」


 博の言葉で俺はその場にへたり込み、大地は大わんわんと大声で泣きだしてしまった。この旅行が始まってからというもの、俺たちは何度も恐ろしい目に遭ってきた。だけど断言できる。今の博の冗談が、間違いなく一番恐ろしかったと。

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