今は遠き理想論(一般論)

「んぬーッ‼ んぬぬぬぬーんッ‼ んあーッ‼ 駄目だ‼ 全ッ然取れねぇぞ‼ どうなってんだよ、これ⁉」


 振り子の指し示した道を歩くこと約十分。その間、大地のやつは自分の顔にできた透明な鱗を剥がそうと格闘していたが、どうやら徒労に終わったようだ。


「なぁ博、いつ治るんだよこれぇ⁉ まさか俺、一生このままなのかよぉ⁉」

「ちょ、ちょっと待っててね……。この本に書かれている字の感じが古くて、凄く読みにくいんだ……」


 一方博はと言えば、大地が勝手に読んだページの術の概説を解読しようとしているらしい。しかし先ほどチラッと見たところ、本の中身は全て古語で書かれており、その上内容はと言えば、難解な魔術について記されているものだから、小学生博士の異名を持つ博も難航を余儀なくされているようだ。


 しかしこんなアホ原始人にまで術が使えるようにするなんて。まったく、蒼蓮さんも余計なことをしてくれたものだ。大体博も放っておけば良いのに。こんなのどう考えたって、こいつの自業自得ってもんじゃないか。


「う、うーん……。全部は分からなかったけど、とりあえず、分かったことだけ話すね。まずその術は、水の中で素早く動くことができる術みたい。それにもう一つの術、“水中呼吸法”と組み合わせると、使った人の魔力が尽きるまで水の中で呼吸ができるんだって。しかもこの空間は魔力が満ちているから、本人の魔力に関係無く、その気になればいつまでも潜ってられるんじゃないかな」

「えっ⁉ マジかよ⁉ 水の中で速く泳げて、しかも呼吸もできんの⁉ すげぇじゃん‼ だったら俺、ずっとこのままで良いわ‼」


 なんて、このアホは一切考える素振りも無くそう口にする。こいつ、本気なのだろうか。あ、この顔はマジだな。これからの日常生活でどうなるのだろうとか、何かリスクがあるんじゃないかとか、今後どうやって人と接して、どう説明すれば良いのだろうかとか、そんなことは微塵も考えていない顔だ、これは。


「あっ、いやでも待てよ……。この顔、父ちゃんと母ちゃんにどうやって説明すりゃ良いんだ……?」


 ――ッ! そうだよ、大地! まずはそこからだよ! お前もようやくまともに人間らしいことを言えるようになったじゃないか! そうやって人間は太古の昔から一歩ずつ成長してきたんだ。動物や昆虫だって経験から学ぶ。だったら原始人とは言え、人間のお前にできない筈が無いんだ! そうさ、お前にだってちゃんとできるんだよ!


「ま、でも別にどうでもいっか。そんなこと気にしてたってしょうがねぇよな‼ ダハハハハ‼」


 こいつ、自分の体に鱗やら水かきやらができたことを、些細なことと言って、あっさり割り切りやがった。この日俺は、一人のホモサピエンスが、“考える”という人類最大の武器を放棄し、動物や昆虫に敗北宣言をする場に直面してしまったのだ。


「あ、で、でも、この術、身長よりも深い水の中に体を沈めた後でその水の中から出ると、勝手に解けるみたいだよ。良かったね、大地」

「えぇ~? なぁーんだ、つまんねぇのー。それってつまり、期間限定サービスってやつじゃん」

「う、うん……そうだね……。大地が良いなら、僕もそれで良いや……」


 生返事を返した博のその目には、諦めや微かなさげすみといった感情の他、同情や憐憫れんびん、それに、深い悲しみのような色が浮かんでいて、それが俺には痛いほど理解できてしまって……、…………ッ‼ クソッ‼ なんで、なんで俺は、こんなやつのことを、一瞬とは言え、心配なんてしてしまったんだ⁉ こんなアホで、アホの、アホな原始人のことなんかをッ‼


 苦痛龍との戦いはまだ始まってすらいない。なのに、尚も目の前に続く道を歩き続ける俺は一人、いや、きっと博も、言い様の無い敗北感に打ちひしがれ、やり場のない喪失感に襲われていたのだった。

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