最終章 宇宙の闇よりも深きところ

それは蛮勇にあらず。阿呆なりや

「うぉぉぉぉぉぉぉぉッ‼」

「グルォッ⁉」


 正面からやって来た深きものが、俺たちを捕らえようと間近に迫って手を伸ばすと、まるで見えない電気の流れる壁か何かに触れたかのように、体を仰け反らせて後方へと吹き飛んでゆく。


 来た道を戻り始めてから既に五回。進行方向より深きものがやって来ては、俺たちを捕まえようとするのだが、そのいずれもが俺たちに触れることもできず、諦めて来た道を戻る。これはきっと、消える前に蒼蓮さんが俺たちに結界のような術を掛けてくれたのだろう。


 ちなみに、結界を発動させる為に大地が叫ぶ必要は無い。こいつが勝手にやっているだけだ。だというのに、こいつときたら――。


「見たか‼ これが俺たちの超スーパーパワーだ‼」


 と、いい気になっている始末である。こいつが調子に乗るのは今に始まったことでは無いが、こうして何度も目の前で同じようなことをやられると、正直少しイラっとする。しかも超スーパーって、言葉が重複してるし。まぁ、いちいちこいつにそんなことを言っていてはキリが無いのだが。


 と言うか、それよりも今気になるのは――。


「読める、読める、これも読める。違う、いらない、これもいらない。今、僕たちに必要なのは……“魚の招来”……“鮫、海豚いるかの従属契約術式”……“水中呼吸法”と、“鱗の体”……“海獣の、絶対葬斂そうれん”……。あった、あったぞ……これさえあれば……」


 博のやつ、襲いかかってくる深きものには目もくれず、ずっと一人でブツブツ呟きながら本に釘付けになっている。それにさっきから件の本が、まるで博の意志に応えるかのように勝手にページが捲れているのだが、あれ、本当に大丈夫なのか?


「博……。…………、おい、博ってば」

「……あっ、えっ……、あっ、な、何?」

「大丈夫か?」

「大丈夫……大丈夫って、何が?」

「いやお前、ずっと一人で呟いてるから」

「一人で、呟いて? 僕が? …………、あっ、そ、そうだったんだ。ごめん……」

「いや、別に良いけどさ。で、何か分かったのか。必要な術がなんだとか、何かを見つけたのどうのって言っていたみたいだけど」

「う、うん。苦痛龍を倒すのに必要な術と、この先で必要になりそうな術のことを、この本が教えてくれていたんだ」

「教えてくれた、って……その本が?」

「そう。僕たちがこれからすべきこと。その為に必要な術。そして三百年前、この場所で何があって、どうして蒼蓮さんがあんな風になってしまったのとか、色々ね」


 やや焦点のズレた目で言う。その顔からは血の気が引いており、まるで恐ろしい何かを目の当たりにしたかのようであるのだけれど、それでいて同時に、どこか高揚して悦楽えつらくに浸っているかのような、そんな明らかに普通ではない表情を浮かべていた。


「えっと、本当に大丈夫なのか?」

「大丈夫だよ。集中しすぎて、ちょっと疲れちゃったけどね」

「それで、三百年前に一体何があったんだ?」

「…………、ごめん。僕もまだ断片的に見ただけで、ちゃんと説明することができない、かな……」

「断片的に?」

「うん。本を通して僕の頭に流れてきた光景。多分、これがこの先で三百年前に青蓮さんが見た光景だとは思う。だけど、それはまるで途切れ途切れになった古い映画のフィルム映像みたいで、これだけじゃ何が起こったのか殆ど分からないんだ」

「まっ、別に良いだろ。どうせこれから俺たちが乗り込むんだしさ‼」


 神妙な面持ちの俺たちを他所に、能天気丸出しで大地が言う。こいつ、危険な場所へ行くっていう自覚が無いのか? いや、無いだろうな。こいつは多分この期に及んで、冒険でもしている気分に違いない。


「ま、まぁ、先へ進む度に断片的にしか分からなかったものも見えてくると思うし、それに、ほら、あそこ」


 イラつく俺の気持ちを察したように、博が視界の先を指さして言う。そこは苦痛龍の道へと続く分帰路。俺たちはとうとうこの場所へ戻って来た。


 しかし、さっきまでとは明らかに違うことが一つ。壁や床に横穴から染み出していた水が他の四つを避けて一方向へ、苦痛龍の根城に向かう通路へと流れていた。それも、傾斜が付いて下り坂になっている他の通路からも、まるで川の水がさかのぼるかのように流れて来ては、吸い寄せられるように苦痛龍のいる方へと向かっている。


「大地、振り子はどうなってる?」

「お、おぉ、ちょっと待てよ」


 大地は苦痛龍のいる方へと振り子を向ける。すると、振り子は先端をどす黒く変色させてカチカチと震えながらも、道の先を差していた。


 これは先へ進めということだろうか。だけどこの先には、苦痛龍のあのどす黒い意思を含んだ気配が充満している。今立っているこの位置より一歩でも踏み出したなら、先ほど俺と大地が体感したあの感覚がやってくるだろう。そう思うと、ただ一言「行こう」ということができない。横を見ると、どうやら大地も同じことを考えているようで、博もまた動けないでいる。


 どうしたら良いのだろう。途方に暮れてしまいそうになったそのとき、リュックサック越しに背中から暖かな感触が伝わってきて、博の持つ本のページが勝手に捲れ始めた。


「ほ、本が、勝手に……これ、れは……“不撓ふとうの、すめ”……? あっ――」


 開かれたそのページに書かれていたであろう文字を読み上げると、俺たち三人の体は暖かな光に包まれた。少しして光が止むと、特に変化は無い。これは、一体。


「博、今のはどんな術なんだ?」

「えっ、えっと……わ、分んない。分かんないけど、呪文の名前から考えると、多分……」

「おい見ろよ‼ 大丈夫になってるぞ‼」


 博の言葉を遮るように言う大地の方を見ると、あろうことかこいつ、苦痛龍の方へと続く通路へ体を乗り出していた。


「お、お前ッ‼ 何やって――」

「大丈夫だって。ほら、こっち来てみろって。さっきの嫌な感じが全然しねぇんだ」


 俺たちの数メートル先から手招きする大地。しかし、本当に大丈夫なのだろうか。アホ大地が強がっているだけで、本当は危険なんじゃ……。いや、だけどさっきのあの感覚は、アホだから我慢できる範疇を超えていると思うし……。


 ………………。


 えぇい、クソ‼ あのアホ大地め‼ いつもいつも考え無しに一人で勝手に行動しやがって‼


 複雑な気持ちを抱きながら一歩、大股で前へと踏み出す。けれど、先ほどのあの嫌な感じはしなかった。いや、さっきはもう少し前に出ていたのではないか。そう思って更に一歩踏み出したものの、やはり特に変わった感じはしない。溜息を一つして、後ろに向かって頷きアイコンタクトを送ると、博はホッとした表情を浮かべた。


「な、大丈夫だったろ?」


 そう言いながら、俺の肩をバンバンと叩く大地。こいつ、考え無しの結果論で分かったようなことをドヤ顔で言いやがって。まぁしかし、俺たちは前に進まなければならず、こいつは自ら進んで実験台になってくれたのだ。例えこいつにそんな気は無かったとしても、口に出してまで悪くは言うまい。


「それより博、今のすげぇじゃん‼ 光がバーッて出てきてさ‼ 今の、どうやったんだ⁉ 魔法みたいだったじゃんか‼」

「いや、僕はただ最初の一文を読んだだけで……」

「マジ⁉ 俺にもちょっと貸してくれよ‼」

「あっ――」


 と言う間に、大地は博の手の中の本を奪い取ってしまった。そして適当にページをめくったかと思えば――。


「おっ、これ面白そうだな‼ なになに……おぉすげぇ‼ 漢字読めねぇのに、なんか読めるぞ‼ えっと、“う、ろこ、の、から、だ”……なんだこれ」

「なんだこれ、じゃ、ねぇだろ‼ どんな術なのかも分からないのに、適当に読んでんじゃねぇよ‼」


 俺はとうとう耐え切れなくなって、大地の後頭部を引っ叩いた。すると、大地は頭を抱えてうずくまり、唸り声を上げる。


「うごごごご……いってぇぇぇ……。おい隼人お前ぇ‼ 何すんだよ⁉」


 立ち上がって俺たちの方へ向き直った大地の顔を見て、俺と博は絶句してしまった。何故なら、その顔は――。


「あ、あぁ……あわわわわ……」

「だ、大地……お、前……そ、その顔……」

「えっ、顔? 何、俺の顔に何か付いてる、の、かって……、――ッ⁉ んな、なんじゃこりゃぁぁぁぁ⁉」


 大地のその顔は、透明な鱗でびっしりと覆われていたからだ。いや、よく見れば鱗だけじゃない。ペタペタと自分の顔を触るその手には水かきが、首元には魚のエラのようなものができていた。

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