第九章 三百年の時を経て

使命≦安全<好奇心>謎の声

 後ろを振り返ると、そこには深きものが付かず離れず、俺たちの後をピタリと追走していた。こいつ、かなり速い。外のやつらはすぐに俺たちを見失っていたのに、こいつは全く振り切れる気がしない。いや、むしろだんだんと近付いて来ている。そしてそれはこいつが加速しているのではなく、俺たちの方が遅くなっているからだ。


 体がキツイ。息が切れる。足が重い。走る度にバシャバシャと跳ねて纏わりつく水に足を取られることが鬱陶しい。後ろから追いかけられているというプレッシャーも相まって、既に俺たちの体も心も限界寸前だ。だけど、こんなところで捕まる訳には――。


「あっ⁉」


 という声とほぼ同時、バシャっと水の跳ねる音が聞こえる。走りながらその場で振り返ると、後方で博が腹ばいに倒れていた。


「「博ッ‼」」


 俺は咄嗟に踵を返して博に駆け寄り、立ち上がらせようと手を伸ばす。けれど、博を助け起こすよりも先に深きものに追い付かれてしまい、そいつは俺たちの方へ向かってヌッと手を伸ばす。もう一呼吸の後には掴まれそうな距離。クソッ、こんなところで――。


「どりゃあ‼」


 諦めそうになったそのとき。その場で佇むことしかできなかった俺たちの後方から大地が飛び出し、深きものにドロップキックを繰り出した。腹にキックを喰らった深きものは、「グォッ」と小さく声を漏らすも、殆どその場から後ずさることもなく、もう既に体制を立て直しつつある。対してキックを見舞った側の大地は圧倒的な体重差に跳ね返され、固い地面に体を投げ出してしまった。だというのに――。


「立て‼ 走るぞ‼」


 大地はすぐに立ち上がると、俺たちの方へ駆け寄って肩を組み、力強く鼓舞こぶするように駆け出した。けれど走り出す間際、俺はそれを目にしてしまう。大地の膝が、かなり痛々しい擦り剝け方をしていたのだ。だというのに、そんなことはお構いなしだと言わんばかりに、グングンと俺たちを引っ張って前へ進む。


 だけど、俺たちと深きものとの距離はどんどん縮まってゆく。博は転んだときにどこかを痛めたらしくて走り方がぎこちないし、そもそも、三人で肩を組んだこんな状態ではまともに走れる筈も無い。そうして重たい足音がもう真後ろまで迫ったそのとき、俺たちは誰からともなくその場で転んでしまった。


 もう駄目だ。捕まってしまう。


 諦め、その瞬間が訪れることを覚悟した俺は、倒れたまま固く目を瞑ってしまう。けれど何故か、深きものはすぐに俺たちを捕まえようとはしなかった。疑問に思って目を開き、後ろを振り返ってみると、そこには腕を伸ばした姿勢のまま静止している深きものの姿があった。


 こいつ、何をやっているんだ。パントマイムの筈が無いし、俺たちを捕まえるのを躊躇っているという感じじゃない。まるで何か、見えない壁にでも阻まれているかのような。なんて、襲われないことが分かるや否や、どうしても好奇心を抑えられず、静止している深きものをまじまじと観察し始めた。すると――。


ぼんら、こっちへ来い』


 曲がり角の先からそう声がかけられる。明らかな人間の声と、そして目の前には相も変わらず静止し続ける世にも珍しい怪物。その二つを頭の中で天秤にかけた結果、俺たちは満場一致で後者を選び、声の主を無視して尚も深きものを観察し続けた。


『…………、おい、おい坊! そんな魚面はどうでも良い! 早くこっちへ来ぬか! もう猶予が無いのだぞ! …………、えぇい‼ हांカーン‼』


 声の主が短く呪文を唱えると、目の前で静止していた深き者は今来た道をもの凄いスピードで吹っ飛んで行った。


『はぁ……はぁ……、ほ、ほれ、もうあの魚面はいなくなったぞ! 分かったらさっさとこっちへ来るのだ!』


 息を切らし、余裕も無さげに言う声の主。それに対して俺たちの恐怖はどこへやら。今まで追われる立場だったことも忘れ、いなくなってしまった深きものに名残惜しささえ覚えていた。


「あーあ、魚人間行っちまったじゃんか~」

「確かに。襲ってこないんだったら、もう少し見てたかったってのはあるよな」

「ねぇ二人共、見た? 今のやつ、脚にフジツボみたいのが付いていたよ」

「えぇー⁉ マジかよ⁉ 俺、見れなかったんだけど‼」

『戯け‼ 雑談などしておる場合か‼ 早う来いと言っておるであろうが‼ 早う‼』

「だってさ。どうするよ。なーんか、怪しくね?」

「怪しいってことは無いんじゃないか? それに多分、今の人が俺たちを助けてくれたんだろうし。まぁ、胡散臭くはあるけど」

「隼人、それ、全然フォローになってないよ……」


 好奇心の矛先を遠ざけたであろう声の主に対しる俺たちの反応は、概ね冷ややかだった。まだちゃんと顔を合わせていないのだから、こんなことを思うのは失礼かもしれないが、それでもなんというか、どうにも声の主の口調から胡散臭さのようなものが醸し出されているのだ。


「でもよー、この声のやつが味方だとは限らないんじゃねぇか? 今までだって俺たちを騙そうとしたやつがいただろ?」

「俺もそう思った。今深きものを吹っ飛ばして見せたのも、実はグルだったってこともあるかもしれないしな」

「そうそう。絶対ヤベーって! 引き返そうぜ!」

「そ、そうかなぁ……。うーん、そうかも……」

『お主ら、どこまで人を疑えば気が済むのだ⁉ この罰当たり共め‼ 先刻より猶予が無いと言っておるであろうが‼ さっさとこっちへ来ぬか‼ …………、えっ、ちょ……う、嘘であろう⁉ ま、待たぬか‼ 頼む‼ 頼むから、少しで構わぬから顔を見せてくれ‼』

「だってよ。どうする?」

「そういえば、振り子は?」

「…………、声の方は向いてるな」

「なんか、かわいそうだし行ってあげようよ。怖そうな感じはしないし」

「そうか? まぁ、博が言うんじゃしょうがねぇか」

「じゃあ、とりあえず見るだけ見てみるか。それで、ヤバそうだったらすぐに逃げようぜ」

「「おううん」」


 曲がり角に立ち、俺たちはそろりそろりと顔を覗かせる。するとそこには、青白い光に包まれた僧の恰好をした男が一人立っていた。


『ようやく顔を見せおったか。まっっっことに疑り深い坊たちよ。良いか坊たち、本願疑情ほんがんぎじょう。すなわち疑ぐることとは迷いを、延いては煩悩ぼんのうを生む。お主らの頃には悩み迷うこともやむなくあろうが、疑りの念は心を乱す。今は分からずとも、悟りの道を進むならば――』

「話が長ぇよ、おっさん。ヨーヨー・・・・が無いって言ってたのはおっさんの方だぞ‼」

『よ、よおよお? …………、おぉ、猶予か。うむ、三百年の時を経たのだ。音調も変わろうというものか。さもありなん。…………、そ、それよりも小童め、今拙僧のことを……お、おっさんと言うたな⁉ 無礼者‼ 肉体が滅びて三百年経とうとも、生前は数え年で三十七であるこの拙僧を、あろうことかおっさんとは何事か‼』

「三十七歳って、それはもうおっさんじゃねぇのか?」

『くわッ⁉ こ、ここ、このッ、こ、小童めッ……』


 肉体が滅びて三百年? それに、法衣を身に纏ったこの恰好は。もしかして、この人。


「あの、つかぬ事をお聞きしますが、もしかしてあなたは、茂垣蒼蓮さんではありませんか?」

『……お主は拙僧をおっさん呼ばわりはせぬのか。うむ、思ったよりも礼節を心得ておる利口なわっぱだ。それにしても、名乗りを上げるにこれほど手間を取ろうとはな。全く、昨今の者は屁理屈ばかりでいかん。三百年前の頃は、大人も童もそれはもう心打たれたと言わんばかりに耳を傾げて拙僧の話を――』

「あの、それでつまり、結局あなたは何者なんですか? 猶予が無いなら早く話を進めたいのですが」

『くっ……少しは利口な坊かと思えば、この口の利き方たるや、なんとも可愛げの無い……。まぁ良い、一刻を争う事態であることには違いないからな。しからば……んんッ! やあやあ! 遠からん者は音に聞け! 近くば寄って目にも見よ! 数多の魔のもの千切って退け! 西に東に歩いたならば、悪鬼羅刹あっきらせつも震えておののく! 何者なりやと問うたなら、聞いて驚け稀代の天才! そう! 我こそが! 茂垣蒼蓮でーあーるー‼』


 キン、キン、キキキン! と、道具も無いのに拍子木ひょうしぎを打ち鳴らすような音を鳴らし、大見得を切るかのように僧がそう・・名乗った。なんか、下らない親父ギャグを言ったような感じになってしまった。そうではない。断じて違う。

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