ニア・ヒア

 隼人君が部屋を出て行ってから、二人はずっと黙ったままだった。


 こういうとき、私はどう声をかけてあげたら良いのだろう。男の子同士のことだし、喧嘩をした理由が理由なだけに、なんて声をかければ良いのかも分からない。


 そもそも、私が悪かったのだ。博君の提案に、もしかしたらと思ってしまった私の責任だ。あのときすぐに博君の提案を跳ね除けていたなら、こうして喧嘩をすることなんて無かったのだから。


 だけど事実、例え五人の術者が五体無事に、それも万全の状態でこの場に辿り着けたとしても、復活した苦痛龍を退けることはできないだろう。だから正直、この子たちに全てを委ねるか否かで揺れてなどいないと言えば嘘になる。けれど、子供にそんなことをやらせるなんて……。いや、それ以前に、まずはこの子・・・のことをどうにかしないと――。


「ちょ、ちょっと‼ ご、ごめん‼ 俺、俺‼ しょ、しょんべん行ってくる‼」


 そう言うと、あっという間に大地君が部屋を飛び出してしまった。その無邪気な振る舞いに、一瞬、心の内で張り詰めていたものが緩みそうになったそのとき――。


「…………、――ッ⁉」


 視界の先、私の目の前に座る博君のすぐ傍に、それは、いた。朽葉色くちばいろのボロを纏った人型。顔は見えない。その見えない顔を無理にでも見ようとしたなら、恐らく私はすぐに正気ではいられなくなる。


 やはりこの子は、あの“名状し難きもの”の片鱗に触れて……。だけど、まだそう時間は経っていない筈。なのに、この近さはなんだ。例えかの神に魅入られたとしても、短時間でここまで近くに寄って来るなんて。それは即ち、この子との親和性がそれ程までに高いということなのだろうか。


 駄目だ、悟られるな。私の動揺を悟られたなら、この子を不安にさせてしまう。もしもこの子の心がこれ以上恐怖に呑まれたなら、あっという間に取り込まれかねない。これはただの影。まだ取り込まれてはいない。ならば、今の私でもどうにかできる――。


おーん‼」


 印を結び、呪文を唱える。するとこの場に滞留していた邪悪な気が霧散し、遠ざかって行く。


「えっ……あ、あの……」

「ちょっとおまじないを掛けさせてもらいました。少しでも皆さんが、仲直りできますようにって」

「……そうですか。ありがとうございます。……僕、どうしてあんなことを言っちゃったんだろう……。本当は凄く怖くて、苦痛龍を退治するなんて、そんなことできっこないんだって、ちゃんと分かっていたのに……」


 そう言うと、博君は泣き出してしまった。私は胸が締め付けられる思いで博君の元へ駆け寄ると、頭を抱いて撫でる。私はなんて愚かなのだろう。こんな子供に、一瞬でも世界の命運を託そうとするなんて。


「良いのですよ。博君は、いえ、隼人君も大地君も、誰も悪くないのですから」


 そうだ、私たち大人が、術者が簡単に諦めて良い筈が無い。できるかできないかじゃなくて、やるのだ。


 そう心に決意したそのとき、突如違和感を覚える。違和感の正体は、私の腕の中にいる博君からだ。それを確かめようと、博君の顔に視線を落とすと――。


「ひっ……」


 博君の目が真っ黒に染まっていた。顔に影が差しているとか、黒目が大きいというのではなく、それはまるで目の中に虚空が開いているかのよう。


「あ、の……碧蓮さん?」

「な、なんでもないのですよ」


 気付いたときには、博君の目は元通りになっていた。けれど、これ以上違和感を抱かせまいと、私は再びギュッと博君の頭を抱き、顔が見られないようにする。


 無理だ。私の力では、この子の中にあるもの全てを取り除くことはできない。


 こんなことを考えるのが間違っていることは百も承知だ。けれどもし、名状し難きものと、“黄衣の王”、“ハスター”と敵対している“クトゥルー”ならば、或いはこの子の中のものを遠ざけることができるのではないか。ならば、この子たちを送り出すことが、博君を助けることに繋がるのではないかと。


 いや、そんなことをしては本末転倒というものだ。毒で毒を制すなんて、そんな生優しいものでは済まない。しかし、ならば私は、この子たちに何をしてあげられる。一体どうすれば……。


 そう私は、自らの無力さを呪い、ただ何かに縋るように迷想することしかできなかった。

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