地を穿つもの

 石段を上り終え、疎らに石畳の敷かれた山道を歩く。時計に目をやると、時刻は既に十五時を過ぎた頃。本来夏のこのくらいの時刻ならば、まだまだ日が高く明るい筈なのに、今は空がどんよりと曇っていることに加え、山林の木々が日光を遮って、道の先を見通すことができない程に暗かった。


 それにしても、どうしたのだろう。俺たちはさっきまでと同じ森を歩いている筈なのに、先へ進むに連れて先ほどまでの暖かさが失われ、だんだん暗く、どんどん冷たくなって、まるで拒絶されているかのような印象に変わってゆく。


 け・はいいえ――。


 気が付けば、森からは色と匂いが消え、頭上から聞こえる雨と木々の騒めきも失せていた。


 はい ぐはあん おるる・え――。


 すると次第に地面が揺れ始める。けれど俺たちは足を止めることなく、前へ、目の前に広がる暗闇の方へ歩まずにはいられない。


 えぷ ふる・ふうる、しゃっどめる いかん—いかす――。


 あと少し。もう少し。目と鼻の先に、手を伸ばせばすぐに暗闇が、それが迫る。俺たちは三人同時に手を伸ばし、それに触れようとして――。


 そのとのき、ヂッという音で俺たち三人は同時にハッとする。音の出所は、博のポケットの中からだったようだ。博は不思議そうな顔をして自分のポケットを探ると、中から例の星のマークに目玉が描かれた例のお札が出てきた。


「おい博、お前そのお札、持って来たのかよ」

「えっ、あ、うん。なんか、持って行った方が良いかなって、そう、思っ……て……」


 この場でただ一人、視界の先にとんでもない物を見たかのような表情を浮かべたまま硬直する博。それに釣られ、俺と大地も博と同じ方へ顔を向けると――。


『おるる・え ぐはあん』


 声とも鳴き声とも分からない音と共に、視線の先に突如地中から怪物が現れた。


 それは、大型の動物よりも遥かに巨大なミミズ……いや、蛇……いや、そのどれとも異なり、他に例えようのない別の何かであった。怪物はうごめくように体をよじると、幾本もの触手で構成されている先端部分を解き、中を俺たちの方へ見せる。そこには灼熱と、とんでもない悪臭を伴う口腔が顔を覗かせていた。


 怪物からは、人間には決して理解の及ばない確かな知性のようなものが感じられる。但しそれは、人間とは決して相いれることの無い、邪悪で、醜悪で、明らかな悪意であることには違いない。


 もしあと一歩でも前に踏み出していたなら、きっと俺たちは――。


「隼人‼ 大地‼ 早く‼」


 声を張り上げたのは、他でもない博だった。俺と大地は一瞬呆気に取られたけれど、ハッとして、先頭を走る博を追う。するとすぐに後方で地響きを伴いながら、ゴリゴリ、ズルズルと、地面を穿つような音が聞こえてくる。後ろを振り返らないでも分かる。あの怪物は、地面の下から俺たちを追いかけて来るつもりなんだ。


 早く。速く、先に進まなくちゃ。そうは思うのに、時間が経つに連れて頭がぼんやりとしてしまって、体を動かすのに必要な危機感がどんどん薄れてゆく。そうだ、この感覚には覚えがある。昨夜山の方から感じた、あの気配と同じものだ。それに今日の夜明け前、地響きと共にやって来たのもこいつらだったに違いない。


 ここへ来て、どっと疲労感が押し寄せて足を止めてしまいそうになる。いや、それ以前に、思考と体がばらついて足が上手く体が動かせない。それでもどうにか前に進もうと、俺たちは必至で足を動かした。


 走り続けている内、突如開けた場所に出る。しかし広場の中頃まで辿り着いたそのとき、不意に足がもつれて転んでしまった。俺はどうにかその場から立ち上がろうとしたけれど、体が地面にくっついてしまったように離れられない。


「隼人⁉」

「隼人‼ どうしたんだよ⁉ 早く立てって‼」

「――ッ、――⁉」


 声が出せなかった。すると俺はこの状況を瞬時に理解する。姿こそ見せてはいないものの、きっと俺はあの怪物に捕まってしまったのだと。


 俺はもう助からない。そう判断して、「逃げろ」と、大地と博にそう視線で訴えかけるも、二人はそれを無視して、俺を地面から引っ張り起こそうとする。けれど二人の力をもってしても、地面に張り付いた俺の体はピクリとも持ち上がりはしなかった。


「おい、なんだよこれ⁉ クソッ‼ ふざけんなよ‼」


 癇癪を起しながらも、尚も地面に張り付く俺の体を持ち上げようとする大地。しかしそんな大地を嘲笑うように、次第に地面が揺れ始めた。駄目だ、あいつが来るぞ。止めろ大地、博。さっさと逃げろよ。あの怪物がもうそこまで来ているんだ。


「――ッ、に……へ……」


 目で訴えても聞こうとしない二人に向かって、どうにか言葉で訴えようと必死で声を出そうとするも、俺の口からは喘ぐように空気が漏れるばかりだった。そして振動がピークに達した次の瞬間、地面を突き破って怪物が姿を現し、ガバッと口を開いて俺たちの方へ向く。


 狙いは間違いなく俺だ。だってのに、こんな風に一か所に固まっていたんじゃ、全員一緒にやられてしまう。頼むよ、大地、博。もう俺のことは良いから、さっさと逃げてくれよ。このままじゃ、お前たちまで死んでしまうんだぞ。俺の所為でお前ら二人を死なせるなんて、俺、絶対に嫌だよ。


 そんな渇望にも似た願いは聞き入れられないまま、怪物の大きく開いた口がもうそこまで迫る。俺は間もなく訪れるであろう凄惨な光景を見ないようにと、固く目を瞑ろうとした――そのとき、目の前で信じられないことが起こった。怪物の前に、博が立ちはだかったのだ。


「止――逃げッ――」


 無理やり絞り出した声。しかしそれを掻き消すように鳴る甲高い音。一瞬目に映ったのは、俺たち三人の周りを囲うように張られた薄い膜のようなもの。それに触れた怪物は、硬い壁にでもぶつかったかのように跳ね返されていた。


 すると僅かなりとも怪物を退けた影響でか、今まで体を押さえつけていた不可視の力が弱まって、体の自由を取り戻した俺は、真っ先に前に立つ博の方へと視線を向ける。博の手の中には例のお札があった。今のバリアは、お札の力なのか。でもそれにしたって、あの気弱な博がこんなことをするなんて。


 と、感心して気が緩んだそのとき、体を後方に逸らしていた怪物はゆっくりと体を起こすと、口を開いて再び俺たちの方へと突っ込んで来た。それに対して博は迎撃しようとお札をかざし、再び俺たちの周りにバリアが展開される。が、怪物がそれに接触した瞬間、バァン‼ という激しい破裂音と共に、博の手の中のお札が弾け飛んだ。


「うわぁ⁉」


 今の衝撃で後ろに吹き飛ばされた博。俺たちはすぐに博の元へ駆け寄ろうとしたが、俺も大地もその場からピクリとも動けなくなってしまっていた。いや、もう足を動かすどころか、瞬き一つ、呼吸をすることさえもできない。


 クソ、またこいつの力だ。どうする、もうお札は残ってない。走って逃げるにも、無謀を承知で戦おうにも、体が動かないんじゃどうしようもない。どうする。どうするどうする、どうしよう。無理だ。もう打つ手はない。そう思った瞬間――。


「う、お、お、おぉぉぉ、ぁ、あぁぁぁぁぁぁッ‼」


 俺の隣で大地が咆哮を上げる。なんてやつだ。俺は呼吸することもままならないのに。だけど、そんなことをしたって……。


 背後から激しい音を立てて迫る気配。やはり怪物は大地の咆哮に怯んだ様子も無い。今度こそ本当に終わりだ。


 諦め、思考を放棄しそうになったそのとき、突如雨が止んだ。すると空の上から温かい光が降り注ぎ、今まで怪物の力で固まってその場から動けなかった俺たちの体は、緩やかに自由を取り戻す。後ろを振り返ると、怪物は俺たちの僅か後方でピタリと静止していた。


 何が起こったのか、訳も分からずその場でぼっ立ちしていると、どこからか人の声が聞こえてくる。それはまるで呪文のようで、だけどそこに敵意は無く、むしろ聞いていると心が安らぐようだ。対して今まで静止していた怪物はブルブルと体を震わせ、のたうち回り、明らかに苦しんでいるようだった。


 そうしている内、天から降り注ぐ光が徐々に怪物へ収束され、光を浴びた怪物はジュウジュウと音を立てて全身から白い煙を吐き出し始める。するとついに耐えられなくなったのか、怪物は悲鳴を上げながら地中へと潜って行った。


「助かった、のか……?」

「お、おぉ……」

「あっ、それより博!」

「そうだ‼ 博‼」


 俺と大地は博の元へと駆けて行く。倒れていた博の体を起こしてやるも、気を失っているようで、俺たちは何度も博の名前を呼び続けていると――。


「博‼ おい博‼」

「博、起きろって‼ なぁおい‼」

「……うーん……。お母さん、何ぃ……? …………、えっ、んん⁉」


 そんなことを言いながら意識を取り戻した。


 良かった。本当に良かった。うん、良かったことには違いない。違いないのだけれど、寝ぼけた様子で俺たちのことをお母さんと呼んだことがあまりにも可笑しくて――。


「ダハハハハ‼ お、おい隼人‼ お前はいつから博の母ちゃんになったんだよ⁉」

「ク、ククク……。ち、違うって。今のは俺に言ったんじゃないって。お前が博のママだろ。な、大地ママ……? ククク……」


 笑う俺たちを見て暫くポカーンとしている博。しかし少しすると頭がはっきりしたのか、俺たちが何に笑っているのかを察したようで、顔を赤らめたかと思えばプルプルと震えだし――。


「うるさーい‼ 笑うなぁぁぁぁぁ‼」


 博が大声を上げた。いや、大声どころか怒鳴ったというのが正しい。そんな初めて怒鳴った博を前に、俺たちは圧倒されて尻もちを付いてしまう。


「お、落ち着けよ博! ご、ごめんって。ちょっとからかいすぎたよ。いや、本当に……」

「ひ、博さん‼ す、すんませんっした‼ 俺たち、ちょっと調子に乗り過ぎてました‼」


 その場で平謝りする俺と大地。俺たちは今日、普段おとなしいやつが本気で怒るとマジで怖いということを思い知らされてしまった。つうか、大地に至っては博にさんを付けた上、土下座までしている始末だよ。


 さて、博の様子はどうだろうか。そう思ってチラリと顔を盗み見ると、顔は真っ赤で、息は荒くて……あぁ、これはまだかなり怒っているな。いや、確かにこれは俺たちが悪いのだが、それにしたって怒り過ぎだろう。なんか、いつの間にかいつものどもり癖も治っているし。もうどうしたら良いんだよ、これ……。


 そうして、ある意味怪物に追いかけられていたとき以上に困った状況に陥っていると――。


『みなさん、怪我はありませんか? さあ、お寺まではあと少しです。私が道を示しますから、あともう少しだけ、頑張って下さい』


 と、どこからか声が聞こえてくる。辺りを見渡していると、視界の先に空から微かに光が差し、まるで俺たちを導いているようだった。


「すげぇ。この声、どっから聞こえてんだ?」

「罠……じゃ、なさそうだな」

「うん。なんか、大丈夫な気がする」

「じゃあ、バンジョー・イッチってことで良いな?」

「大地、満場一致だよ」

「つうかお前のイントネーションはいつもどこかおかしいんだよ。そもそもそれ、ちゃんと意味分かってんのか?」

「おっ? …………、……おぉ‼」

「ふふ、本当に?」

「ふっ、じゃあ行くか。バンジョー・イッチでな」

「あっ‼ おい隼人‼ 俺が先頭だからな‼」


 そうして気付いたときには俺たちはいつもの調子を取り戻し、光が差す道を歩き始めた。

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