山の領域

 その後、最初の一体をどうにか振り切った俺たちだったが、来た道を戻ってみると、建物の中も外も既に魚人間で溢れ返っていて、村に長く身を隠せるような場所は残されていなかった。


 そこで俺たちの取った選択は、簡単に言ってしまえば強行突破作戦だ。別にやけくそになった訳じゃない。これはちゃんと勝算があっての作戦だ。と言うのも、魚人間から逃げている際に、ある二つのことが分かったからである。


 理由その一。こいつらは目も耳も俺たちよりは良くはないということ。


 まず目だが、既に最初の魚人間のときにも気付いていたけれど、余程近付かれでもしない限り、こいつらは俺たちのことを認識することができない。恐らく大人の歩幅で一歩分も離れていれば、近くで動いていても気付かれやしないだろう。


 また耳は目よりは利くようだけれど、雨も降っている影響もあってか、視覚の範囲外であるならば、静かに足音を立てている分には近寄っては来たりはしない。


 理由その二。魚人間の足はあまり速くはない。


 隠れながら観察していて分かったことだが、一口に魚人間とは言っても、こいつらは大きさや見た目に個体差がある。恐らく種族が違うのだろう。しかし全ての魚人間に共通しているのは、歩く際に脚ががに股になっているということ。特に走る際にはその癖が顕著となり、子供の俺たちでも十分に逃げ切ることができるのだ。


 以上二つの理由から、俺たち三人は強行突破作戦を決行したのだった。だった……の、だが――。


「急げ急げ‼ 早く‼ こっちだ‼」


 最早声を出すことを躊躇いもせず、地図を見ながら二人を誘導する。後ろを振り返ると、何体もの魚人間がベタベタと足音を立てて追いかけて来ていた。


 こうなった原因は、そう、この大地アホにある。と言うのも、このアホ原始人は余裕を覚えた途端、どれくらい近付いても大丈夫かとか、どのくらい音を立てても気付かれないかとか、まるでチキンレースのような実験を始めたのだ。


 いや、それだけならまだ良かった。だが限度というものを知らないこいつは、あろうことか魚人間の体にタッチまでしやがった。そうなったら流石にバレない筈も無く、俺たちはその一体から逃げることとなり、気付けば二体が三体、三体が五体、そして現状、恐らく村中の魚人間に追いかけられる羽目になっていたのだった。


 しかしまぁ確かに、こいつは底抜けのアホだし、こうなったのは間違いなくこのアホが原因だろうし、こいつは尋常ならざるアホなのだが、俺も博もそんなアホ大地の挙動を見て楽しんでいなかったと言えば嘘になるので、この世界一のアホ一人だけを責めることはできないと言えばそうなのだが。


 でもそれにしたって、まさかタッチするとまでは思わないじゃん……。


 しかもこいつの第一声が謝罪ではなく「やべぇ‼ めっちゃ硬くて冷てぇ‼ それになんかヌルヌルしてる‼」とかって言うのだから、呆れて怒ることもできなかった。


 そして今、そんな余裕めいたことを考えている余裕も無くなりつつある。既に十分近く走り続けていた俺たちの息は切れる寸前で、脚は熱く、正直、かなり限界が近い。


 地図で見る限り、寺の入り口たる山道まではあともう少し。恐らくここまでは辿り着けるだろう。が、その先も逃げ続けられるだろうか。現状体は限界寸前で、最早雨で濡れた服の重さでさえも些細なことと割り切ることができない。足が遅いから安心なのだと、そう高を括っていた魚人間と俺たちとの距離は着実に縮まり、それがまた更にこちらの精神を圧迫する。


 このままでは捕まってしまう。真っ先に博が脱落して、その次に俺だ。もしかしたら、体力のある大地は助かるかもしれないが、大地一人だけでは目的地へ辿り着けはしないだろう。


 疲労で、酸欠で、思考はどんどん悪い方向へと傾く。ならばもう足を止めて、さっさと楽なってしまおうか。そう考えたそのとき、視界の先に、山道への入り口が目に入った。


「――ッ‼ あ、そこだッ‼ あと、少しッ‼」


 肺に残っていた酸素と、微かに沸いた希望を燃料に、俺たちは走った。そして山道に辿り着いた瞬間、俺は今まで以上の強い絶望感を覚える。上を見上げると、石の階段が視界の遥か先にまで続いていたからだ。


 今の俺に、これを上り切る体力は残っていない。途中でやつらに捕まってしまうに決まっている。なら、もう――。


「うるおぁぁぁぁぁぁぁッ‼」


 どこにそんな体力残っているというのか、雄叫びを上げながら階段を駆け上がる大地。そんな大地に触発されたからか、一瞬沸いた諦めの感情が吹き飛ばされ、俺と博は大地に引っ張られるように階段を駆け上がった。


 だけど、体の疲労は誤魔化し続けられない。息が切れる。酸欠で視界が歪む。気付けば二十段も上っていないような場所で立ち止まり、俺は不意に下を見てしまう。するとそこには、俺よりももっと下の方で膝を折る博の姿があった。


 「博‼」そう声を掛けようとしたけれど、今の俺には擦れた息を吐き出すのが精々で、声にはならなかった。後戻りをしようにも、脚が言うことを聞かず、その場で片膝を付いてしまった。


 博、諦めちゃ駄目だ。奴らが追って来る。一段でも良いから、先へ――いや、そうは言っても、俺ももう限界で――。


 その瞬間、かすむ俺の視界の横を、大地が駆け降りる。大地は博の所まで下りて行くと、肩を組み、無理やり階段を駆け上がり、すぐに俺の所にまで上がって来て――。


「隼人‼ 来い‼」


 大地は博と肩を組んだまま、俺の方へと手を伸ばしていた。俺はその手を掴むと、一気にぐんぐん上へと引き上げられる。


 揺れる体と視界。その最中、俺の目に一瞬映ったのは――。


「――ッ、だ、いち……。だい、じょぶ、だから……。と、まれ……」

「大丈夫だ‼ 俺がどうにかする‼ 諦めんな‼」

「ち、が……。い、から……とま、れって……‼」


 俺はその場で踏ん張り、大地の腕を引っ張り返す。すると大地はバランスを崩し、俺たち三人はその場で転んでしまった。


「ってぇー……。隼人‼ お前、何すんだよ⁉」


 返答する気力も無い俺は、息を切らしながら無言で山道入口の方を指差す。すると。


「追って来て……ない……?」


 そう。魚人間たちは山道の入口から俺たちを見上げるばかりで、そこから一歩も階段を上がろうとはしていなかった。



 ***



 石段の上に座り、息を整えようとして暫くした頃、山道入口の魚人間たちはどこかへと引き返して行った。


「あいつら、どっか行っちまったな」

「あぁ。でも、どうしてあそこから俺たちを追ってこなかったんだろう。村ではあんなにしつこく追いかけて来たってのに」

「疲れたんじゃねぇの? で、階段を上るのが嫌になったとか?」

「そんな、まさか……」

「ま、良いじゃねぇか。それより博、大丈夫か?」

「う、ん……。もう、大丈夫……」

「隼人は?」

「……別に」

「そっか。でもま、もうちょっと休憩な‼ 俺も疲れちまった‼」


 嘘つけ。疲れているやつが、そんなに張りのある声が出せるかよ。俺たちに気を使いやがって。この体力アホが。


 とは言え、休めるのはありがたかった。博程消耗してはいないけど、俺もまだ立つのが辛い。地図を見る限り、山道を上ってからも暫くは歩かなくちゃいけないみたいだし、また魚人間に追いかけられないとも限らない。となれば、今ここで休んでおかねば次はいつ休めるかも分からないのだ。


 呼吸を整え、余裕が生まれると、次第に周囲の景色が鮮明に飛び込んで来る。


 遥か頭上から、ざあざあという音が聞こえる。これは石段の左右を囲う背の高い木々の葉が、風と雨を遮って鳴る音だ。なるほど、道理で。今もしっかりと雨の音はするのに、突然雨足が弱まったように感じたのは、これのお蔭だったのか。


 続いて鼻に訴えてくるのは、苔むした緑と土の匂い。そこに細かい雨の湿った空気が加わって、さっきまで感じていた気持ちの悪い蒸し暑さと、村中に漂っていた魚人間の生臭ささを洗い流してくれるようだ。


 そうして森からの恩恵に身を任せていると、体の疲れが薄れ、疲れ切っていた心も持ち直したように感じる。三人が誰ともなく顔を見合わせると、立ち上がり、俺たちは再び石段を上り始めた。

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