第六章 道中
魚人間
音が立たないよう静かに玄関の引き戸を開けると、外はしとしとと雨が降っていた。屋根に当たる音で雨が降っていることは分かっていたのだが、外に出て、普通ではないということに思い至る。と言うのもこの雨、強い塩気を含んでいるのだ。それもただの塩水ではなくて、海水のような磯の香りを含んでいる。独特の匂いに加え、生ぬるく、じめっとまとわりつくような空気も相まって、陸の上に立っているにも関わらず、まるで海の中にいるよう。
また空を見上げると、空を覆う黒雲は大きく渦を巻き、空そのものが意思を持ってこっちを睨みつけているかのよう。そんな空模様を前に、俺たち三人は誰一人として長く上を見ていることができなかった。
空を遮るように、宿の傘立てに一本だけあった大人用の大きな赤い傘を開くと、大地を中心に三人で固まるように肩を寄せ合い、俺たちは目的の場所を目指して歩き始める。
所々塀や建物の一部が壊されていたり、斧や
疲れた頭の奥底に罪悪感が沸きそうになったそのとき、視界の先に背の高い何かがこっちから遠ざかるように向こうへ歩いて行くのを見つけた。顔を見合わせると、俺たち三人は目的の方向からズレて歩き始める。大人がいたなら心強いと考えたのもあるけれど、他にも捕まらずに無事な人がいるのかもしれないと思ってしまったら、少し気分が軽くなったような気がするからだ。
けれど向こうはかなり背が高い上、こっちは子供が三人傘を持って寄り添っているのだから、当然歩幅に差ができてしまい、近付く為に小走りにならざるを得ない。それに雨と傘で視界が悪く、視認するのにどうしても近付かなければならなかった。
そうしてあと数歩のところまで辿り着いて、声をかけようかと考えたそのとき、俺たちは大きな間違いをしていたということに気付かされる。人だと思って近付いたそれは、人間ではなかった。二メートルを優に超えるそれの全身はびっしりと鱗で覆い尽くされ、
ならばこれをなんと例えよう。そうだ、“魚人間”。昨夜外で誰かが言っていたその言葉。それ以上他に適切な例えが見つからない程、目の前の怪物の姿に合致してしまう。
立ち止まって呆然としていると、あまりの驚きでか、大地は手に持っていた傘を手放してしまい、ボン、と音を立てて地面に転がると――。
「グルォ?」
粘性のある水が泡立つような音を立てて、背中を向けていた魚人間は体を反転させると、ギョロリとした目をこちらに向けた。
逃げなくては。そう考えはするものの、足がすくんで動けない。しかし向こうにはこっちの都合など関係無いと言わんばかりに、ベタ、ベタっと重たい足音を立て、真っすぐこっちへ向かって来る。魚人間との距離は最早目と鼻の先。ヌッと伸びる手。
駄目だ、やられる――。
その場から動けないまま、ギュッと目を閉じたそのとき、バキバキと何かが折れるような音が聞こえた。恐る恐る薄目を開けると、魚人間は大地の落とした赤い傘を片手で掴んでへし折り、俺たちの方には目もくれず、不思議そうにそれを観察していた。
そういえば、魚の視力は人間ほど良くはないと聞いたことがある。ということは、もしかしてこいつ、俺たちが見えてないのか? だとしたら、音を立てないよう静かに歩けば、上手く逃げ出せるかもしれない。
俺は二人の肩を叩くと、「目、見えてない。静かに、歩く」というジェスチャーを試みて、意思を伝えようとする。二人はすぐに頷いて、俺たちは後ろ歩きでその場を後にしようとした。の、だが――。
「へっ……くちぃ……」
と、博が小さくくしゃみをした。咄嗟に口元を抑え、「マズい」という表情をする博。しかし、そんなことをしてももう手遅れだ。傘の残骸を観察していた魚人間の顔はこちらを向き、ギョロギョロと目を動かして俺たちのことを探っている。
…………、いや、大丈夫、か。まだバレてはいないようだ。よし、暫くこのままじっとしてやり過ごし、頃合いを見計らって、また後ろ歩きで――。
「へ……へっ……へぇっくしぃッ‼」
逃げよう――という作戦は、大地の特大のくしゃみで水の泡となった。魚人間は今度こそ俺のことを完全に認識したようで、「グルルォ!」と唸り声を上げ、こっちへ向かって一直線に走って来た。
「に、逃げろ‼」
そう声を掛けると、俺たちはその場から一目散に逃げだした。
「クソ‼ お前らなんでだよ⁉ なんでこんなときにくしゃみなんてするんだよ⁉」
「ご、ごめん!」
「で、でもよだってよ、しょうがねぇだろ⁉ 出ちまったもんはよ⁉」
「…………ッ‼ つうか大地、お前なんでまだ後ろ向きに走ってんだよ⁉ もう俺たちのことはバレてんだから、ちゃんと前を向いて走れよ‼ こんなこと言わなくても分かるだろ⁉」
「お……? ……おぉ‼ そうだな‼」
俺はこのとき、捕まったらどうしようとか、他にも魚人間がいたらどうしようだとか、そんなことよりも、こいつらと二人と一緒に行動していて、ちゃんと無事に目的地の鎮痛時まで辿り着くことができるのだろうかって、そっちの方が心配なのであった。
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