物忌

 あらゆるものから解き放たれた俺は、晴ればれとした気分で手を洗っていた。今日という日、俺は人間の素晴らしさを再認識し、今後はそれらすべてに感謝するべきではないのかと、大げさにもそう感じずにはいられなかった。


 なんて、そんな詩的なことを考えながら、ポケットからハンカチを取り出し手を拭い始めた頃――。


「うぉぉぉぉぉッ‼ 快便快尿、スッキリ爽快だぜぇぇぇぇぇ‼ いやぁ、人間って素晴らしいなぁ‼ わっはっは‼」


 デリカシーの欠片も無い言葉と共に大地のやつが出て来た。ただ言葉の選び方にこそ配慮の欠片も無いと言えるが、今こいつの言った言葉の内容と俺の考えに大差が無いことに気が付いてしまい、折角の爽快な気分が残尿感にも似た嫌な感覚に変わってしまっていた。それに加え、バシャバシャと手を洗い、シャツで雑に手を拭いている様もまた、俺の不機嫌さに拍車を掛ける。


「おろ? そう言えば博は? まだうんこか?」


 またこいつは。いや、それよりも、大地の言葉で先ほど覚えた違和感の正体に気が付いた。そうだ、廊下を走っている最中、どこにも博の気配が無かったのだ。俺は慌てて残ったトイレの個室を覗いて見るも、やはりそこには博の姿が無い。そんな、まさか……。そう思ったそのとき――。


『「ぎゃぁァァぁぁアぁァァああアぁぁぁぁァッ‼」』


 どこからか叫び声が聞こえてきた。それは間違いなく聞き慣れた博の声であったという確証が持てる一方、俺の耳には、同時に別の何かが、博と共鳴するように叫んでいたようにも聞こえた。そもそもあのおとなしい博がこんな叫び声をあげるなんて、一体何があったというのか。


「おい、今の‼」

「博だ……」


 俺と大地は顔を見合わせると、部屋までの道を大急ぎでダッシュする。その途中、やけに廊下が滑る原因に思い至った。廊下の上、そこには幾つもの足跡があり、それらが滑る原因だったのだ。しかもその足跡は明らかに人間のものとは異なり、大きく、指と指の間に水かきのようなものがあって、そして異様に生臭い。


 これが、昨日俺たちの部屋の前を行き来していた何かの正体……いや、今はそんなことよりも――。


「「博‼」」


 部屋を覗き込んでみても、そこに博の姿は無かった。なら、今の声は。


「おい隼人、あっちだ‼」


 部屋に博がいないことを知ると、大地は左の道を指差している。


 まさか、博はあの部屋に向かったのか。夜は乗り切ったのに、どうしてそんなことを。晴美さんの言っていたことから察するに、そこには得体の知れない何かがいるんじゃないのか。そうやって考えを巡らせて一瞬遅れた俺を置き去りにして、大地のやつはさっさと部屋を飛び出してしまった。


 クソッ、あの原始人め……。いや、考えるよりも、今は大地の方が正しいかもしれない。覚悟を決めると、俺は急いで大地の後を追う。が、大して走りもせずに大地の背中に追い付いた。突き当りを曲がってすぐのところに大地が立っていたからだ。


「おい、大地! …………、おいって!」


 声を掛けても反応しない大地の背中をまたぎ、通路の先に視線を向ける。するとそこには、襖の引手に手を掛けたまま倒れ伏している博の姿があった。


「博!」


 急いで博の方へと駆け寄ると、すぐに体を起こしてやった。すると、俺は博のそのあまりの異様さに一瞬怯んでしまいそうになる。白目を剥き、口はカッと開かれ、恐怖に歪んだ顔。一体、何を見ればこんなことになるんだ。


 体は小刻みに震え、完全に気を失っているようだが……まずい、息をしていない。いや、正確には息をしていないんじゃなくて、ずっと吐き出しっぱなしになっているかのような。腹に目をやると、肋骨が浮き出るくらいにへこんでいる。まさかさっきの叫びを上げて以降、ずっとこうしているのか。ヤバイ、どうしよう。俺は一体どうすれば――。


「隼人‼ そっちの肩持て‼」


 声を掛けられてハッとする。気付けば大地が倒れている博の腕を自分の肩に回し、立ち上がろうとしていた。俺は言われるがまま博の開いている方の腕を自分の肩に回し、せーのの掛け声で立ち上がると、急ぎ足で歩き始めた。


 博を担ぎながら大地の誘導に着いて行くと、向かった先は俺たちが寝泊まりしていた大部屋だった。大地は迷うことなく部屋の中央まで歩いて行き、電灯の真下に博を寝かせる。


「…………、……おい、大地――」

「大丈夫だ」


 言葉を遮られた俺は、その理由の無い説得力を前にもう何も言うことができなかった。それでもすぐに何も起こらない現状を前に、やきもきしながら行く末を見守っていると、電灯の紐に括りつけられていたお札が、ヒラヒラと独りでに博の腹の上へと落ちた。少しして、ポゥと淡く光るお札。その光が静かに博の中へと入り込んだかと思えば――。


「――カッ、ヒュウッ‼ …………ッ‼ ゲホッ‼ ゲホッ‼ ゴホッ‼」


 息を吐き出そうとするばかりの博は咳き込みながらも正常な呼吸を取り戻し、血の気を失って真っ白だった顔には赤みが戻っていた。


「おい博‼」

「博、大丈夫か⁉」

「ヒュー、ヒュー……ゲホ……。えっ、隼人も大地もそんな顔して、どうしたの? 何か、あったの?」

「何かあったの、じゃねぇよ‼ すっげー心配したんだぞ⁉」

「そうだよ‼ 博お前、あの部屋の前で何をしていたんだよ⁉」

「部屋の前って……どこの部屋?」

「晴美さんが入るなって言っていた部屋だよ‼ お前、あの部屋の前で倒れていたんだからな‼」

「入るなって言われた部屋? …………、……いや、ごめん、よく分んない。分かんないけど、なんか、凄く調子が良くて――あっ……」


 と言うのと同時、博のズボンの内側から盛大に水が溢れ出す。そうだ、突然色々あって忘れていたけれど、博は今までずっとトイレを我慢していたのだった。

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