第五章 不穏な朝
恐怖をも上回るもの
「青瀬ッ‼」
叫ぶように飛び起きると、そこは俺たちの泊まっていた宿の部屋だった。目を覚ます直前まで俺は何かの夢を見ていたような気がするのだが、寝起きのせいかどうにも思い出せない。しゃっきりとしない頭のまま、暫くそうしてボーっとしていると、不意に気を失う前のことを思い出し、ハッとして部屋を見渡す。
大地と博は……寝息を立ててまだぐっすりと眠っていた。時計の針は昼の十二時を指している。どうやら俺たちは気を失ってから六時間近くも眠っていたらしい。襖は閉まったままだけれど、とりあえず何かの気配は感じない。
俺たちは助かったのだろうか。そうだ、お札は――。
改めて注意深く部屋を見渡すと、部屋中に貼ってあったお札は跡形もなく散り散りになって砕け散り、畳の上に撒かれていた。残っていたのは、電灯の紐に括りつけられた一枚だけ。この一枚が、俺たちを最後まで守ってくれていたのだろうか。
緊張の糸が解けてため息を吐くと、俺ははっとして口を塞ぐ。朝になったものの、実はまだ終わってはいなくて、声を出すのは危険なのではと考えたからだ。と、そうやって懸念する俺を無視するかのように――。
「うぉあぁぁぁうぁうぁう……くあーっ……! お、おぉ隼人、ぐんもーにん」
大地のやつが呑気に大あくびをしながら目を覚ます。俺は咄嗟に大地を組み伏せ、口を塞いだ。
「んん⁉ んぉい⁉ んぁにふんあよ⁉」
「静かにしろ‼ 外の様子も分からないってのに、安易に声出すなよな‼ ……あっ」
そう思ったときにはもう手遅れだった。やってしまったという思いを胸に、そろりそろりと電灯の方へ視線を向けると、お札が爆ぜることなく残っていることに安堵する。ただお札の目と視線が合うと、向こうの目がなんだかこっちを呆れたように見ている気がして、俺はどうにも後ろめたさを覚えずにはいられなかった。
ただ、今までどうにも夜を乗り切れたという実感が湧かなかったけれど、これで確信を得たというものだろう。しかしそれが大地の無神経な性格のお蔭なのではと思うと、どうにも
「ブハッ‼ んだよ、いきなりのしかかって、きて……、……あっ‼ や、やべぇ‼ 俺、俺……どうしよう⁉ 声出しちまった‼ お、お札は⁉ …………、やべぇ‼ 一枚しか残ってねぇじゃん‼ おい隼人、ど、どうすりゃ良いんだ⁉」
今更かよ。なんか、こいつのお蔭で状況の把握ができたと一瞬でも思った俺が馬鹿みたいじゃないか。この原始人アホ大地め。そんなことを考えた俺は、未だ目の前でパニくっている大地の頬を軽くビンタして黙らせてやった。俺の気は晴れるし、こいつも黙らせられて一石二鳥というものだ。
「はぁ~……」
再び大きなため息を吐いて、一旦状況を整理しようとする。晴美さんは山の上の寺に行けば大丈夫だって言っていたけれど、道中はどうなっているのだろう。村人たちを連れて行った苦痛龍の僕。それに、宿を揺らしていた何か。俺たちはちゃんと無事に、目的地へと辿り着けるのか。
………………。
なんて、一人頭を悩ませていると、俺はここであることに気付いてしまった。今まで散々大地のアホが大騒ぎしていたというのに、未だ全く目を覚ますことなくスヤスヤと寝息を立てて眠る大物博の存在に。
***
博を起こした後、晴美さんの作ってくれた残りのおにぎりで朝食を終えた俺たちは、鎮痛寺へ行くための作戦会議を始めていた。ただ作戦会議とは言ったものの、大人の村人を簡単に連れ去ることのできる苦痛龍の僕や、地震を起こせる程の何かがいることを知ってしまった俺たちの出した結論は、絶対に見つからないよう、慎重に行動しようという、至極単純なものだった。
一つ意外だったのは、そんな怪物たちに立ち向かおうなんて無茶なことを言わず、大地もその作戦に賛同したことだろうか。ま、夜中にあれだけ恐ろしい思いをしたんだ。こいつも少しは堪えたんだろう。
「さて、こんなところか。それで、これから俺たちは外へ出る訳だが――」
そう、外へ出る為に、当然だがまず襖を開けなければならない。しかし、昨日のあの恐ろしい体験が脳裏を過ってしまって、俺たちは今日起きてから今に至るまで襖を開けられないでいる。その結果、俺たちはある重大な問題を抱えていたのだが。
「…………ッ、つうか、二人共、その……大丈夫なのかよ?」
そう、俺たちの抱えている問題は非常に深刻だった。一夜を明かす為の道具として、晴美さんは用意してくれていたのは、おにぎりと水、布団、そしてトイレ替わりのバケツである。今まで恐怖が勝っていてそれどころではなかったというのもあるが、人前で、それもこいつらの前で、しかもバケツを使って大なり小なり済ませるのが嫌だったということもあり、我慢に我慢を重ねた結果、俺たちが最後に用を足してから既に十二時間以上が経過しているのだ。
だが、正直もうとっくに限界だ。というか、実は朝起きたときから既に色々と催していたので、今この瞬間にもダッシュでトイレに駆け込みたいというのが本音なのである。でも、怖い。それはそうだろう。もしも襖を開けたその先に怪物が待ち構えていたらと想像すれば、
せめぎ合う恐怖と生理現象の限界。圧倒的な極限状態に晒された俺たち三人の思考は今、誰が一番に襖を開けるのかという点に帰結していた。
「い、いや……? 俺は全然、平気だけど……?」
強がる大地。しかし足は完全に内股になり、色々と堪えていることが明白だ。こいつ、昨日までは俺たちを庇うようなムーブをしていたっていうのに、ここへ来て突然チキンになりやがって。
「ボボ、ボクモ、ダイジョブ……」
博に至っては完全にカタコトになっている。いや、無理だろ。顔から唇から真っ青で、どう見たってお前が一番限界そうじゃないか。
こういう場合、最も公平に物事を決められるのはじゃんけんだ。しかし、実際にはもう一刻の猶予さえも無い。仮にじゃんけんを実行し、もしも二度あいこにでもなろうものなら、その際に生じた焦りや絶望で、俺たちの意地という最後の砦は決壊し、小学六年生になってお漏らしをしたという最大級の汚名を生涯着続ける羽目になるだろう。
恐怖。葛藤。下腹部に生じる苦痛。そしてまた別の恐怖。瞬間、限界を前にした俺の脳細胞に電撃が走り、この状況を打開する唯一の策が閃いた。
「よ、よし、分かった……三人で、同時に開けよう。それ、で……何もいなければ、そのままトイレへダッシュする。異論は無いな⁉」
「ま、待て、隼人……‼ ト、トイレって言うな……。その言葉だけで、も、漏れそうだ……」
「――……ッ‼ わ、分かった……じゃ、じゃあポイントT‼ 何もいなければ、ダッシュでポイントTへ直行……。そ、それで、良いな……?」
「ああ、あの……も、もしも何かが、い、いたら、どど、どうする、の……?」
「そ、そのときはそのときだ‼ 俺たちにはもうそんなことを考えている暇は無い‼ い、良いか⁉ 一、二の、三で開けるからな⁉」
「待て‼ 一、二の、三の、三で開けるのか⁉ そ、それとも、一、二の、三――はい‼ で、開けるのか⁉」
「うっせぇな‼ そんなこと考えてる暇は無いっつってるだろ⁉ 良いか、行くぞ‼ 一、二の――」
三人で襖に手を掛け、一気に開く。するとそこには怪物が――なんてことは無く、それを視認した俺と大地はポイントTへ向かって一気に駆け出した。
その際廊下で何度も滑りそうになるも、転んでしまってはその時点で一巻の終わりであることを本能で感じ取っていた俺たちは、この瞬間、オリンピック選手並みの速度を発揮し、ただ目的地へとひた走る。
その途中、何か違和感のようなものを覚えたが、切羽詰まった極限の生理現象を前にして、当然そんなことを気にしている余裕がある筈も無く、後ろは振り返らずに前を向く他無かった。
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