さよならは言わない

 その後、車に乗せられた俺たちは、今日宿泊する予定だった青瀬旅館の前まで送られた。時間が無いからと言われ、詳しい話は晴美さんから聞くようにと言われたのだけれど。


「入り辛いな……」

「あぁ……」

「う、うん……」


 村長は俺たち三人のことを庇ってくれたけれど、あの場の何人かは俺たちに向かって確実に非難の目を向けていた。そりゃあそうだ。紺ノと名乗る男にたぶらかされたとは言え、実質俺たちが苦痛龍の封印を解いてしまったのだから。


 それに俺たちはもう知ってしまった。苦痛龍の生贄に選ばれて、晴美さんが子供を失っていることを。俺たちの前ではああやって気丈に振舞ってはいたけれど、内心では辛いのを我慢しているに決まっている。


「なぁ、どうする……?」


 二人に向かって問いかけるように口を開く。ただ、この言い方はズルかったかもしれない。自分から中に入るのは嫌で、どっちかに先に入ってほしいと言っているようなものだから。


「……お、俺が行く‼」


 と、俺の心内を悟ってか否か、大地が言う。そういう期待が無かったと言えば嘘になるけれど、いざこうなってしまうと、なんだかとても気まずい。しかし大地はずんずんと前に進み、玄関の取っ手に手を掛ける。が、しかし、なかなか戸を開けようとはしなかった。単純というか、単細胞なやつだとは思っていたけれど、さっきの集会場での振る舞いと言い、こいつはこいつなりに色々と気にしていたりするのだろうか。


 そんなことを考えていると、旅館の後方、いや、更にずっと奥の方の山から、何かの音が聞こえてきた。最初の内、風の音か何かだろうかとも考えたけれど、その音には一貫性があり、すぐに自然が発する音ではないことに思い至る。


『け・はいいえ――』


 声? それとも動物のいななき? いや、そのどちらとも違う。そこには何か意思のようなものを感じはするものの、人間や動物の発するそれとは全く異なる、原始的で、しかし到底人間の理解が及ばないような深淵しんえんが備わり、次々と音が数を増やしていく毎に、俺たちの意識はどんどんそっちへと引っ張られて、次第に足が、体が――。


「あんたたち‼ 早く中へ入りなさい‼」


 ガラガラと引き戸が引かれ、そう声を掛けられるのと同時に俺たちはハッとする。そこは晴美さんが立っていて、姿を見たからか、声を掛けられたからかは分からないけれど、俺たちは逃げるように宿の中へと転がり込んだ。俺たち全員が中へ入ると、晴美さんはすぐにピシャリと戸を閉めて――。


「早く‼ 靴は脱がなくて良いから、すぐに部屋へ‼」


 土足のまま、部屋の中へと促された。


 でも。本当に靴は脱がなくて良いのかな。それよりもまずは謝った方が良いんじゃないだろうか。だって、俺たちの所為で苦痛龍の封印を解いてしまったし、それに青瀬のことも――。


 なんて、なんだかまだ頭がボーっとしていて、そんな間の抜けたようなことを考えていると、突如ピシャン、ピシャン、ピシャンという音と共に頬に痛みが走る。どうやら頬を叩かれたらしい。と、それを認識すると、今まで靄のかかっていた頭が僅かにしゃんとして、晴美さんの言ったことに従い、三人同時に宿の奥へと駆け出した。



 ***



 俺たちが泊まる予定の部屋に通されると、そこには異様な光景が広がっていた。壁にも天井にも床の畳にも、果ては扇風機やテレビに至るまで、その全てに星型のマークの真ん中に目玉のようなものが描かれている奇妙なお札がびっしりと貼ってあった。ガラスは新聞紙で目張りされていて、やはりその上にも例のお札が貼られている。


 どう見たって異常だ。もしも今日一日奇妙な体験をしていなかったのならば、この部屋を見ただけでも恐怖を覚えていただろう。あまりにも奇妙な光景。だというのに、何故だろう。どう見たって異常としか言いようがないのに、この部屋に入ってからというもの、さっきよりも明らかに気持ちが落ち着いたように感じるのは。


 そうして気持ちが落ち着くと、俺は途端に気まずさを思い出す。苦痛龍の封印。青瀬のこと。そして子供を失った晴美さん。そのどれから弁明し、そして謝ったら良いのか分からなくて、俯いたまま俺たち三人は誰一人として口を開けないでいた。


「……良かった」

「……えっ?」


 晴美さんが発した言葉に疑問を覚えて顔を上げると、晴美さんは目にいっぱいの涙を溜めていた。


「あんたたち三人が無事で、本当に良かった……。ごめん、ごめんね……こんなことに巻き込んじゃって……」


 そう言うと、晴美さんは膝を折って俺たち三人の肩をギュッと抱きかかえる。何が起こっているのか分からなかった俺たちは呆気に取られながらも、晴美さんが怒っていないことにホッとして、それになんだか胸の内側が熱くなってゆく。


 それから少しした後、晴美さんはごしごしと顔を拭い、表情をキッとさせて、真剣な眼差しで俺たちの方を見る。


「良い、良く聞いて。まずあんたたち三人は、朝まで絶対にこの部屋から出ないこと。そして私が部屋を出たら、絶対に声を出さないこと。私は何があってもこの部屋には戻らないし、外からも声をかけない。ここまでは良い? 分かった?」


 早口で畳みかけるように言われて呆気に取られはしたものの、ただならぬ表情をした晴美さんを前にして、俺たちは無言で何度も頷くことしかできなかった。するとそんな俺たちを見た晴美さんは、少しだけ表情を柔らかくして――。


「……フフ、あーいや、ごめん。私も焦っていたんだわ。それにちょっと脅かし過ぎたかも。まだ喋っても良いよ。私が部屋から出てからも、少しの間なら話していても大丈夫な筈だから」


 と言う。するとピリピリとしていた空気が和らぎ、晴美さんが表情を崩したからか、ガチガチに緊張していた俺たちの体から力が抜けていくのを感じた。


「あの、晴美さん……一体これから何が起こるんですか?」

「苦痛龍の話は聞いたわね。これからその苦痛龍の僕たちが村へやって来て、私たちを捕まえて苦痛龍への生贄にしようとするのよ」

「…………ッ、なぁ晴美姉ちゃん、どうにかすることはできねぇのかよ……?」

「あんたたちはこの部屋にいる限り安全よ。苦痛龍の僕たちでも、封印されているこの部屋の中には入れやしない。それに、今の所あいつらは夜にしか行動できない筈だから、この部屋で一夜を明かせば大丈夫」

「だったら‼ 晴美姉ちゃんもここにいれば良いじゃねぇか‼ 俺、嫌だよ‼ 俺たちだけ助かって、他の誰も助からないなんてさ‼」

「私は駄目なのよ。ほら」


 そう言うと、晴美さんはTシャツの襟元をまくって俺たちに見せる。そこには、先ほど集会場で大人たちが見せた濃緑色の痣が浮いていた。


「あんたたちは村の人間じゃないから、この部屋にいれば多分見つからない。だけど、私は駄目。この村の人間がここにいたら、結界なんかじゃあいつらの目は誤魔化せないのよ」

「やっぱり……俺、俺の、所為で……」

「大地、あんたの所為なんかじゃない。これは私たちの村の問題なの。子供が気にすることじゃないわ。村長も言っていたでしょ?」

「晴美……姉ちゃん……」

「それと、苦痛龍の下部たちは朝になると活動が弱まると言われている。だから朝になったらあんたたちはここを出て、山の上にある“鎮痛寺ちんつうじ”というところへ行くの。分かった?」

「鎮痛寺?」

「そう、山の上にあるお寺。そこまで行けたなら、あんたたちはきっと助かるから。詳しいことはお寺の住職さんに聞いて。ほらそこ、食べ物と、鎮痛寺への地図があるわ」


 そう言って晴美さんは、机の上に置いてあるおにぎりと水差し、それに一枚の紙が乗ったお盆を指差す。


「あともう一つ。大丈夫だとは思うけど、万が一もしもこの部屋の結界が破られたら、急いで一番奥の部屋の襖を開けてそこに入りなさい」

「えっ、そこって、入っちゃ駄目って言ってた部屋だろ? 入って良いのかよ?」

「最悪の場合は、ね。本当ならあんな部屋、入らないに越したことはないわ」

「あ、あ、あの、そそ、そこには、な、何がある、んですか……?」

「…………、神様がまつってあるのよ」

「「「神様?」」」

「そう、神様。その神様はとても強い神様で、それでいて苦痛龍とは凄く仲が悪いらしいから、そこへ逃げ込んだら下部たちは手出しできないの」

「あの、それなら最初からそこへ行けば良いんじゃ」

「そうできれば良かったんだけどね。実はその神様っていうのが結構危険なやつで、あまり近付かない方が良いのよね。だからその部屋に入るのは、本当に最後の手段、緊急時のときだけだと思っていて。分かった?」


 先程よりも険しい表情を見せる晴美さんを前に、俺たちは再び口を閉ざしたままに頷いた。


「よし、言うべきことも言ったし、私はもう行くわ。…………、あっ、そうだ、ねぇ、あんたたち――」


 部屋を出ようとした晴美さんは、踵を返してこっちへ向き直ると――。


「こんなことに巻き込んじゃって、本当にごめんね。うちの子が、しゅうがいなくなってずっと寂しかったけど、あんたたち三人が来てくれたお蔭で、今日は凄く嬉しかった。全然時間が無くて、もっとちゃんとしたご飯を作ってあげたかったし、話をすることもできなかったけれど、本当にありがとう」


 優しい表情で言う晴美さんを前に、俺たち三人は何も言うことができなかった。大地などは涙を隠そうともせず、けれど歯を食いしばって声を殺すように泣いていた。かく言う俺も鼻の奥がツーンと痛くなってしまい、上を向いていなければ涙がこぼれていたかもしれない。


「それじゃあ、またね。あんたたちはきっと家に帰れる。だから安心して。あとおにぎり、ちゃんと食べるのよ」


 そう言って、後ろ手で手を振りながら晴美さんは部屋の襖を閉め、外へと出て行ってしまった。



 ***



 晴美さんが部屋を出て行ってから十分くらいが経っただろうか。悲しみが引いて少しだけ頭が冷静になると、今度は途端に不安が襲ってきた。


 この部屋にいて、俺たちは本当に大丈夫なのだろうか。村の人たちはどうなってしまうのだろうか。そもそも夜を乗り切ったとして、俺たちはちゃんと鎮痛寺に辿り着くことができるのだろうか。それに――。


 …………、母さん、どうしているかな。


 それが引き金だったのかもしれない。母さんのことを考えると、何故か突然心細くなってしまい、今までどうにか堪えることができていた涙が一気に溢れ出そうになって、俺は顔を伏せてしまいそうになる。


 するとそのとき、今まで鼻をすすり、項垂うなだれていた大地が突如立ち上がってぐしぐしと顔を拭ったかと思えば、机の上に置いてあったお盆を俺たちの前へ持って来て、むしゃむしゃと手掴みでおにぎりを食べ始めた。


「んぐんぐんぐ……、……ぶはぁッ‼ よっしゃぁ‼ 塩じゃけ召喚‼」


 呆気に取られる俺と博に向かって、お握りの中身を見せる大地。しかし、こんな状況でいつものテンションの大地を前に、俺たち二人はつい笑いを堪えられなくなってしまった。


「ククク……だ、大地、な、なんだよそれ!」

「フフフ、フフ……そ、そ、そうだよ……。ど、どうしたのさ、突然」

「ダハハハハ‼ 飯を食わねば戦ができねぇって言うだろ‼ だからしっかり食っておこうと思ってな‼」

「戦って、お前それ、ちゃんと意味分かって言ってるのかよ?」

「い、戦は戦でも、ろ、ろ、籠城戦ろうじょうせんだね」

「上手いこと言うな、博。つうか、それよりも……し、塩じゃけ召喚は無いだろ!」

「そ、そ、それって、サモンとサーモンを掛けているんじゃ、な、ないの? ねぇ、大地?」

「おっ? …………、お、おぉ‼」

「こ、こいつ、意味分かってねぇじゃん!」

「そ、そうだね、フフフフフ……」


 それから俺たちは、こんな状況であるにも関わらず、大笑いしながらおにぎりを食べた。重苦しかった空気は、大地の天然ボケと晴美さんの用意してくれたおにぎりによって、少しだけ軽くなったような気がした。

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