第三章 明暗境界線

時の止まった空間

「博、鼻血止まったか?」

「だ、多分……」

「止まったと思っても、暫くそのままティッシュは差しておけよ。またいつ出て来るか分からないぞ」

「わ、分がっだ……」


 何気ない会話をしながら、俺たちは歩く。


 それにしても暑い。太陽は真上から西へと傾き始めてはいるものの、それでもまだまだ暑い。事実着衣のまま泳ぎ、さっきまで全身びしょ濡れだった青瀬の体も、後ろから見た限り、既に大方乾いているように見える。


「あぢぃぃぃー……コーラ飲みてー……」

「……同感……」

「ぼ、僕も……」

「もー、都会の子はだらしないなー」

「そんなこと言ってもよぉー……あちぃもんはあちぃんだって……」

「青瀬、その駄菓子屋はまだなのか? もう十分は歩いたぞ」

「もうすぐだって。それにまだ十分でしょ。あと、私のことはしゅうちゃんって呼んでよね。青瀬呼びじゃ、お母さんと区別つかないじゃん」

「……嫌だね……」

「もー、隼人可愛くなーい」


 クソ、何か言い返してやりたい。やりたいが、この暑さで頭がボーっとしてしまっては、それどころではない。どうにかして一刻も早く、水分を摂取しなければ。


「ここここ! ほら、着いたよ」


 青瀬が指差す方を見てみると、そこには一軒の建物が鎮座していた。しかしその建物というのがまた木造りでボロくて、屋根は錆び錆なトタンでボロくて、辺りには雑草が生い茂っていてボロいのである。良いように言い繕うならばレトロとも言えるのだろうが、流石に度が過ぎているだろう。これはどう見たってボロ屋というか、もっと言えばお化け屋敷のようではないか。よくもまぁ、この平成の時代にこんな遺跡のような店が残っていたものだ。


 しかし、これは本当に営業しているのか? 一応入口は開けられているし、外に設置されているクーラーボックスも動いているようではあるが。


「ほら、早く入ろ入ろ!」


 そう言うと、青瀬のやつは暖簾のれんをくぐって中へと入ってしまった。


「“し、しおさ、い”……」

「なんだって?」

「い、いや、か、看板に、そう、書いてある、から……」


 博の指差す方を見ると、看板らしき物に擦れた字で“しおさい”と書かれている。この店の名前なのだろうか。しかしその看板というのがまたボロボロで、錆びが浮いているわ穴が開いているわで、年季の入りようというか、とにかくボロさが伝わってくる。


「で、どうするよ?」

「ど、どうするって……?」

「マジで入るのかってこと。だってここ、マジでボロいぞ」

「そんなんもうどうだって良いよ……。なんか飲めるならさー……」

「ぼ、僕も、喉、乾いた……」

「あっ、お、おい」


 ボロ屋を目の前に困惑する俺を他所に、大地と博は青瀬の入って行った暖簾の中へと消えてゆく。とは言え、喉が渇いているのは俺も同じなのだ。今まで歩いて来た通りに自販機なんて文明の利器は無かったし、ここを逃せばもう暫く何かを口にすることはできないかもしれない。


 ………………。


 えぇい、ままよ!


 覚悟を決めて、俺は店の中へと足を踏み入れた。



 ***



 中へ入ると、そこには独特な空気が漂っていた。それはこの場所から受ける印象という他、文字通りに空気、正に匂いそのものが独特なのだ。全方位から漂ってくるのは、まず何よりも甘い匂い。ガムや飴、チョコレートやラムネ菓子にチューイングキャンディなどの、どこか人工的なそれ。に加え、煎餅や乾物、魚肉のすり身を加工した珍味系駄菓子の、あの特徴的な酸味を伴う塩気のある匂い。


 そしてこの気持ちはなんであろうか。壁いっぱいに積み上げられた駄菓子やチープな玩具類から受けるのは、高揚感というか、何か冒険心のようなものをくすぐられずにはいられない。


 なんだか懐かしい。なんてことを小学六年生の俺が言ったなら、きっと大人たちに笑われるのだろう。しかしこの空間の独特な空気はどうしてか、子供の俺にもどこかそういった感想を抱かせて余りあるのだ。


「見ろよ博‼ 闘戯王カードとホルモンカードだ‼ しかも見たことのないやつだぞ‼」

「こ、これ、近所のお兄ちゃんが、も、持ってる、古いやつ、だと思う! す、凄い! もう売ってない、は、筈なのに!」


 視界の先、大地と博が興奮した様子でカードの話で盛り上がっている。二人の方へ駆け寄ると、そこには古いカードのブースターパックが山積みにされていた。


「なーんだ。おいおい、それっていつのカードだよ。そんな物今更買ったってしょうがないだろ」

「ばっ、お前……‼ ったく、隼人はいつもそうだよな~。強いカードにしか興味無ぇんだもん」

「そ、そうだよ! ここ、これは、す、凄く価値のあるカードなんだよ!」


 そういうことらしい。とは言え、俺は古いカードになど全く興味が無い。まぁそう反論しても仕方がないので、二人のことは放っておいて、当初目当てにしていた飲み物と小腹を満たす菓子を物色し始めた。すると――。


「いらっしゃい」


 目の前の、何も無かった筈の暗がりから突如声を掛けられる。目を凝らして見ると、そこにはお盆を持った長身痩躯そうくでボサボサ髪に、魚眼レンズというか、瓶底のような特徴的な眼鏡をかけた男が立っていて――。


「う、うわぁッ⁉」


 それに気付いて驚いた俺は、自分でもマヌケだと思うような素っ頓狂とんきょうな声を上げ、尻もちを付いて転んでしまった。


「隼人⁉ どうしたんだよ‼ あっ……」


 見合う俺たち。ただ四人が四人とも言葉を出せず、駄菓子屋の中は静まり返り、恐らく全員が同様の気まずさを覚えていると――。


「わっ!」


 と、男の後ろに姿を隠すようにしていた青瀬が驚かすように声を出した。の、だが。


「あ、あれ、驚いて、ない? もしかしてアタシ、場違いな感じ……? あの、なんかごめんね……?」


 出所の分からない気まずさの方が勝り、誰一人ピクリとも反応しなかった。そんな冷え切った空気の中、長身痩躯の男が咳払いをした後に言葉を切り出す。


「ん、んん……いや、青瀬くん、グッジョブだったよ。ありがとう」

「そう? それなら良かった。ていうか、隼人ったらどうしたの? そんなところで尻もちなんて付いちゃってさ」

「――……ッ、別に、ちょっと転んだだけだ」

「ププー、隼人、おじいちゃんじゃん」

「う、うるさいな!」

「えっと、君たちが、青瀬くんの言っていた、村の外から来たお友達かな?」

「お、おう、そうだぜ‼ 俺が大地、そっちが隼人で、こっちが博‼ で、あんちゃんは?」

「僕は紺ノ哲月こんのあきづき。この店の店員です。その、よろしくね」

「すげぇ‼ 一国一城の主かよ‼」


 一国一城? このボロ屋が? いやいや大地、このボロ屋を城などと言うのは、いくらなんでも誇張が過ぎるというものだろう。なんて、そんな失礼なことを考えていると、不意に紺ノさんと目が合い、俺はなんだか気まずくなって目を逸らしてしまった。


「まぁまぁ、とりあえずみんな中へ入らないかい。外は暑かっただろう。大したもてなしはできないけれど、ジュースとお菓子くらいは出せるからさ」

「マジ⁉ うぉっしゃぁぁぁぁ‼」

「お、お邪魔、します……」

「よっ、紺ノさん太っ腹ー。ほら、隼人も」

「あ、あぁ……」


 こうして俺たちは、流されるままに駄菓子屋でもてなされることとなったのだった。

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