潮の味と鉄の味

「それじゃあ、よーいドンでスタートね」


 青瀬の言葉に対し、俺たち三人は同時に頷く。しかし視線は既に前を、正確には海に浮かぶブイを鋭く見定めていた。


「よーい……――」


 理由なんて無い。でも敢えて言うならば、負ける為に戦うなんてことはしたくなかったから。更に付け加えるならば、限られた小遣いで他人にジュースを奢るなんて愚行は以ての外だ。そして尚理由を足すならば、俺たちの中で誰が最強であるのかを決める為に。それだけだ。それだけの為に、俺は今日、最高のパフォーマンスをするのだ。そう、本当に他には理由なんて無いのだ。


 体内のエンジンを吹かしながら、青瀬の号令がかかるのを、今か、今かと待つ。そして次の瞬間――。


「――ドーン!」


 号令と共に、俺たち三人は一斉に駆けだした。砂浜から海まで約五メートル。俺と博が先んじ、少し遅れて大地が続く。


 開始前、大地が取っていたのはクラウチングスタートの構えだった。馬鹿め。足場がしっかりしている状況でならばいざ知らず、ここは砂浜だぞ。前へ加速しながら体を起こさねばならないその走法では、安定したスタートダッシュなど望むべくもないだろう。こうも早々に地上での有利を捨てたなら、あとはもう俺と博の独壇場だ!


 多少距離を詰められながらも、俺と博が先に海へ足を付ける。水の深さが膝の辺りまで達し、もう海へ体を投げ出そうとした瞬間、一瞬だけ後ろを振り返る。するとそこには、砂浜に立ち、手を振りながら笑顔で俺たちのことを見送る青瀬の姿があった。しかも、この期に及んで未だに服を着たままで。


 なんだあいつ、勝負を投げたのか? …………、まぁ良い、元々あいつは眼中に無い。そんなことを考えながら、三人ほぼ同時に勢い良く体を前へ投げ出した。


 ザブンという音と共に、口と鼻一杯に広がる塩辛さ。それに勢いよく飛び込んだからか、ゴーグルの隙間からも僅かに水が入ってしまった。プールの無機質な塩素のそれとは全く異なる強い刺激に、一瞬、怯んでしまいそうになる。それでも俺は必至に水を掻き、足をばたつかせ続ける。甲斐あって、着実に、確実に前へと進んでいる実感と共に覚えるのは、明確な焦りだ。真横から、そしてやや後ろから聞こえてくる水を跳ね上げるその音は、博が、大地が俺を追い抜き、先んじようとしている証だからである。


 負けるもんかッ――。


 俺は息継ぎの回数を三分の一回に減らし、体内に取り込む酸素量を減らしてでも前へ進むことを選んだ。その甲斐あって、体は更に加速するように前へぐんぐんと進み、気付けばほとんど並走していた二人を突き放していた。


 ブイの位置までせいぜい三十メートル程度。時間にしたなら、恐らくまだ三十秒も経ってはいない筈。だけど、苦しい。口と鼻が塩で焼けるようだ。けれど、断じて泳ぐことだけは絶対に止めはしない。


 めいっぱいに凝縮された時間の中。膨張する思考を抱え、苦しさに耐えながら泳いでいると、いつの間にか二人を置き去りにしていた。するとまるでこの広い海、この広い世界の中で、俺がただ一人だけになったかのように錯覚し、気付けば静かな高揚感のようなものを抱いていた。


 塩でかすむ視界の先、微かに見えるのは赤い色。あぁ、あれは目標としていたブイだ。それはもう目と鼻の先。水をもうあと一、二掻きもすれば届く距離。真っすぐ手を伸ばし、ついにそれに触れる――。


「ハッ、ハッ、ハッ……ハァ……」


 呼吸を整えながら後ろを振り返ると、まだまだ後ろに博と大地の姿があった。それを視認すると、遅れて勝利の余韻よいんがやってきて、俺は小さくガッツポーズを取った。


「ッしゃぁ‼」

「へぇー、都会っ子の癖になかなかやるじゃん」


 と、そう声を掛けられた。それも、今泳いで来た方向からではなく、今手を触れているブイの方から。恐る恐る声の方を振り向けば、そこには青瀬の姿があった。それによくよく見ると、俺の手はブイに触れていたのではなく、既にブイに触れている青瀬の手の上に手を置いていたのだ。つまり、それは……。


「でも、アタシの勝ち。それじゃあ、ジュース傲りね♪」


 それは、俺たちの敗北を意味していたということ。



 ***



 その後、納得のいかなかった俺たちは、十数回に亘って青瀬に再戦を申し込んだ。の、だが、全ての勝負で惨敗。何年も水泳を続けてきた俺も博も、体力では地元の中学生をも上回る大地でさえも、全く歯が立たなかったということを思い知らされることとなった。それも水着を着用して万全な状態だった俺たちと比べ、青瀬のやつは服を着たままで、しかも圧倒的な大差を付けられたともなれば、最早異議を唱える余地も無い。


 打ちひしがれ、浜に打ち上げられた魚のようになった俺たち。に対し、目の前には尚も泳ぎ続けている青瀬。あれだけ泳いだのに、まだ泳ぎ足りないのだと言う。


 最初の内は青瀬の泳ぐ姿に圧倒的な差を見せつけられているようで、愕然としたけれど、今はもうそんな気も失せてしまった。と言うのも、それはまるで魚が泳いでいる様を思わせ、こんな風に思うのは本当にしゃくなのが、どうしてもその姿を綺麗だと感じずにいられなかったからだ。


 そんなことを考えながら俺たち三人は言葉も発さずに海を、いや、正確には太陽の光を反射して光る海の上を泳ぐ青瀬を見続けていた。全員が前を向いていてお互いに顔は見えなかったけれど、きっと二人も俺と同じことを考えていたんじゃないだろうか。


 そうして暫くした頃、海から青瀬が上がって来ると――。


「ふー、泳いだ泳いだ。ねぇ君たち、海はもう良いの?」


 水を吸ったシャツを捻じるように絞りながらそう言う。が、俺たちは誰一人として返答することができなかった。何故なら、その……青瀬のやつ、服を着たまま泳いでいたものだからシャツが透けていて、要するに、俺たちは目のやり場に困っていたのである。


「お、おまッ‼ ちょ、ふ、服‼ 着替えの服は⁉」

「えー? 無いよ。だってこんなに暑いんだもん。ちょっとすれば勝手に乾くって」

「あ、あの……しゅ、しゅうちゃん、さん……。そ、その、おおお、お服がお透けになって、お、おられますが……?」

「そりゃそうだよ、海で泳いだんだもん。あっ、見たけりゃ見ても良いけど?」

「――……ッ‼ だ、誰がそんなもん見るか‼」

「そ、そうだぜ‼ 紳士たる俺たちがそんな、アレがアレなんて……な、なぁ⁉」

「アレがアレじゃ分かんねぇよ‼」

「クッ、ククク……アハハハハ! はー、おもしろ~。君たち、超分かりやすいじゃ~ん。男子のそういうのって、都会も田舎も関係無いんだ」

「わ、分かりやすいってなんだよ⁉」

「いやー、べっつにー?」


 こいつ、言わせておけば調子に乗りやがって。何か言い返してやりたい。やりたいが……、……クソッ、何も思いつかない‼


「そんなことよりさ、まだ全然時間もあるし、これから駄菓子屋に行かない?」

「駄菓子屋⁉ マジ⁉ うぉぉぉぉぉッ‼ 行く行く‼」

「二人もそれで良いでしょ?」

「…………、……まぁ、良いけど」

「決まり! じゃあそこでジュース奢ってよね」

「あっ、あぁ、そうだった……忘れてたぜ……」

「……チッ……」

「いいじゃーん、別に負けた回数分奢れって言ってるんじゃなし。それに、アタシのおっぱいを見れたんだから、安いもんでしょ?」

「み、見てねぇよ‼ な、なぁ大地、博⁉」

「ハイ……オ、俺、ミ、見テ、ナイデス……」

「ま、そういうことにしておいてあげましょー。……っていうか、さっきから気になってたんだけど、博くんのそれ、大丈夫なの?」

「「えっ?」」


 青瀬の指差す方に視線を向ける。するとそこには、目を開けたまま、ただ真顔で一直線先を凝視する博の姿があった。否、既に博の瞳には、もう何物をも映してはいない。恐らく最後に見たその光景があまりにも刺激的すぎて、脳が処理できずに気を失ったのだろう。一体誰が博を笑うことができようか。むしろ俺は博のそんな姿に、何か敬意のようなものを抱かずにはいられない。


「…………、……ブフゥ‼」

「ダ、ダハハハハ‼」


 俺と大地は同時に笑いを堪えられなくなってしまった。すまん博。敬意とか、そんなのは嘘だ。だって、真顔で鼻血がダラダラなその状態を見せられてしまっては、笑うなって言われた方が無理というものだろう。

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