第41話 これはひどいありさまだ
***
まるで水の中につっこまれたように息が苦しくなり、ごぶりと息を吐く。だが、吐いたのは血だった。
「——これはひどいありさまだ」
哀れむような生真面目な声が、オーレリアンの耳に降ってくる。目をゆっくりと開けると、自分が真っ白なベッドに吐いた血の染みと、
誰、と問う間もなくその男の正体はわかる。帝国主席魔術師、アリスティド・ヴァタツェス。横にミルティアデスがいた。
「だろう、寿命だ」
そんなことはありません、と声を上げようとするが、声帯が凍ったように声が出ない。
「炎の術者に、こんなに早く寿命が来るのは珍しい」
主席魔術師の微かに哀れむようなひび割れた声がまた降ってきた。そうでしょう、とオーレリアンは
自分は炎の術者だ。特殊魔法を使うわけじゃない。そんなに早く寿命は来ない。
だが、無情な上司はこういった。その響きに
「俺が悪かったんだ。アルギュロスを使い過ぎてしまった。必要以上に」
その悲痛な声に、主席魔術師はこう答えた。
「……治癒、いや、浄化してみる」
「——すまない」
自分の頭越しに、上司と主席魔術師で全てが決められていく。
オーレリアンはふと思い出した。
当代の主席魔術師はもちろん全ての魔法に長けているが、治癒魔法と浄化魔法に長けた「浄化の術者」であったことに。
——浄化。
「浄化の魔女」と呼ばれた後輩を思い出す。彼女は侯爵家の出ということもあって、どこか箱入りで世間知らずだった。仲間とも表面的な関係しか築けていない。しかも魔法学校を出ていないので、思いがけぬ分野の基礎的知識さえないことがあった。聖女が叔母ということでやっかみも買いやすいだろう。
だからオーレリアンが指導してやらなければと——思ったはずなのに。
——おかしい。
自分が壊れているかのように、出てくる言葉は彼女への憎しみと恨みつらみばかり。彼女がオーレリアンに何をした。何もしていない。未熟ゆえに迷惑をかけることもあったが、最初は誰だって未熟だ。
そういうふうに、オーレリアンの一部は思っている。けれど、どこかで他のオーレリアンが叫ぶのだ。
貴族の生まれで。なんでも持っていて。聖女が叔母で。あんな小娘がなんで神聖騎士に。
——そんなことをあの後輩にいいたいのじゃない。いいたかったのじゃない。
おかしい。自分はおかしい。
「ああ、あああ……」
頭を抱える。
「違う。私は、そんなことを言いたかったんじゃない!」
主席魔術師がオーレリアンの背に手を当てた。
「苦しいのか。——錯乱してるな」
オーレリアンはその冷静な口調が、突如憎たらしくなった。主席魔術師の僧衣を握りしめ、揺さぶる。
「どうして私ばっかり寿命が来るんだ!」
「……アルギュロス」
「私は真面目に生きてきた! 勉学だって人よりやってきた。帝国に貢献してきた——そんな私が、どうして、こんな、寿命にならなければいけないんだ!」
あああ、と彼は顔を覆う。ひどくむせこみ、また血を吐いた。赤い。とても赤くて、炎のようで——。
炎を出してしまいそうになった。
だが、出す前に光がオーレリアンを包んだ。雨が降り注ぐように光が体に染みわたる。
「……浄化ですか。いいですよねえ。『浄化魔法』は。必要とされて。あなたもあの子も幸せそうだ。あなたも奥様とお嬢様がいて、あの子も大公妃。幸せですよね——」
そんなことを言いたいわけではないのに、感謝を伝えたいのに、心が恨み言しか叫ぼうとしない。寿命なのだ。もうまっとうな人格だった頃の自分は帰ってこない。
そして、その恨み言は人を傷つける。
自分を浄化した主席魔術師の瞳が、絶望か何かで、ぴしりと凍ったことに、オーレリアンは気づいた。
「——猊下?」
「そうだろうか?」
「アリスティド?」
ミルティアデスが主席魔術師の顔を覗きこんだ。
主席魔術師は失笑する。
「決して幸せというわけではない。取り返しのつかない過ちを犯して、妻に逃げられたばかりだ。しかも、娘は魔力がないから養子に出さないといけない。私の父母がそういうふうに勝手に話をすすめて、金をもらって養子先まで決めていてね。来年、娘を売ることになって——」
その瞳から流れ落ちたのは、
主席魔術師から流れる血の涙に、ミルティアデスが叫んだ。
「あ、アリスティド! お前、その血……」
主席魔術師はただただ静かに笑いながら涙を流すだけで、何も返答しない。
浄化の魔女や浄化の術者は、
それは帝立第一魔法学校を次席で卒業し、エリートコースを歩み続けた主席魔術師でも変わらない。
ミルティアデスは寿命の兆候がみえながらも、なおも治癒しようとする主席魔術師を抑えた。
「やめろ、治癒するな。これ以上魔力を使うと——治癒すると、お前が」
そんなやりとりを主席魔術師と上司がしているというのに、オーレリアンはまた口の中に異物がせり上がってきて、ごぶりと血を吐いた。自分はもうだめかもしれない。
何かに取り憑かれたように、主席魔術師の手がオーレリアンの頬に伸びてくる。
「今、治療してやる——」
そのマホガニーの瞳はオーレリアンを見ていなかった。だが、やめろ、という上司の絶叫とともに、黄金と銀色の光が花吹雪のように舞い散り、オーレリアンを癒した。
「……猊下?」
痺れたように体を震わせ、自分の寝台の上につっぷし、ひどく呼吸を荒げている主席魔術師に、オーレリアンは手を伸ばす。
「あの——」
その手をひどく掴まれた。
ミルティアデスがまた叫んだ。
「今、医者を呼んでくる。少し休ませてもらおう。聖女猊下もじきにお越しになるだろう!」
そういって、彼はその場を離れた。
主席魔術師はオーレリアンの手を掴んだまま、一切離さない。
「猊下、その……」
「……お願いがある。イザベル皇女殿下を私とともにお守りしてほしい。それで——大公殿下を、ともに害してほしい」
「……え?」
アリスティドは微笑んだ。
「君を必要としているところがまだある。君は決していらない存在ではない。イザベル皇女殿下が、君を必要としている」
それは魔力の発散場所を心底から必要としているオーレリアンにとって、涙が出そうになるほど嬉しい申し出だった。
「——!」
ミルティアデスが「自業自得!!!」と騒いでいる聖女を伴ってオーレリアンの収容されている帝国魔法院の専門病院に戻ると、アリスティドとオーレリアンは姿を消していた。
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