第38話 愛が死の術式を導く

 今日は皇女の元へ参じて、雑談をし、煎じ薬を献上して帰ったはず。だが、もう一つ記憶があることに気づく。生々しすぎて直視できていなかった記憶が。

 皇女の寝台に引き入れられ、誘われ、彼女の求めるままに振る舞った記憶が。彼女の、柔らかくしっとりした肌の記憶が。

 最中に、背筋の凍ることをささやかれた記憶もよみがえる。


 ——先生、わたくし、先生の子供を産めるなら生きてみようと思うの。ちゃんと魔力のある子を、先生がご満足なさる子を生みます。ヴァタツェス家の先生のご両親は、魔力無しの娘さんを養子に出すよう迫っていて、魔力のある子の誕生を望んでいるのでしょう。でも奥様は妊娠と出産に大変苦労なさる体質。次のお子様を作るのは大変そうですわね。

 ——しかも奥様の優秀さに嫉妬されておいで。だから、出産するのが人より大変な奥様をみごもらせて、育児を任せて、自分が出世で抜かされないようになさった。あぁ。なんてひどいお方。わたくししか愛せる者はおりませんわ。


 ——嫉妬などというなまやさしい感情ではない。

 

 ふと、昔の記憶がよみがえる。

 魔法学校の寮の西の静かな林。初夏、ライラックの花が咲き乱れていたことだ。


 図書室で課題を終えたあと、その林に向かうのが日課だった。亜麻色のさらさらとした短い髪の、天使か妖精かという美少年か美少女が白樺の根方に座っているからだ。今日、彼は美少年で、ノートに魔術の術式を描いていた。


 そのはかなげで上品な顔立ちの美少年に、おかしくなりそうなほど魅入られていた自分は、ふらりと横に座った。美少年が自然と肩にもたれかかって、指をそっと絡めてきた。

「今度は何を描いているんだ?」と、なんとはなしに聞いた。


 どこか気難しいところのある美少年は、少しうつむき、すぐノートを閉じた。いつもは魔術書やノートを見せてきながら、魔術の面白さについて語り倒すはずなのに。


 ——なんでもない。


 その白い首筋に、みみず腫れの跡があった。また教師に厳しく叱られ、杖で打たれたのだ。


 彼は性別など吹き飛ばしてしまうような美貌の持ち主だが、実際にも性別がよくわからなかった。ある日はこうして少年で、別のある日は少女になる。生徒も好奇の目線で見たが、それ以上に教師が気にした。ある厳しい女性教師は、一応女子生徒として登録してある美少年の肩を掴み、何故男子生徒が女子のスペースにいるの、女の子たちをいやらしい目で見たいからでしょうと揺らした。涙ながらに男子のスペースに行くと、ある嫌な男性教師は、可愛い女の子がこんなところにいるぞ、と男子生徒をはやし立てた。


 そんなわけで、彼は教師から叱られる格好のターゲットになりやすかった。彼が、成績上は文句のつけようがないほど学校でも優秀なことも、教師を煽った。誰かの失敗やいたずらは全部彼のせいにされた。寝坊しなくても寝坊したとか遅刻したとかいわれた。やっぱり頭がいいから変わり者なんだ。私生活が乱れていると。

 どうせ変なんだろう。そういう枠に当てはめようとした。


 ひょっとして、と思い、ノートを奪って、中身を見て投げ捨てた。そのはずみで、美しい少年を地面に押し倒してしまった。

 ごめん、と抱き起こそうとしたが、小さな悲鳴を漏らした形の良い珊瑚色の唇から、目が離せなかった。

 そうなるともう何かがとまらなくなり、彼の唇を吸ってしまう。

 少しうっとりしている美少年を抱き起こし、優しく背中を撫でながらささやく。


 ——あんな術式を描くのはやめてくれ。死の術式じゃないか。確かにひどい教師たちだけれど、バレたら罰を受けるのは君なんだよ。

 ——わかってるけど、気持ちが収まらない。


 美少年は、震えながら自分の腕のなかで神経質に眉根を寄せ、緋色の瞳に涙を溜めた。白樺の木に彼をもたれさせ、今度は涙を指で拭いながら、傷のついた首筋をくちづけた。少年の傷が癒える。


 ——君を愛しているから、誰かを呪う君を見るのは、つらい。


 少年が顔を真っ赤にする。


 ——……うるさい。


 彼がぎゅっと抱きついてくる。自分は笑いながら、彼と地面に——芝生に倒れ込んだ。

 いつのまにか、彼は少女になっていた。

 林の中に、誰もくる気配はない。鳥の鳴き声と木立のざわめきしか聞こえない。

 抱きしめていると、不安になる。自分は彼女の恋人にふさわしいのかと。あんな術式をかける人間を、抱きしめる資格はあるのかと。

 彼女がぴったりと身体をつけてくると、あることに気がついた。自分は細かい性格だとわかっている。だが、言わざるを得ない。いつもよりも痩せていた。


 ——ちゃんと食べてる?


 彼女は顔を背けた。


 ——ほんとにうるさいなあ。あの術式を組み立てるのに夢中だっただけ。ご飯食べてないのなんて、昨日今日ぐらいだから大丈夫。一昨日はパン食べたし。


 夕飯のとき、彼女の部屋に行って食堂に引っ張って行かねばと決意した。なるべく消化にいいスープを食べさせたほうがいい。部屋はまた汚くなってないだろうか。洗濯物は溜まっていないだろうか。


 いっそ自分の部屋に連れて帰るか、彼女の部屋に泊まるのが最善か。

 優等生の特権で、寮長は自分の言うことならかなり融通してくれる。ゾナラスと共同で研究をしたいから、これから部屋を行き来しますと言えば、許してくれるだろう。男子生徒が女子生徒を部屋に連れ込むのは固く禁じられているが、男子生徒同士がお互いの部屋を出入りするのは良い。しかも自分たちの寮長は、彼ないしは彼女を女性として認めない、厳しい女性教師なのだから。

 腕のなかに美少女をずっと閉じ込め、またはげしく珊瑚色の唇をむさぼりながら、そんなことばかり考えていた。


 そう、そうすれば自分にない博覧強記さとひらめきとをもつ彼女は、自分ひとりを見てくれる。教師に嫌われないことくらいしか取り柄がなかった自分を、見てくれる。

 聡明で高貴な美貌をもつ知識とひらめきを腕のなかに囲って、守護し、奉仕する。

 彼女は、家で難解な魔術書を書いていてくれればいい。外に出て働いて、今は大丈夫かもしれないが、いずれつまずく時が来る。才能に嫉妬するレベルの賢さもない、他人に厳しいだけの人間が彼女を引き裂きに来る。社会はそういう無知の集合体だから。

 それを見るのがとても嫌で苦しくて、とても嬉しい。彼が——また震えながら自分の腕のなかに戻ってくるだろうから。他の人間など見る余裕もなく。

 その瞬間、彼女は、自分だけのものになる。自分の隣で、あの見事な才能を示してくれる。自分だけがその才能の秘密を、見ることを許される。

 なんて至福だろう。

 

 本来なら栄光にまみれていてもいい彼女の人生を邪魔するその感情は、嫉妬より厄介だ。

 


「先生」


 今度は実感をもって、記憶のなかではないしっかりしたイザベルのうらめしげな声が聞こえる。

 グリュケイア元公爵はそこにおらず、眉に不快をたたえた彼女だけが部屋にいた。彼女が元公爵に化けていたのか。まさか、そんな、誰がそんな魔術を、と彼は蒼白になる。

 身体を離して、ご体調は、と聞こうとするが、体も動かず、声が出ない。


「先生。奥様との若き日を思い出さないでください。頭にがんがんに入りこんできます。優等生の黒髪の少年と、亜麻色の髪の天才美少年との秘めやかな淫靡な戯れの思い出が。ときめきますが、嫉妬します」

「……ご自身に何をなさいました。おやめください」

「少年だった頃の先生の奥様は、気晴らしにノートに自分をいじめてくる教師が死ぬ術式を描いておられた。先生はノートを回収して、それを諌めておられた。でも、魔術師の血が騒いで、先生は何年もかけてその術式を改良し、完璧なものにさせてみた」

「殿下」

「先生、先生は愛妻家で誠実な方なんかじゃありません。昔から極悪な好色だったからわたくしに浮気なさったのです。学校の規律を堂々と派手に破って意中の生徒を夜中に部屋に連れ込んで、密かに逢瀬を重ねていたわけでしょう? なんてふしだらな。でも、先生は、今でも奥様しか見てらっしゃらない。奥様の才能を自分ひとりのものにしたいから。しかし、死の術式を完成させたことを誰かに伝えたくて、でも、奥様に伝えるわけにはいかなくて。あの、わたくしと初めて床を共にして奥様に邪魔されたあの日。あの日でしたわね。魔力もなく魔術に造詣もないわたくしに、戯れに教えてくださった。わたくしを少しだけ見てくださった。なんって嬉しかったでしょう。だから、わたくしはこの世に生きているなかで一番憎い人間にそれを使うの」


 サファイア・ブルーのたおやかな瞳が、彼を優しく、狂おしく見てくる。顔を両手で挟まれ、そっとくちづけられた。


「そんなクズみたいなあなただから、奥様は離れてしまったの。わたくししかいないの。わたくしと死ぬの。それまでに、一緒に兄を、——氷の摂政大公を潰しましょう。あなたと奥様の、最高の研究成果を叩きつけましょう?」

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