第37話 ラスボスが自画自賛しているだけの回

 部屋に入ってきたのは、すすけたボロボロの中年男だった。


「誰だ!」


 アリスティドは警戒しながらその男を見る。誰だ、この怪しげな彼をこの帝国魔法院の主席魔術師の執務室に入れたのは、と思いながら。

 すると男は、ずいずいとアリスティドのところへ近寄ってきた。アリスティドは数歩下がる。必要さえあれば皇帝と帝国を魔術で護衛する、帝国主席魔術師にふさわしくない行いをしていると感じながら。

 シラミやノミがつき、全体的にすすけた香りのする男はアリスティドに抱きついた。


「うおおおおお!! 我が最愛のアリスティド・ヴァタツェス!!」

「ちょっと待ってください」


 こんな知り合いいたっけか、と脳内の記憶を探る。魔術師は変人が多いから、こういうふうに何日も身を清めずにあちこち巡っているものも多いが……。だが、それでも。


「あの、全くあなたのことが記憶にないんですが……」


「なぁに!?」、男は大げさに目をいた。「それはないだろう、アリスティド・ヴァタツェス!! この建国以来の帝国の忠臣であったグリュケイア公爵を忘れているだと!?」


 グリュケイア元公爵がこんなありさまに、とアリスティドは眉をひそめた。先頃の冬、ラスカリス大公に追い詰められ、帝位簒奪を企んだという汚名を着せられた。彼は状況に応じてすぐ態度を変える嫌な性格の人物だった。

 関わりたくないなあ、と思いながらく。


「なぜグリュケイア元公爵殿下がこちらに」

「よく聞いてくれた我が最愛のアリスティド・ヴァタツェス!! エウテュミオス女大公イザベル殿下が、いちおうそれなりに無実であろうと取りなしてくださったのだ。で、な? ん?」


 グリュケイア公爵がアリスティドの首に腕を回してきた。


女大公殿下が教えてくださったが、アリスティド・ヴァタツェス! そなた、聖女猊下に神聖騎士団を奪われそうなんだと!? あの氷の大公も聖女に味方して神聖騎士団を聖女のものにするよう動いているし、大変だよな!」


 大変そうなのはあなたの生活では、と突っ込みたくなる衝動を抑える。人の見た目に苦言を呈してはいけない。

 大貴族であったすすけた彼は、アリスティドにいった。


「お前に協力してやろう! 聖女猊下から神聖騎士団を取り戻そう! ついでに私の所領も取り戻そうじゃないか」

「まだ、なにも奪われていないのですけれども……」


 つまり、自分の所領がラスカリス大公に奪われたから、所領を取り戻すために帝国魔法院を巻き込んでことを起こそうということではないか。

 まっぴらごめんだ。

 そんなことをするよりは、よほど別の大貴族にラスカリス大公に対する反逆心を吹き込んだほうがラクというもの。


 ——だが、グリュケイア公爵の処断以来、他の大貴族たちは大公殿下にことごとく従うようになってしまったな。


 グリュケイア公爵への過酷な措置は、他の大貴族たちから大公と彼が擁する皇帝に対する反逆心を根こそぎ奪ってしまった。しかも大貴族のひとつのスキュリツェス侯爵家は、神聖騎士であったところの娘さえも大公にさしだした。


 ——だが、しかし……。


 いきなり、「煮え切らぬな!」とグリュケイア公爵がある一つの羊皮紙を出してきた。一瞬にしてその羊皮紙に魔術がかけられているのを、腐っても帝国主席魔術師のアリスティドは見抜いた。自分に護衛魔法をかけておく。

 グリュケイア公爵がニタニタと悪い笑顔を浮かべる。


「見てくれ。こいつをどう思う?」


 羊皮紙が映像を映し出した。裸の男女が睦みあっているものであった。


「……どう思うと申されましても。家に持って帰っていただきたいとしか」


 アリスティドの困ったような声に、グリュケイア公爵はさらにニタニタと悪い笑顔を浮かべた。その太くすすけた指が、彼の唇を、喉を、首筋を撫でる。


 ——何すんだよオッサン! ででけ!!


 自分もオッさんであることも忘れて、アリスティドがそういいかけた矢先。


「いやあ、そなたは物凄い色男だのう。あやかりたいものだ。あの皇女殿下をメロメロのトロトロのズッキューンにして、毎晩愉快に励んでおるとは」

「……は?」


 よく見れば、裸の男女は自分とイザベルであった。


 ——記憶にございません。


 誰にも知られてはならない、秘めやかな関係を一回だけ持ったことはある。

 正確には持ちそうになったというべきか。切羽詰まったようなイザベルが家にやってきて迫られ、お互い理性を失いかけたそのとき。妻が帰ってきたので急いで彼女を転移魔法で帝宮に戻した。

 それっきりで、こういうふうに仲良く睦みあったことはない。断言する。

 あの時はいろいろと追い詰められることがあったのだろうが、真面目な皇女のこと、それ以降は何も誘ってこない。

 しかも、過ちを犯してから、お互い距離を置くようにしている。妻と娘は家から出て行ったが。

 病弱なイザベルの元に参じることは雨の日、時間ができた時くらいで、ここ数ヶ月でも数えるほどしかない。しかも会っても、彼女の寝台のカーテン越しに、十五分ほど。彼女と少し会話して、薬を献上し、それで終いにしている。

 過ちを犯した一週間後、彼女に召され、頼まれたからだ。


 ——先日は申し訳ありません。先生を傷つけるようなことをしてしまいました。でも、先生からいただくお薬でないと、体が楽にならないの。


 それ以降は、何もない。

 アリスティドはグリュケイア元公爵をにらんだ。


「変な画像を魔術で作って私を脅そうとお思いですか?」


 元公爵は「やっぱり何度見てもいい尻だ」と何故かアリスティドの尻を揉み出した。ぞわぞわする。


「馬鹿野郎、我が最愛よ。そんな高度な魔術、できるわけがなかろう。たまたま我が家で抱えていた魔術師がこれを視てしまっただけのこと。恋人いたことない歴と年齢が同じな魔術師だったので、ショックが強すぎてあいつは気絶したぞ。賠償金くれ」

「嘘をおっしゃるな。映像の編集など初等教育で習うはず!」

「むーん。そうだったのか。でも我が魔術師はいいやつだから、人を騙すようなことをしない。それに、これを視たのは事実だしな」

「そんなことを申されても——」


 ふと、聞こえた映像のなかの女のなまめかしい声に、何故か聞き覚えがあった。


 ——……好き。大好き。


 あれ、とアリスティドは手で口を覆った。

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