第36話 不倫の内実

 雨の日はどうしても身体が悲鳴をあげる、とイザベルは寝台で喘いだ。

 自分の身体に付けられた大小の傷跡。壊れているのだろう内臓。それが雨の日になると自分に傷があったのを思い出したかのように騒ぎ出す。


 これが自分の過失や不幸な事故によってできたものであれば、すべて受け入れよう。


 けれど、何もしていないのに、長兄に罪人として引きずり出され、覚えのないことで罵られ、知らないことを話すよう強要され、拷問の末に一命をとりとめた結果、できた傷だ。


 ——もう何年になるだろう。皇帝陛下がお生まれになる前だから……。


 五、六年ほどは前になるか。

 そんな理不尽な出来事の末にできた傷を、どう受け入れろというのだ。


 魔術師である、年老いた乳母が、「姫様」と痛み止めを差しだしてきた。

 イザベルは軋む傷の痛みに耐えて、ゆっくりと起き上がり、苦い薬を飲み干した。


 空がずっと晴れていたら、とイザベルは思う。しかし、雨の日は必ず来る。雨が降らねば穀物は枯れ、水は干上がる。そうであれば皆が苦しむ。

 だったらイザベルが消えたほうがいい。

 側に仕える女官も。

 薬を差し出してくるのは幼少から側に支えてくれた乳母だけになった。他の女官が、こそこそとイザベルの悪口をいうのを聞いてしまった。

 面倒な殿下。また? またお熱を出されたの? はぁ、今忙しいんだけど、またあの殿下が痛がってるって? もともと愛妾に喧嘩を売ったのは殿下なんじゃなかった?

 ——生きていたくない。


 でも、なぜかだらだらと生きてしまっている。漆黒の、息のできない闇のなかを。


 しばらくすると、乳母が「姫様」とにっこりと微笑んで彼女の顔を覗いてきた。


「帝国主席魔術師の、ヴァタツェス先生がお見えに」

「——!」


 痛み止めが効き始めてきたこともあって、彼女に表情が戻ってきた。


 あの意味不明な愛妾の讒言ざんげんで凶悪犯のいる牢屋に放り込まれたとき、助けてくれた彼。

 兄帝から酷い拷問を受けたイザベルを、ずっと治療し続けてくれている彼。

 いつもイザベルの身も心も彼でいっぱいにしてくれる、優しい彼。


 ——アリスティド先生、わたくしの生きるよすが。


 寝台から起き上がろうとすると、「そのままで、どうか」と何より愛おしい男の声が響く。


「殿下、今日もお身体がおつらいとのことで」

「先生が来てくださったから平気」


 イザベルは微笑んだ。そのままで、といわれていたにもかかわらず、彼女はゆっくりと起き上がり、手を伸ばしてアリスティドの僧衣の裾を掴んだ。

 優しく手で退けられたが、その退けた手を握りしめる。

 痛み止めを飲んでいるから、痛みもなく、何も止まらない。止められない。

 彼の手を引いて、寝台に引き入れた。イザベルはアリスティドの首にすがるように抱きつく。


「お許しください、殿下。……妻子を裏切るわけには」


 その拒絶の声さえ愛おしい。

 本当であれば、その硬い声で、心の底からイザベルに愛を囁いてほしいものだけれど。


 イザベルは何も答えず、彼のひたいに自分のひたいを当て、なまめかしく微笑んだ。ともすれば妻へ行ってしまういとめるように、上目遣いで彼を見る。


「——好き」


 彼女は彼の唇を貪った。

 ゆっくりと僧衣を脱がせ、ことさらたくましくもなければ貧弱でもない、ちょうどいい肉体をあらわにさせる。胸板にくちづけながら、イザベルは彼のすべてを愛しいと感じていた。


「殿下、もうこれ以上お戯れは……」


 彼はイザベルから離れ、僧衣を着なおした。


「ご夫君をお迎えになる話はどうなりましたか。あまりお戯れが続くようですと、お側に上がることができなくなります」

「夫、ね」


 あなたしか考えられない、とイザベルはうつむいた。


 その瞬間、ばたりと音がした。アリスティドが倒れた。控えていた乳母がうなずいている。


「本当に、アリスティド猊下げいかは催眠魔法が効きやすいお方ですね」

「ありがとう」


 皇女は自分の寝台に倒れてくれたアリスティドにささやいた。


「——わたくしから逃げないで。今日もいっぱい愛して」


 乳母は去り、イザベルは彼の僧衣をまた脱がせ、何も身につけていない彼の隣に寝そべった。

 くちづけを浴びせると、ふと彼が寝言で妻の名前を口にした。胸がずきりと痛む。


 イザベルから彼を奪っていく彼の妻、クロード・ゾナラス。

 憎らしくはない。恨んでもいない。命の恩人だ。

 あの人が優しくシャワーをかけて泥をとってくれなければ、今の自分はない。昔は慕っていた。でも、彼への愛情が止められなくなってしまった今は、もう、純粋に慕うことができない。

 裏切っているのはわかっている。良心が疼くのも感じる。


 だけれどあの人は、身に覚えのないことで拷問されたことも苦しめられたこともない。なのに、アリスティドを独占している。——とでも考えないと、感情の整理がつかない。


 嫌なことを考えるのはやめよう、とイザベルは彼のまぶたにくちづけた。彼が目をゆっくり開く。その朦朧もうろうとした目は明らかに飢えた獅子ししのような目だった。さらに、その手がイザベルの体を激しく求めるように動き出した。

 乳母に、催眠には強烈な媚薬効果を入れるよう頼んである。アリスティドは本心では抵抗したくとも、イザベル目の前の女を抱きたくてたまらなくなっているはずだ。


 ——心をくれなくても。でも。

「……好き。大好き」


 イザベルは涙を流して、彼の求めに激しく応じた。


 ことが終わったあと、意識が朦朧としている彼にある薬を飲ませた。

 すると、しばらくして、彼の閉じ合わされた瞳から、ルビーのようなあかい涙があふれた。


 兄帝への恐怖を感じていた頃、身を守るためのありとあらゆるすべを学ぶために、魔術師たちの勉強会へ潜り込み、講義を聞くことがあった。


 そのなかに、魔術師から魔力を転送してもらう方法があった。あるとき魔術師もいない山岳地帯に山火事があった。水魔法が得意な魔術師が、とある薬を開発して服用し、その際に出た自分の涙を瓶に詰めた。その瓶を勇気ある人物に転送魔法で送り、服用させた。勇気ある人物はその魔術師と同じ魔法が使えるようになり、山火事を鎮めることができた。


 アリスティドに話したら、決してその際の涙に触れてはならないと言われた。魔術師ではないものにその涙の主と同じほどの魔術が使える反面、命をひどく縮めるものだから、と。


 ——転送された人間は、魔力に耐えきれず、鎮火直後に亡くなりました。転送した魔術師も、魔力が抜け落ちてすぐに亡くなりました。


 そのときは神妙にうなずいた。その当時は、生きていたかったからだ。

 でも、今は違う。


「でも、先生。わたくしは、生きていたって、苦しいだけですもの。先生は奥様のものですし。だから、せめて先生を連れていかせてくださいな」


 イザベルはそのルビーのような涙を舐めて、飲んだ。

 自分と同じように変わってしまった次兄をまた、呪うために。


 ***


 帝国魔法院。魔術師の管理・統括を行う国家機関である。魔法学校を認可したり、魔術師試験などの各種試験の主催をしたりする一方、神聖騎士などを駆使して国家の鎮護にあたり、帝国至高魔術師——聖女の世話をしたりする。

 その本部は、帝宮のほど近くにある。

 もう日が翳り、ちらほらと星が群青ぐんじょうの空に見えるようになる頃。雷鳴を伴っていた激しい雨は、昼過ぎに止んだ。

 帝国魔法院の長、帝国主席魔術師たるアリスティド・ヴァタツェスは、気だるさを感じながら執務机に座った。

 何故こんなにだるいのだろう、とアリスティドは考えこむ。

 今日はほとんど気の張る会議も会合もなく、書類仕事も多くなかった。少し暇ができたのと、雨の日だったので、イザベル皇女の元へ参じた。皇女は痛み止めの薬を飲んでおり、やや症状が治まっていたようだったので、退、——そうだっただろうか。とりあえず、主席魔術師に与えられた帝宮の執務室で目覚めたら、雷雲が消えて窓から日が差し込んでいた。すぐに魔法院の本部へと戻った。


 ——煎じ薬が無駄になってしまっているだろうな。


 イザベル皇女は晴れると体調を取り戻す。ひるがえって自分は、本当に気だるい。


 ——まあ、最近悩ましいことが多いからな。


 ラスカリス大公のことはもちろんだが、妻子と別居する羽目になったこともかなり、精神的に重くのしかかっている。

 疲れている、と眼鏡を外し、目頭を揉んでいると、扉を叩く音が聞こえた。


「どうぞ」


 眼鏡をかけ直して何も屈託なく返事すると、入ってきたのは、意外な人物だった。

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