第35話 小さな魔女

 ***


 今のところ、イザベルが不審な動きをした形跡はなかった。クロードは冷徹な官吏の顔をして、監視を続けます、と伝えてきた。


 それに気を抜いて、厨房へ向かう。チョコレートムースができたので、小さな魔女に食わせてやろうと思った。


 愛おしいリュディヴィーヌから預かった小さな魔女。

 聖女の座所で小さな魔女に出会った直後。帝宮に帰る直前に、聖女にぽっつりと言われた。


 ——たぶん、あの子は、職を失ったままフラフラし続けていると、このままでは、「寿命リミット」が来るのではないかと思うのです。神聖騎士で、特殊魔法の使い手。もうずいぶんと本人の実力以上の魔力を消費しています。こちらも浄化はしてみますが、殿下がお話相手になってくだされば、あの子も「寿命リミット」から遠ざかりましょう。


 愛おしいひとの頼みだったから、というのもある。

 あと一年ほど、と言われた自分の寿命と、彼女を重ねた、というのもある。

 承諾した——のがいけなかったのかもしれない。


 片恋相手の小さな愛らしい飼い犬を預かった。——最初はそんな気分だった。

 だが、小さな魔女はあまりに無邪気で、ギュスターヴにとってはめまいのしそうな危険なことを、平気でやってしまう。自分の死などというものを考えず、ただ今日だけを生きている。食べること、つまり生きることを渇望している。

 その姿を追ううちに、とても楽しくなっていた。普通では明かさない兄の死の顛末も明かしてやるほど、少女に親近感を——愛おしさを覚えるようになっていた。

 なにせ、少女の隣で話すのは居心地が良かった。


 十何年も前のことだ。雷の日だった。父帝と母后と、自分とイザベルの一家団欒の晩餐。その時の自分は誰も何も疑ってはいなかった。証拠もなく、世界は自分に優しいと錯覚していた。

 兄が晩餐に遅れている理由も、さして気に留めてはいなかった。政務が忙しいのだろうと。

 突然、兄が兵を引き連れて入ってきた。

 父帝と母后はグラスに注がれたワインを飲んでいたが、兄が食堂に足を踏み入れた瞬間、ひどく苦しみ、血を吐いて倒れた。父母は兄に毒殺されたのだ。

 自分とイザベルは腰を抜かし、特に自分は父と母にすがりながら、空間を裂くように泣いた。

 兄はまだ十代前半の少年に過ぎなかった自分を蹴飛けとばし、父母から引き離した。そして、嗜虐的な顔をしながらワイングラスを口につけてきた。


 ——父上と母上はなあ、私の政治に邪魔なのだ。……飲むか? 飲んだら妹くらいは助けてやるぞ?


 体が、まるで毒のワインを受け付けず、嚥下えんげせずに口からワインがあふれだした。

 一応、妹と救われたが、それ以降、ギュスターヴは毒殺の危険に震えるようになった。

 暗殺対策というのは名目上で、そのときの自分の恐怖が抜けきらないからだ。

 少女はそんな自分が料理の腕をふるうのを、非常に喜んでいた。なぜか、それがとても嬉しかったのだ。


 過去自分が傷ついたことは、ただの苦しみでも、無駄でもなかった。

 自分を救おうとしてくれる、恩ある少女を喜ばせることができた。


 その結果、最も愛おしかったはずの聖女を思い出せなくなっていた。

 それでは困る。それは嫌だ。十年以上愛してきて、自分が愛情を忘れてしまうなんて、そんな悲しい片恋があってたまるものか。

 心がひどくあがいて、あの雷の日、少女をひどく傷つけてしまった。——と思う。



 手元のチョコレートムースを見た。ガラスの器に盛り付けて、ホイップを添えている。


「あいつ、気がおかしくなりそうなほど喜ぶだろうな」


 その様子を想起して笑みがこぼれ、——いや、吹き出しそうになる。

 ぱたぱたと足音がした。小さな魔女が匂いを嗅ぎつけてやってきたのだろうか。すでに。だとしたら凄まじい嗅覚だ。

 だが、やってきたのは血相を変えた宮廷女官だった。


「殿下。お妃様が——ルネ様がどこにもいらっしゃいません」

「……は?」


 急いで少女の——妃の部屋へ赴く。


「おーい。チョコレートムースができたぞ」


 無反応である。


 ——おかしい。


 どこを見回してもいない。

 まさかベッドの下に隠れているのでは、とベッドの下を見てもいない。


 ——逃げたか。


 うまやへ赴くと、あの小さな魔女の愛馬であるテオもいない。

 すると、女性の姿をしているクロードがふらりと現れ、自分の様子を見てにこにこと微笑んでいる。


「殿下、ご報告をしたかったのですが——。お探しものですか」

「……知らぬ。妃が逃げた」


 クロードがくすくすと笑う。


「逃げてらっしゃいませんよ。聖女猊下げいかのところに行かれておいでですよ。殿下がどうしようもないから」


 数秒考え込む。


「転移魔法を使って欲しい」


 クロードが「あらまあ」とふざけたように笑い、男性の姿に変化した。


「お御堂みどうへ行かれますか。ほう。へええ? 偶像聖女に対する長年の妄執は浄化されましたか?」


 そうして、クロードは厩の壁に扉を作った。ギュスターヴはその扉を引き、中にクロードとともに入り——。

 とても懐かしい花畑のなか、とんでもない怒りに顔を染め上げた聖女に、


「テメーーーーーッ!! ようやくお出ましか! うちの姪に何しやがったあああ!」


 と怒鳴られた。



 見たことないほど凶悪な顔をした聖女に「偽装と聞いていたのに、手の早い」と盛大に低い声で嫌味を言われる。


「貴様が狂ったように寵愛するせいでうちの姪はぼろぼろに!」

「そんな関係ではありません」

「は? そんな関係だろが? 手元に置いていろんな飯を食わせて可愛い可愛いと愛でてデレデレしていただろうが!? 責任取れ!」


 それを聞き流しつつ、巫女が介抱していた少女をそっと受け取り、宝物のように抱き上げた。

 血を目尻からあふれださせている少女を横抱きにしながら、聖女の住まう切り立った山から下界を——帝都を見る。

 雲が帝都を覆っている。もうすぐ雨が降るだろう。

 隣のクロードが、ひどく眉根を寄せていた。心が苛まれているように。


「イザベル殿下への、監視魔法を強くいたしますが、——よろしいですか」

「……そなたが良ければ。そなたがそのあと、聖女猊下の清めを受けるというなら」


 そういって、ギュスターヴは腕のなかの少女を見る。やすらかな細い寝息が、限りなく、心を落ち着けた。

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