8、血の涙

第34話 うちの姪に何しやがったあああ!

 数日後。


 聖女のところへ行くとクロードだけに伝えたルネは、有翼馬のテオとともに、花咲き乱れる聖女の御堂の門前に立っていた。

 きりたった断崖絶壁にある聖女の御堂には陽の光が降り注ぎ、さまざまな花が咲き乱れていた。

 門が開くまで、テオに頬ずりして、少しだけはしゃぐ。


 聖女が息を切らせてやってきた。

 ルネは叔母に自ら抱きつく。

 大公がいっていたように、確かに叔母からはラベンダーの香りがする。叔母と暮らしていて、叔母がラベンダーの香油を好んでいるというのは知っていたけれど、匂いがするなんて気づきもしなかった。


 叔母はおずおずと、姪を抱き返した。


「……ルネちゃん?」


 ルネは少しだけためらい、だが、はっきりと口にした。


「聖女をやめて結婚してください、叔母さま!」


 その瞬間、リュディヴィーヌは鼻から大量に出血した。片手をつきあげ、「我が人生に一片の悔いなし……!」とうっとりした表情でいう。鼻血を手の甲でぬぐいながら、嬉しそうに首を横に振る。


「……だめよルネちゃん〜、この国では、叔母と姪は結婚できないの……♡」

「違います、ラスカリス大公殿下と、叔母さまが」


 すると、今まで常春だった叔母の顔が、一気に冷え固まった。どこか切ない表情をして、今度は真摯しんしに首を横に振った。


「そうしたらあなたは彼と離婚することになるけれど、どうするの?」

「えっと……」

「なら、それはできない」

「どうして……!」


 大公は叔母を深く愛している。大公は妹に呪われていると知ってから、呪いに抵抗する気力が尽きている。せめて、大公と叔母を結婚させるしかないではないか。


 それが、無能で、役立たずで、魔術のことしか知らなくて、常にお腹をすかせていて、彼には暗がりで叔母と混同されてしまう、惨めで愚かな自分のできるたった唯一のことだった。


「男性にびっくりするほど興味がないの。それに、叔母さまにはとても愛している人がいるの。その人は亡くなってしまったけれど、彼女を裏切ろうなんてこれっぽっちも思えないの。ダメな私を丸ごと受け入れてくれた、素敵なひとだったから。彼女と暮らしていて、ふたりで幸せだったから。幸福な思い出を、裏切れないから」

「でも、大公殿下は叔母さまを——」


 愛しておられるのです、と言おうとしたら、唇を指で塞がれた。


「ルネちゃん、そういうのは、絶対にダメよ」


 叔母の若芽色わかめいろの瞳が、穏やかに、じっとルネを見つめてくる。


「あんまりにクソ男だったから、叔母さまに押し付けちゃえ♡ って思ってる?」


 ルネは固まる。気づけば涙があふれていた。無言で泣き続ける。


「……ルネちゃん? どうしたの? ほんとうにギュスターヴ殿下はクソ男だったの?」


 次第にその涙が変化していく。深紅へと。錆びた匂いが、あたりに充満する。叔母はその若芽色の瞳の色をひどく揺らす。


「ルネ……?」


 頬に叔母の繊細だが力強い手が当てられた。燐光りんこうがルネの顔を包む。叔母の治癒魔法だ。


 それでも血の混じった涙が止まらない。


「おかしいのです。最近。殿下のことを考えると調子が悪くなるのです。寿命リミットでしょうか。治癒魔法を使い過ぎてしまったのか、やはりクビになったことが衝撃だったのか。せっかく殿下が偽物の結婚を申し出てくださって、住むところと服と食べるところと、未来を考える希望と仕事とを提供してくださり、寿命から遠ざかったと思っていましたのに」


 叔母はつい、と頬から涙を流す。震える姪を抱きしめる。だが、そのあと、本当に慈母のような顔をして、目を細めた。

 優しい声がルネの耳に響く。


「なつかしい感情だわ。とても。本当に」

「なつかしい感情? そんな!」


 ルネは大きく首を横に振った。


「いやなんです。調子が悪くなるのは。もう無理なんです。このままだと、叔母さまそのものにひどい感情を抱いて、浄化してしまいたくなるような気がします。きっとわたしは寿命がきて、頭がおかしくなってしまったのです」


 どぶ、と瞳から血があふれた。聖女は血が出たことそのものは癒したが、根本的な感情を癒してくれはしなかった。


「叔母さまと殿下が結婚すればわたしは楽になるのです。殿下のためでもあります。叔母さまがいれば元気になられましょう。わたしは必要がない」

「その後に続くのは限りない地獄よ、ルネちゃん。それに何度も言うけど、私はびっくりするくらい男性に興味がないの」


 聖女に仕える巫女が、急ぎ足でこちらに向かってきた。


「猊下! 聖女さま! 緊急事態にございます。強大な治癒魔法の使い手の一人、十七歳の少女がかなり精神を——」


 聖女は腕のなかの娘を巫女に示す。


「うん、この子ね」

「……姪ぎみ!」


 巫女はいそいで、顔が血だらけになっているルネを濡れた布で拭った。


「なんとおいたわしい。血の涙をこんなに。……聖女さま、寿命リミット指数は? かなり危険水域と判断しますが」


 聖女はこめかみを抑える。


「うーん、これって計算に入れていいのかしら。とりあえずこの子が休めるところを用意して」

「かしこまりました。緊急に浄化いたしましょうか」


 聖女は巫女に、いたずらをしたときのようににやりと笑った。


「あなたは、——を浄化すべきだと思う?」


 巫女はいきなり、緊張していた表情を緩ませ、失笑しながら肩をすくめた。


「それはダメですね。聖女さまの姪ぎみ……」


 にまにまとしている巫女はルネの頬をぱふぱふと両手で挟んだ。ルネは抗議する。


「早く浄化してください」

「ああ〜、片恋相手でも、今までことないでしょう。お嬢さん」


 巫女が愛おしいものを見るように頭を撫でてくる。聖女がひどくため息をつく。


「本当に一家で純粋に育てちゃった。筋肉と魔法で育った子だから。初めての感情にこんなに戸惑ってしまうなんて……」

「苦しいんです、叔母さま!」


 巫女がかわいそうとは絶対に思っていない顔で、ルネの小さな手のひらにチョコレートを乗せてきた。


「これを処方いたします。召し上がってください。その感情は残念ながら、人類の生存に必要なのです」


 チョコレートをもぐもぐとすると、血の涙が引っ込んだ。巫女が豊満な胸を張る。


「巫女になるまで、彼氏十人いて、結婚三回、婚外活動を数え切れないくらいしてきたわたくしが申します」


「すげッ」、と聖女が息を引く。そのすごい巫女はルネの手を握った。


「お嬢さん、お嬢さんは、あなたのいま千々に引き裂かれた心の様子は、寿命リミットが近くなる危険がありますが、大丈夫です。——です」


 ルネは、その「——」という言葉を聞いた途端。


「え?」


 という言葉だけ残し、すべての空間が色を変えたような気分になって、ふわりと意識を失った。

 誰かの足音がした気がする。

 聖女の怒り狂った絶叫が聞こえた。


「テメーーーーーッ!! ようやくお出ましか! うちの姪に何しやがったあああ!」

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