第33話 殿下の気力が増すもの
ルネはすぐに思い出した。ここは神聖騎士団の寮ではなく、帝宮・トロペオルム宮の一角だったと。目の前の男は摂政であるラスカリス大公で、彼は死の呪いを受けていて、浄化するために自分たちは「結婚」したのだと。
「殿下、呪いの
「ぼちぼちだ」
ぼちぼち、ということは縮小していないということ、と彼女はしょんぼりする。
「どうしてわたしたちは一緒に眠っているんでしょうか」
「女官が、ご夫妻でソファに
ルネは首を横に振る。
それよりも何よりも。彼女はあることを思いついた。「少し早い」とまた寝に入ろうとしている彼の大きな背中を見る。
——脇腹が弱いと言われたら遊ぶしかないではないか。
彼の脇腹に指を伸ばし、先ほどのようになぞる。彼はびくりとまた震えた。
「……ふぁっ……、あ……」
「お腹がすいたんです」
「……つく、作っ、作るから、やめてくれ……」
「夫」が素っ頓狂な声を出してくるので、彼女はにやにや口の端を釣り上げた。さらにこしょこしょくすぐる。
「お肉が食べたいです」
「わ……わっ、わかったから、……あ、あーっ、うふっ、……ルネちゃん、ルネちゃん、ちょっと、……そこ、お兄さんそこくすぐられるのムリだから、そういうの、やめて、……と申しておるであろうが!」
大公は起き上がってルネを寝台に押し付けた。ぜえぜえと息を荒げている。
「人が今日明日死ぬかもしれないという時に、腹が減ったとこき使ってくる、このはらへり魔女が」
「あっ、今日明日では死なないです」
大公は目をぱちくりさせた。
「っ、そうなの?」
「一生懸命浄化したから、殿下が今みたいに元気だったら、今日明日では死なないです!」
彼は「……元気」と言いながら、洞窟の中から光が見えたような、泣きそうな顔をして頬を赤く染めた。そんな純粋な表情をするのか、とルネが戸惑っていると。
「……わかった。何か作ろう。肉料理を」
起き上がって、寝台から抜け出し、彼は部屋を出て行った。
一人残されたルネは、三秒考え込み、「ん」と首を傾げた。
——一緒の寝台で添い寝?
あ、あ、と彼女の全身に羞恥が駆け巡る。
「いいいいいいいいいいやああああああああああああああああああああああッ!!!」
その絶叫が、帝宮の一角に、外まで響いた。おかげでそこの屋根に止まっていた鳥が、一斉に飛び立った。
お腹がすいて、いろいろと恥ずかしくて、お腹がすいて、いろいろと恥ずかしくて。
よろよろとしながら起き上がり、よろよろしながら女官にドレスを着せられて、それでもよろよろしながら厨房に向かった。
厨房には昨日のやつれた姿の片鱗など感じさせない大公がいて、静かに氷室から何かを出していた。よだれを垂らして目をぐるぐるにさせているルネを認めると、声をかけてきた。
「フォアグラでテリーヌを作っていたのがある」
「ふ、ふおおおおおお、珍味! 珍味!!」
はすはす、と謎の奇声を発し、鼻から荒い息を漏らして、ルネは厨房のテーブルの椅子を引く。大皿の上に乗っていたテリーヌを自分に渡された皿に取り分ける。
「あと、先日晩餐会があったのだが、その残りがある」
氷室からもう一つ取り出したのが、丸い風船のようなものであった。
「わたしは妻なのにお呼びではなかったのですか? ……んと、これは?」
「ほう、夫がもう棺桶に片足突っ込んでいるくせにやたらと元気なメスダヌキ複数名と難しい政治とカネの話をしているのに加わりたかったのか? ……これは豚の
「ボッ、ぼう」
さらっと恐ろしい言葉が出てきて、人間の食に対する業に恐れ入ったルネだが、そんなことで飢えは引っ込まない。
この風船を大公が鍋に入れるのをみて、彼女の理性は爆発した。侯爵令嬢にして今は大公妃という言葉から感じさせる優雅さや気品などなしに、彼女は厨房のテーブルにうずくまってじたばたもだえる。
「はらへりはらへり」
「わかったから」
ラスカリス大公は妻の機嫌をなだめる良き夫といった顔をして、微笑んだ。帝宮の厨房にいて、皇帝やイザベル皇女への料理を作っていた料理人たちは、この偽装夫婦を蜜月の新婚夫婦とみただろう。
「おなかすいたよう」
「少し待って」
「テリーヌをもっと食べてもいいですか」
大公はこの飢えた哀れな生き物に慈悲深くも同情し、「かまわぬ」とお声をかけられた。実際は腹をすかせた妻(※偽装)が面倒だったからに他ならない。
テリーヌをまたもや口に入れたルネは、砂漠にようやく一滴の雨が降り注いだように大喜びした。
「あーーー!!! フォアグラ! フォアグラですよみなさん! 珍味です! 珍味を食べて! あー幸せ! こういうのが宮廷晩餐会で出たり、皇帝陛下が外国の使節をもてなしたりするときに出されるんですね! 朝からこんなものを頂いてしまって、うわーーーー!!! 大公妃ってすごいな!」
「そうか。残念だが皇帝陛下はフォアグラが苦手でな。宮廷晩餐会で最近出していない。フォアグラを『いやー』と
幼い皇帝は偏食の傾向があるらしく、大公は皇帝が黄色い色の食べ物と白い色の食べ物しか口にしないと憂慮しだした。
「よくご心配なさるんですね。父親みたい」
「甥だから。あの子にはもう、私とイザベルしかいないから」
ルネは残りのフォアグラのテリーヌを全てパクパクッと口の中に入れながら微笑んだ。
「じゃあ、生きる理由ありますね」
そうだな、といいながら、彼は鍋からその風船のような豚の膀胱を取り出す。銀の皿に盛りつけ、大公自らナイフで切る。中の鶏肉にもナイフを入れ、ルネが勝手に用意し出した皿に取り分けた。
——そうだ。もし、イザベル殿下が大公殿下に呪いをかけているなら、最悪の場合、二人は共倒れになる。皇帝陛下は一人っきりになり、この帝国が大変なことになるんだ。
胃に物を入れたことで、ルネの思考は少し
大公の気力が落ちている今、さらに呪いが複雑にされたら厄介だなあ、とルネは眉を寄せる。
——殿下の気力が増すもの……。
胸がなぜかずきずきと痛んだが、その方法しかないと思った。
——私は貴女を愛していたいのです、十年以上も貴女を想ってきたのですから、リュディヴイーヌ!
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