第32話 傍観し続ければ

 サファイア・ブルーの瞳がかげる。大公が言う。


「今思えば、兄が怖かった。そして、争いごとに巻き込まれるのが嫌だったんだ。穏やかに過ごしたかった。別にイザベルと愛妾がお互いもやもやしたものを抱えているのは仕方がない。さっきも言ったが、人同士の関係には合う合わないがある。どうしても嫌な奴とか、許せない奴とかが出てくるだろう。でも、それはお互い、距離感というものを考えればいいだけの話で……。お互い、仕方ない奴らだな、と思ってしまった。だから——」


 彼は目を閉じた。


「目を閉じ、口をつぐんで、耳を塞いだ。妹がどんな目に遭っても。そうすれば、私の内なる平和は保たれるからだ。傍観し続ければ、私は誰にも恨まれず、心穏やかにすごせるはずだった」


 だけれど、何もしていない。何かすべきときに何もしなかった。


 ルネは自分の座っている足置きの豪奢ごうしゃな脚をいじりながら、「えっと」と口ごもりながら言った。


「……それは、イザベル皇女から見れば、ひどく無情な兄に見えるし、愛妾さんからすると、腹立たしく思えますね」

「そういうことになる。私は中立という行動をとることさえしなかった。例えば、私が悪者になって妹を叱り、遠方に送ってしまえば、兄は溜飲を下げ、妹は牢屋に入ることはなかっただろう。妹に遊学を進めて、事が収まるまで逃せばよかったかもしれない。逆に愛妾に妹の繊細な性格を話せば、理解が得られたかもしれない。私は争いごとに巻き込まれるのが嫌なのに、争いを起こさないために何もしなかった」


 ああ、そうか、とルネは気づいた。中立という立場は、何もしないということではなくて、中立という立場を主張し、中立に行動するということなのだ。

 中立といいながら何もしないのは、ただの怠惰だ。


「傍観者なら、憎まれたくない人に憎まれないと思っていた。実際そうだった。そのときは、私を責める者も憎む者もいなかった。けれど——、気づけば、妹から死を願われるほど憎まれている」


 大公が眉をゆがめた。肩のあたりをまたおさえている。

 腐臭がひどくなっているのをルネも感じた。いそいで足置きから立ち上がり、浄化の水をかけたが、痣は強くなるばかりだった。


 これは。


「殿下、呪いに抵抗してください」

「……」

「殿下!」


 本人が、呪いに抵抗する気を無くしてしまっている。


 ルネもそうかもしれなかった。最高筋力者になる目標を立てている兄に呪われたら。姉たちに呪われたら。父に呪われたら。——叔母に、呪われたら。

 ルネは生きてはいけない。

 でも、と彼女は彼の肩に手をあてがう。

 金色と銀色の光が部屋一面にきらめいた。その光が、星のきらめきのような滴になっていき、大公の肩に雨のようにやさしく降り注ぐ。その光の金銀の滴が、肩の黒い痣を洗い流す。

 強力な浄化魔法と強力な治癒魔法を混ぜた魔法だ。瀕死の大怪我の人間をも癒すことができる。



 結果。

 お腹がすいた。


「おなかがすいた……ぁ」


 胃腸がグォーグォー言っているのを感じながら、彼女は意識をなくした。



 ふかふかの寝台の中は温かい。ルネは朝の光を感じて、もぞもぞと動いた。


 ——おなかすいた。


 今日の朝ごはんは何にしよう。

 寮母さんにお願いして、思いっきり朝からガッツリ羊のステーキでも焼いてもらおうか。牛肉のステーキに卵を乗せたのでもいい。それとも鹿肉のステーキを食べる。


「おなかすいたあ……」


 つぶやくと、横で何かがもぞもぞと動いた。ちょっとありえないと思うけれど、テオと一緒に寝たのだろうか、と手を伸ばす。思いっきりそのたてがみをもふもふしたい。


 指先でその温かいものをなぞった。すると、びくりとそれが震えた。


「……や、……め……くぅ、うふっ、ふふ……」

「テオじゃない、人間だぁ……ぁあ!?」


 はね起きる。すると、ルネに添い寝していた、いとも華麗な美貌の男が、まなじりをあからめ、息を喘がせ、巻き髪を乱れさせていた。彼もはね起きた。ひどくそのサファイア・ブルーの瞳に怒気をたたえている。


「そなたぁぁぁ! 私は脇腹が弱いと知っての所業かぁぁ!」


 息を整えながら、男が叫ぶ。

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