第29話 大公殿下は雷が苦手

 ***

 

 執務室の窓から夕日が差し込む。普通なら執務机の上には家族の肖像が飾られるものだが、ラスカリス大公の机には一切何もない。

 偽装の妻に迎えた少女の肖像はもちろん、妹も、甥である皇帝のものすらもない。


 グレーの洒落た紳士服に身を包んだ帝室官房局長、クロード・ゾナラスが、片手に報告書を持ち、ラスカリス大公に進言していた。


「……というわけで、魔力が流用され、殿下の身を狙っているものが、僕の夫の魔力を利用している可能性が高いと。聖女猊下げいかが」

「そなた、夫好きだなあ……。あのひとまで持ち出して、そこまで夫をかばうか」

「そういうわけでは!」


 ゾナラスは眉をひそめて声をあげた。大公は声を立てて失笑した。


「冗談だ。こちらも新しい情報が入った。はらへり魔女が厨房で残りのアイスクリームを食べながら教えてくれた」


 最近、大公は前よりも「聖女、聖女」といわなくなった。あっさりと聖女の話をするようになった。前までは聖女の話題を出したら一時間はその話ばかりしていたが。

 良い傾向だとクロードは思う。


 大公は続けた。


「私の呪いにまとわりつく思念が、イザベルと思われる者の記憶にまとわりつく思念とまるで同じだと」


 大公は窓の外を見た。そして、肩を痙攣けいれんさせ、おかしくなったかのように大笑いした。


「——殿下」


 クロードは机に突っ伏して泣きそうな声で笑い転げる大公の近くに寄った。


「殿下!」


 ラスカリス大公は——ギュスターヴは泣きはしなかった。彼は、まだ何にも翻弄されていなかった頃の、明るく優しかった頃の声で話した。


「そうだな。そうだ。全く気づかなかった。本当に。イザベルには恨まれるに足る理由がある。本当に。どうして兄の顔をしていられたんだろう」


 その声には絶望でいろどられていた。


「イザベルに呪いをかけられているなら、死んでもいいか」


 ギュスターヴの力ない言葉に、「いけません」とクロードは口では言ったが、涙がつうっと頬を伝った。

 そして、クロードは夫の不倫相手の正体をも、その瞬間に、気づいてしまった。


 クロードは、やせ細った皇女の傷だらけの身体をシャワーで流し、泥だらけの髪を洗ってやり、手作りの粥を食べさせたことがある。五、六年ほど前のことだったか。まだマリーがお腹にいる頃。


 ドロドロの少女を夫が背負って連れてきて、「何!?」と驚いた記憶。

 シャワーで泥を洗い流した少女に夫が治癒魔法をかけていた記憶。

 夫を急かし、食材を買いに行かせた記憶。

 温かいベッドの中で眠りに落ちかけていた少女が、お腹のふくれたクロードを見て、「……ありがとう。赤ちゃんが生まれるの? もし、わたくしが生きていたら、いちばんに見せて」とか細い声で呟いた記憶。

 だが、生まれた子供、マリーを彼女に見せることはできなかった。


 誰よりも優しかった少女。でも、誰からも裏切られた少女。ギュスターヴのかわりにクロードの涙が止まらなかった。


 ——ああ。ああ。この兄妹は。そして、非常に不器用な夫は。


「殿下、イザベル殿下に監視魔法をつけます。よろしいですね」


 救済されなければならない。


 大公は、砂漠にただひとり取り残されたかのような顔で、側近の言葉にうなずいた。


 ***


 その日は夏の嵐で、ルネは帝宮の大きく長い廊下の外を見ながら、「降ってますねえ」とつぶやいた。となりには夫となったラスカリス大公ではなく、小さな皇帝がいた。


 おとなしい皇帝はうつむいて、ゆっくりと言った。


「……ふってる」


 アイスクリームを温室で食べてから、なぜかすっかり仲が良くなってしまった。たまにこうして行動を共にすることがある。

 ゴロゴロ、と雷が鳴って、皇帝は「わっ」と大きくびくりとその小さな肩を震わせ、ルネにしがみついてきた。眉を寄せ、懸命に泣き出しそうになるのを耐えている。


 彼女は小さな皇帝の黒髪を、「だいじょうぶですよ」とそっと撫でた。

 少し雷が収まると、皇帝は身体を離し、また雷の音がしてルネにしがみつく、という行為を三度ほど行った。らちがあかない、と廊下のソファに座らせる。皇帝は繊細な性質であるらしい。


 ——イザベル皇女殿下は? 繊細?


 あの記憶にまとわりつく思念の話を、厨房で余ったアイスクリームを拝借しながら伝えたら、大公は黙りこくってしまった。とはいえ、イザベル本人の記憶とは限らないし、穏やかなイザベルが兄に恨みを抱くような人にも見えないとも申し添えたが。


 女官にたずねたら、彼女は今日は自室で療養しているらしい。しばらく震えていた皇帝はふと、少しだけいたずらっ子の表情をした。


「余がこわがりなのわるくない。ギュスターヴおじうえもかみなりにがて」

「そうなのですか!?」


 にやにやとしている皇帝の愛らしい顔を、ふーん、とルネは見た。大公の意外な弱点を知ったが……。おとなしい皇帝はさらに調子に乗る。


「かみなりがなると、余にも、『わーっ、かみなりー!』とたすけをもとめてくる!」


 ルネは、その言葉にぷぷぷ……と吹き出してしまった。その内容にも、皇帝の舌足らずなかわいらしい喋り方にもである。

 お互いに笑い合っていると、穏やかな顔をした皇帝付きの侍従がやってきた。


「陛下。お勉強の時間です」

「あう……」


 皇帝はしょんぼりとした。ルネは優しく皇帝の肩をなで、微笑む。


「いってらっしゃい。お勉強、頑張ってきてください」

 皇帝はおっとりと、侍従に聞いた。

「きょうのおべんきょうは、なあに?」

「陛下のお好きな数学でございます」

「すうがく!」


 少年は目を輝かせた。


 皇帝は笑顔でにこにこと、侍従の手を自分で引いて、自室へと戻っていった。ばいばい、とルネに手を振りながら。


 皇帝の気配がなくなると、先ほどの侍従とは打って変わった冷たい他の侍従や女官たちが、皇帝の赴いたほうをみながら、ため息をついた。いつの間にいたのか、とルネは彼らの遁甲術に驚愕する。

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