第28話 大公にかけられた呪いの思念と、まるで同じもの

 宮廷料理長は話してくれた。 小さい頃のラスカリス大公ギュスターヴ少年の明朗さを。

 料理長と帝宮の庭の川で一緒に魚を釣ったり。

 侍従たちをチェスで打ち負かして賞金をごっそりもらったり。

 近衛兵たちと一緒に、広い帝宮を駆け回って隠れん坊したり。


「殿下のお顔には、いつも笑顔がありました。でも、——やはり大人になられたのでしょうか。……いや、違いますね。ああならざるを得なかった事情に思いをせますと、ああなるのもしかたないのかもしれません」

「事情?」


 ルネが聞くと、料理長は恐縮した。


「いえ、それは殿下のお口から直接聞いたほうがよろしいかと」


 それ以降は、料理長はまだ幼かった頃の、ラスカリス大公の思い出話ばかりしてくれた。


 アイスクリームが固まっただろう頃、大公が戻ってきた。ミントを持っていた。

 銀の美しい器にアイスクリームを盛り付けた後、ミントを飾り付けた。


「ああ、このアイスクリームは温室コンサバトリーで食す」

「温室?」


 アイスクリームが溶けやしないかと不安になりながら、ルネは大公のあとについていった。


 さすが帝宮の温室は大きく豪華な造りで、大理石の柱が何本も立っていて、どこぞの神殿のようであった。

 ささやかな席が設けられていて、そこには美しい女性とおとなしそうな黒髪の男の子が座っていた。

 女性は見たことがあった。大公そっくりな白金の髪が印象的な大公の妹、エウテュミオス女大公イザベル。季節にふさわしい、華やかな薄緑のドレスを着ている。穏やかに微笑していた。

 もうひとりの男の子は誰だろう。ルネを認めるなり、イザベル皇女の裳裾のかげに隠れてしまった。だが、興味深そうにサファイア・ブルーの瞳でこちらを見てくる。


 大公がささやいてきた。


「皇帝陛下だ」

「えっ、えっ、あっ、あううう」


 ルネはひらひらと踊るように後ずさった。

 大公はひざまずき、少年にいう。


「陛下、この娘が、以前から申し上げておりました私の妻です」


 ほっそりしたその少年皇帝は、繊細そうなサファイア・ブルーの瞳で「ん」と穏やかにうなずく。


「フィリベールだ。よろしくたのむ」


 ルネはいそいでひざまずいた。


「こ、こちらこそ、陛下、わたしなどに声をかけていただき、ありがとうございます」


 皇帝は小さく微笑むと、イザベルのほうを甘えるように見た。

 イザベルが微笑む。


「今日は兄上特製のレモンのアイスクリームをいただけるとか。陛下もわたくしも大変楽しみにしておりましたの」

「さようか」


 大公の無表情が、少しだけやわらぐ。主君兼甥と妹が相手のせいだろうか。

 給仕の手で銀器に盛られたアイスクリームが並べられた。

 ルネは席に案内されたが、びくついてしまっていつものように騒ぐことはできない。


 ——き、き、……。


 ルネは泣きそうになった。


 ——緊張しすぎていつもの食欲が出ないよーーーッ!!


 幼く引っ込み思案そうな皇帝がこちらを見た。そそっとルネのそばにより、おずおずとその膝を撫でた。


「……!?」

「きんちょう、しないで」


 ゆっくりと少年はルネに訴えた。


「アイスクリームおいしいから、その、みんなで」


 みんなで食べよう、といったっきり、彼は急いで自分の席、それでも落ち着かずにイザベルの膝に顔をうずめてはにかんだ。


「まあ」


 イザベルは優しく少年の黒い頭を撫でた。その少年をもの悲しげに見つめながら。


 その瞬間、ちり、と不意にルネに誰かの記憶が入り込んできた。初めての経験だ。


 ——何?


 誰かが、たぶんイザベルが、寒くて何も音がしない石畳の牢屋に傷だらけで放り込まれていた。

 ——さむい。くるしい。たすけて。おなかがすいた。おてあらいがない。しんでしまうの。しにたくない。なにもしらない。せかいじゅうのだれも、わたくしを、しんじてくれない。

 けたたましい足音がする。牢屋の扉がギッという重々しい音を立てて開けられ、足音の主が彼女のところにやってきた。

 優しい手が、彼女に戒められていた鎖を解いた。


 その瞬間、記憶が途絶えた。


「ふぐっ」


 人心地がしてきたルネはイザベルを見た。あいかわらず柔和で優しげな顔で皇帝の頭を撫でている。牢屋に閉じ込められていたような過去はなさそうなのだが……。

 イザベルはルネに向かって微笑んだ。


「今日はいい天気だわ。温室でささやかにアイスクリームを召しあがることができるなんて、いつぶりかしら」

「そ、そんなにご多忙で?」


 柔和そうではかなげなサファイア・ブルーの瞳が細められた。大公が代わりに答えた。


「いや、イザベルは身体が弱いんだ。あまり満足に外出もできない」

「そう。恥ずかしいことに、胃腸もとても弱いの。だから、アイスクリームは大丈夫かにお尋ねしたの。そうしたら、最近は格別のご不調もないし、召し上がってきてはいかがです、って」


 心底それが嬉しそうに、皇女は答えた。見れば線も細い。少し肌も青ざめている。


「夏は保養に行くのか」


 大公がイザベルに聞くと、イザベルは「どうしようかしら」と顎に手を当てた。


「わたくしが保養に行ったら、大公妃殿下に、こんないい季節なのに、わたしと一緒に過ごさないなんて、私のことが不愉快なのかしらって思われないかしら」

「イザベル、ルネはとは違う」


 サファイア・ブルーの瞳が、ルネを見た。じっくりと見て、本当にじっくりと見て、ああ、と気づいて安心したように微笑んだ。


「ごめんなさいね! わたくしったら失礼な勘違いばかりしているわ。そうよね」


 ルネは不審な気分になってイザベルを見た。

 そのあとは近況などを話したり、最後のほうは幼い皇帝も慣れてきてルネに甘えたりしてきた。


 小さなティータイムが終わり、ルネは先ほどのイザベルと思われる人の不思議な記憶を思い出していた。

 その記憶にまとわりつく思念に覚えがあったからだ。


 ——えーっと、うーんと。


 息が止まりそうになった。血の気が音を立てて引いていく。

 だった。

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