第18話 聖女がいらっしゃった。相変わらずお美しかった——

 くああ、とため息交じりの声が大きな室内で響いたのは春の夕暮れのことだった。


 大公の呪いの痣が、少しだけ大きくなっていた。大公を長椅子に寝かせ、ルネは急いで処置をする。

 ぽっつりと、大公が言った。


「聖女がいらっしゃった。相変わらずお美しかった——」

「えっ、叔母さまが!?」


 会いたかったなあ、とルネはため息をつく。「婚約」してからまったく会っていない。

 婚約披露目の宴に、聖女は出席しなかった。——いや、聖女は俗事にかかわってはいけないため、出席できなかった。

 だけれど、姪には会いに来ないくせに、大公には会いにくるらしい。むむっ、と目の前の「婚約者」に嫉妬の情が湧いてくる。


「なんでまた」


 つっけんどんな口調で言うと、大公は笑い震えながら、鼻を摘んで変な声を出し、ルネを煽った。


「なんでだろうなぁーッ? 私の求愛に負けて結婚する気になったと言ってたような気がする、ふふふふふっ」


 ルネは大きく息を引いて、激怒した。


「結婚式には出ますが、叔母さまを不幸にしたら、これ以上浄化しませんから!」

「待て、私たちが結婚する予定ではないか」

「そうでしたそうでした」


 不承不承といった調子で、ルネは冷静になった。大公は冷や汗を浮かべながら彼女にく。


「あのさあ、、結婚ってどういうことかわかってる?」


 ルネは胸に手を当て、ドヤッとした顔をした。


「この不肖ルネ・スキュリツェス、きちんとわかっております。法律等で社会的に認められたふたりが持続的に関係を維持することです」

「ソウデスネー」


 大公は呆れ返った顔をして、服を脱いだ。


「こいつ、ものすごく心配だ……。偽装結婚にほとんど抵抗しなかったあたりからおかしいと思ってたが……」


 と、呟き、数秒考え込み、こう言った。


「知らないイヤらしそうなおじさんに、ステーキ一キロくれるといわれても、ついていったらダメだからな」


 何を言われているかさっぱりわからないルネは「はーい」とうなずき、真っ黒な左肩にぺたぺたと軟膏を塗っていく。


 地道な作業である。日によって今日みたいに痣が大きくなることもあるが、ルネが治療を始めてから、時にはほくろほどの小ささになることもあった。腐臭は結構なくなっている。


 大公はサファイア・ブルーの瞳をまたたかせ、真面目に話し始めた。


「聖女がお見えになったのはお仕事でだ。怪物の出現の様子や結界の様子などを月に一度、皇帝陛下に定例報告する義務が聖女には課されている。政治的に動かれることもある。聖女のお力で、宮廷内の争いが鎮まったこともある。私も助けられた」

「え!」


「長い話になる」と大公は過去の話をした。


「先帝は皇后がいながら、『異世界から来た』とのたまう頭のおかしな娘にぞっこんになられてな」

「えっ! 本当に異世界から来たんですかっ!?」

「さあな。異世界からの侵略を恐れて、帝国全土をあげて聖女を含めたありとあらゆる魔術師が慎重に精査したが、そんな痕跡はなかった。だが、娘は我々とは異なる価値観を持ち、生まれ故郷はついぞわからなかった」


 謎が謎を呼んでいる、とルネはワクワクとした顔をする。


「異なる価値観!?」

「皇帝や身分差、聖女の存在を否定して皆に平等に接していた。家族の愛情なるものを信じていた。この世界で当然なことのいくつかを、初めて見るもののように興奮して見た。私は徹底的に戸籍を抹消された生粋のアナーキストだったのではと見ている。黒髪の女だったからおそらく黒髪の多い帝国南部生まれ」


 大公は名推理だろ、というようにルネを見た。彼女は、つまんない推理だなぁ、と渋い顔をした。


「ともかく、その娘は礼儀がなっていない。弟たる私や妹のイザベルにも敬語を使わず、ずけずけとものを言う。娘は帝宮が『冷たいところ』だと思っていて、自分がなんとかしなければと動いていたようだ。私は娘がいかに動こうと、敵対する理由がないから友好的に接していた。うまくこの娘を使えるかもしれぬ、と。娘はたやすく私を信頼し、まるで義理の姉のように振る舞った。彼女の前ではだった。彼女は、帝宮は『冷たい』のではなく、馴染めぬものに『厳しい』のだと気づけなかった」

「心が痛くなる話ですね。いろんな意味で」

「世の中とはそういうものだ。馴染んだ者には甘く、馴染めぬ者に厳しい。それがいいか悪いかはわからないが、そういうものだ」


 大公は鼻で笑う。 そういえば神聖騎士団に自分は馴染んでいただろうか。ルネは自問自答した。


「そしてその娘は、先帝陛下の子を産んだ。男子だった。皇后陛下は男子を手元で育てようとした。評判の悪い女と子をおつくりになられた先帝陛下の名誉のために、そして子を産まなかった自分の贖罪しょくざいのような心持こころもちであったかもしれない。だが、母子を引き離すのか、それが帝宮を冷たくしているのだ、とその娘にきつく迫られた先帝陛下は、あろうことか、皇后陛下を離縁なされることを決めた。いやしい民、しかも頭のおかしな娘を母に持つ皇子を、貴族はこぞって皇太子に据えかねると言った。それを聞いた皇后陛下はあろうことか、先帝陛下の——」


 痛そうな顔を大公はする。ルネは「痛いですか」と痛み止めを処方しようとした。だが、大公は首を横に振る。


「違う。痣が痛むのではない、股間……」

「?」


 大公は股間を押さえ、のたうちまわり始めた。


「ヴォォォッ、先帝陛下の、兄上の、股間を、鉄製のトゲトゲしたタワシで、ゴシゴシして、トンカチで、何本もの釘で打って、のこぎりで切り落としたぁぁ……」


 ルネも震え上がった。


「ひえええ!」

「で、先帝陛下はその衝撃で崩御なされ、皇太后となられた皇后陛下はすぐに自裁された。心中のようなものだ。で、『股間引きちぎり皇太后』とあだ名をつけられた。そのあと、誰が権力を握るか散々問題になったが、私のところに権力が転がり込んでくるよう差配してくださったのがリュディヴィーヌ猊下だ」

「途中の話が濃すぎて、リュディ叔母さまがかすむレベルだったんですが……。あのう、その娘はどうなったんですか?」


 冷たい目をして、大公は答えた。


「離宮に隠居して安らかにお過ごしくださいとお願いしても、息子を皇帝になどしたくないと抜かす。頭のおかしな尊大な愛妾だ。一部の者からは好かれていたが、大抵の者から疎まれていた。その末路は推して知るべしだ。ま、私が知るのはその娘は川に捨てられて水死体になっていたということだけ」

「川に捨てたの、殿下でしょう」

「敵対する理由がないから友好的に接したと言ったろう? だけだ」


 彼は意味ありげな微笑を浮かべた。


「……というより、そなた、聖女猊下に本当にお会いしていないのか!?」

「はい、お会いしたかったなあ……」


 ルネは悔しそうにいう。大公はドヤっとした顔を浮かべた後、立ち上がって両拳を天に突き上げ、勝利のポーズをした。そして長椅子に座りなおす。

 腹が立ち、ルネはぎりぎりといつもよりきつく大公の包帯を締め上げた。


 治療が終わると、「申し訳ない」と大公は服を着なおす。そういうところは律儀な人だ。


「いえ、おきづかいなく。ただ……」

「ただ?」


 大公が優雅にルネに視線を向ける。ルネはお腹を押さえた。ぐう、ぐご、ぐごごごごごと轟音ごうおんを出し始めた。


「……魔力を使いすぎて空腹になったか。牛肉がある」

「牛肉!」


 ルネは目を輝かせた。

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