第14話 先生の夫はそれに硬直す
クロード先生の、借金があってチャラい浮気性のクソ夫だ、と思って、ルネは結界を張った。
相手を確認すれば、
帝国魔法院の総長、帝国主席魔術師アリスティド・ヴァタツェス。
ルネは足元が震えた。どうして魔術界の重鎮がいるのだろう。そうだ、帝国主席魔術師なので、閣僚の一人に数えられ、帝宮に出入りするのは当たり前だ。
——無理なやつだ。
ルネは戦意をなくした。それと同時に、主席魔術師はルネの作った結界を掴み、いともたやすくべりっと破る。紙でも破るかのように。
「私が人を呪うように見えるか? 神聖騎士に結界を作らせても私がべりっと破けることはわかるだろう。無駄な抵抗だよクロード。お願いだ、帰ってきてくれ」
ん? とルネは何度も帝国主席魔術師を見た。
声を
「今日の夕食は君の大好きなシチューにしよう。春だがまだ冷える。マリーと一緒に戻ってきてくれ。あと仕事は、無理せずほどほどにしてくれ。産後から、無理は出来ない身体になっているだろうに」
クロードは男の姿のまま帝国主席魔術師を睨みつけた。
「あぁ〜あ。今日はシチューが食べたいなあ、どうしようかなあ」
アリスティドは目を輝かす。クロードが投げやりに言う。
「でも、作る人間がいないなあ。カノジョに作らせようかなぁ、あ〜あ、今日カノジョは用事があるんだったあ」
「カノジョなどいない!」
ルネは夫婦と思われる二人を見比べた。ドスのきいた声が廊下に響く。
「あ? いるだろうが! あ?! 子供を託児所に預けて、魔術師の勉強会に出て、帰ってきたら、夫がなぜか非常に早く帰宅していて! お、と思ったら、リビングに知らない女の衣服がかけられていて! 夫の寝室から! 若い女の『あっ、いやん♡ 先生、そんなふうにされても、わたくしのお乳から牛乳はでませんの♡ うふん、あっ、いやぁん、先生ったら、今度は搾乳ではなくパンをこねる真似をなさるの? あぁ〜ん、先生のす・け・べ♡』とかいういやらしい声が聞こえて! 何のクッキングやっとんじゃあ、と夫の寝室を急いで開けたら! 全裸の夫が女物の下着を頭にかぶって転送魔法を誰かにかけてどこかに送ったあとだったなんて——」
「変態じゃん!」
思わずルネは叫んだ。魔術界の
頬を真紅に染めながら、アリスティドが急いで魔法でルネに耳に半球状の覆いをかぶせた。その間の言い合いはわからないが、耳の覆いをキュポッと取ると、まだクロードは叫んでいた。
「……で、あー、女房呼んでこようかなあ! ついでに家もゴミ屋敷だぁ! 女房に片付けさせよう! あいつはなんだかんだで俺に逆らえない! 魔力のない子を産んでも養ってやった弱みがあるから!!」
「そんなこと思ってな——」
「ならどうしてマリーを魔術師の名門一家の自分のご両親に会わせないの? 養子に出せといわれるからでしょう? 拒絶するという発想のないことが、子供を誇っていないことでなくてなんなの!?」
血を吐くかのような悲鳴に、アリスティドが——帝国主席魔術師が固まった。氷魔法を受けたのだろうか。
ルネは心がずきりと痛んだ。
ルネの母の実家のカロフェロス家やこの浮気魔術師のヴァタツェス家などは魔力のあるものを生みやすい名門であり、そういった名門のなかには、魔力を持たない子は「魔力無し」と呼んで養子に出す家もある。
でも、それは、その関係者の誰かが血を吐くような思いをする行為だ。
「……ねえ?」
クロードの声はおどろおどろしいほどに冷たかった。帝国主席魔術師が、目を見開いたまま全く動かない。
「ちなみにマリーは僕の実家で祖父母と旅行中ですがぁ? 父親なのにそこを把握してない? 神聖騎士が作った結界を破ける魔力と魔術がありながら? 政府と魔法院との調整のお仕事ご苦労さまでーす。そりゃあ温かいものも食べたくなりますよねー。シチューなら四番街の通りの角のお店が
さすが上級魔術師、とルネはクロードを惚れ惚れと見た。神聖騎士の作った結界をべりっと破れる帝国主席魔術師を一瞬で凍らせた。
ルネはこれが
夫が固まっている間、妻は女性の姿になって微笑み、夫の頭に手を当てて、愛の告白でもするようになまめかしくその耳に囁いた。
「今のわたくしたちの会話や、わたくしたちに会ったことはきれいさっぱり忘れてね」
きぃん、と嫌な音が耳に響く。記憶操作術。それを帝国主席魔術師に使えてしまう魔術師がいる。クロードは、
玄関までつくと、クロードがすでに有翼馬のテオを車止めに連れてくるよう手配してくれていた。
「しばらくご実家のスキュリツェス侯爵邸においでください。帝宮と近いですから。なにかありましたらすぐご連絡します」
クロードの言葉に、ルネはうなずいた。
二人は全く気づかなかった。遠い廊下の向こう側で、衣擦れの音がしたことに。
その翌日の夕方、クロードの要請があり、ルネはラスカリス大公のところへと呼ばれた。おかげでその日の晩餐前の筋トレには参加せずとも良いことになった。
大公は安楽椅子に座り、衣服を緩めて女官の差し出した水を飲んでいた。女官は全く気づいていないが、ひどく腐臭がする。クロードは鼻を押さえて仰け反り、意識を半ば失っていた。
「痣を見せてください」
「何があったんですか……?」
「……今朝起きたらな。……全身重だるく、昨日女たちと愉しみ過ぎたせいに違いないと気にせずにいたら——」
半ば気を失っているクロードがやったのだろう、大公の頭の上に本が落ちた。
「午後から全く動けない。最近は良かったのに……。聖女のところにまた赴くべきだろうか」
大公は身を乗り出してルネに
「大丈夫です、ご安心を。どうせ聖女のお堂へ行っても叔母さまはわたしに託すでしょうから」
「いや、赴かねばなるまい」
「大丈夫ですってば! 意味ないから!」
「赴こうと思う」
「だから、意味ないですって! 無理に動くほうがダメです」
女官にただの水を桶に入れて持ってきてもらう。水に手をかざし、毒物などがないか水の成分を読み取る。なかったので浄化魔法をかける。薄青に水が光り、さざなみが出来たあと、渦を巻く。しばらくすると落ち着いた。
彼の肩にどばっと桶の水をかけていく。一面が水浸しになった。
「お風呂でやればよかった」
ルネはちょっとだけ後悔したが、クロードがすぐ乾燥させてくれた。上級魔術師はほぼ気絶していてもそういうことができる。
大公の肩から痣が消えていく。反面、大公はひどくむせ、今度は赤黒い血のようなものを吐いた。女官が水盤を持ってきてその血を受け止める。
大公の傷口に浄化の軟膏を塗り、さらにこの間からちまちま作成していた浄化の香水をふりかける。乳香の優しく神聖な香りが一面に漂う。
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