夏の終わり


 ペドロの話は続く。


「しかし、鬼の力が目覚めた君にとって、女性の振るう包丁など、蟷螂とうろうの斧にも満たないものだった。君は、襲いかかってきた由美さんの首を引きちぎって殺害し、さらに左腕をもぎ取った。そして、鬼の本能が命ずるまま食らおうとした。その時、君は室内にある鏡を見てしまった。人間の左腕を両手に掴み、今まさに喰らわんとしている鬼の姿をね」


 そう、あれは自分の姿だった。同時に、今になって封印していたはずの記憶が蘇る。

 はっきりと見えた。恐怖に顔を歪ませながら、包丁で零士の腹を突き刺した母の姿が……。

 痛くはなかった。刺された傷は、一瞬で癒える。だが、攻撃されたことに腹が立った。目の前にいるのは、貧弱な力しかないのに強い自分を殺そうとしている身のほど知らずの生物だ。

 怒りに任せて、母の首を掴んだ。すると、簡単にちぎれた。

 流れる血液は、鬼の本能を呼び覚ます。人間を引き裂き、ほふり、存分に喰らっていた時代の記憶。

 目の前にあるものは、美味い御馳走だ──


 本能の命ずるまま、仕留めた獲物を引きちぎる。まさに喰らおうとした時、視界の端で何かが動く。そちらを見た瞬間、零士は凍りついた。

 異形の怪物がいた。緑色の肌に獣のような顔。鉤爪の生えた手に、何かを握っている。

 引きちぎられた人間の腕だ──


 その異様な光景を見た瞬間、零士の中にある人間の部分が目覚めた。同時に、何かが叫ぶ。ここから逃げろ、と。

 声と同時に、零士はアパートの窓から飛び出した。近所にあったビルの壁をよじ登り、屋上まで一気に上がっていく。

 その後は、無我夢中で走り続けた。ビルの屋上を伝い、化け物じみた跳躍力で飛ぶように移動していく。逃げるあてなどない。ただただ、本能の命ずるまま人間のいない場所を目指したのだ。

 白土市の蛾華山に入り込み、ホッと一息つく。同時に、急激な眠気が彼を襲った。

 零士の意識は闇に沈んでいった。さらに、記憶も消えていた。


「あまりにもおぞましい姿に、君は混乱し窓から逃げ出した。人間には有り得ないスピードで白土市まで走り、山の中へと飛び込んでいった。あるいは、空を飛んだ可能性もある。ところが、そこで君の体力は尽きてしまった。鬼という生物は、人間の肉を食べなければ体力を回復できないようだからね。君は疲れ果て、そのまま眠ってしまった。後は、説明の必要もないだろう。つまり、君は母の肉を喰らってはいない」


 零士の蘇った記憶とほぼ同じことを、ペドロは目の前で語っていた。やはり、この男は天才だ。ほんの僅かな手がかりだけで、警察も辿り着けなかった真相をあっさりと解明してしまったのだ。


「その事件のことを知ったのが、君の父・茨木統志郎氏だ。由美さんの死体の様子は、マスコミに公表されていなかった。だが彼は、独自のルートで死体の損壊状況を知った。こんなことが出来るのは鬼だけだ。統志郎氏は、君の中に眠っている鬼の血が目覚めたことを知った。そこで、君を後継者として迎えることにしたわけだよ」


 そこで、ペドロはしゃがみ込んだ。零士に、そっと顔を近づける。


「さて、ここで問題だ。ホストにのぼせ上がり、生命保険金目当てに実の息子を殺そうとした女。その女に青酸カリを飲まされた挙げ句、包丁で刺殺せんと襲いかかってきたため反撃し実の母を殺害した少年。この場合、悪と呼ぶべきはどちらかな? 裁かれる必要があるのは、片方だけなのかな?」


 耳元で、そっと囁いた。それは、まさに悪魔の囁きだった。放心状態にある零士の心を、容赦なくえぐっていく。

 そして、悪魔の囁きは続いた。


「そもそも、罪だの悪だのと言っていること自体がバカバカしいことだよ。君は言ったね……僕は化け物だ、と。その通り、君は化け物だ。化け物が、人間の定めた法律や善悪などという観念に従う必要があるのかな。俺は、ないと思う」


 そこでペドロは、不意に零士の頬に触れた。そっと、こちらを向かせる。

 最凶の犯罪者と、両親を殺した鬼……ふたりは、鼻と鼻が触れ合わんばかりの距離で見つめ合う。両者の間には、不思議な空気が漂っていた。

 一瞬の間を置き、ペドロは恐ろしい言葉を口にする──


「人間どもを引き裂き、屠り、喰らうんだ。今の君には、数万の人命を犠牲にしても生き延びる値打ちがある。生物として、実に貴重な存在だ」


 しかし、零士はかぶりを振った。


「嫌だ。僕は生きたくない。見知らぬ誰かを殺したくない。人間を食べてまで、生き延びたくない。僕は嫌だ……」


 蚊の鳴くような声で答える。

 ペドロの言うようなことはしたくない。誰も殺したくないし、ましてや食べるなど想像もしたくなかった。そんなことをするくらいなら、死んだ方がマシだ。

 しかも、自分は父を殺してしまった。母の本性も知ってしまった。大橋も、目の前で死体となっている。上野も死んでしまった。

 愛していた者は、全てこの世から消えてしまった。今の自分は、ひとりぼっちの怪物でしかない。この上、何のために生き続けろというのか。

 再び、目から涙が溢れてくる。涙は、一瞬の間の後、雫となり床に落ちていった。冷たく硬いコンクリートの染みになっていく。

 もう、何も見たくない。こんな冷酷な世界からは、今すぐ消えてしまいたい……。

 その時、ペドロの声が聞こえてきた。


「俺は、君に生きて欲しい」


 途端に、零士は顔を上げた。ペドロを睨みつける。


「それは同情ですか? 同情なんかいりません」


「同情だって? 違うよ。俺は、他人に同情などしたことはない。ましてや、今の君は最強の生物だ。羨む気持ちはあっても、同情など出来ないよ。先ほども言った通り、君は貴重な存在だ。君を生きながらえさせるためなら、小さな国のひとつくらい消滅させても構わないと思っている。それにね、俺は君に苦しんでもらいたいのさ」


 そこで、ペドロはまたしても笑った。

 悲しみに打ちひしがれている零士を嘲笑しているのか。あるいは、零士を待ち受ける運命を想像し笑っているのか。だが、少なくとも同情や憐れみは感じられなかった。


「人間を超越した力を持つ最強の生物が、人の心と怪物の本能の狭間でもがき苦しみ、血と涙を流し、時には人間に化け物として追われ……ボロボロになりながら、それでも必死で生きていく姿が見たいのさ。もちろん、それは君のためじゃない。それを見ている俺の知的好奇心と精神的愉悦のために、だ。他人の不幸は蜜の味、という言葉もあるしね」


 そこで、ペドロの手が伸びてきた。零士の頬に流れ出た雫を、そっと拭き取る。


「俺は、君に生きて欲しいと願っている。君が、地獄から這い上がる姿を見たい。この先、数々の試練を乗り越えて生き延びた君と、どこかで再会できることを心から望んでいる。真の意味で、最強の生物となった君と再会できるのなら、俺の持てる全てのものを捨て去っても構わない」


 言った後、ペドロは立ち上がった。零士を見下ろす目には、奇妙な感情が浮かんでいる。


「では、最後の質問だ。君は、死にたいと言ったね。だが、君が死んだところで何も変わらない。この平和な島に破壊と殺戮をもたらした者は、何事もなかったかのようにのうのうと生き続けるのだよ。君は、それを許せるのかい?」


 直後、背を向け歩き出した。振り返ることなく、その場から姿を消す。




 ひとり残された零士は、じっと座り込んでいた。

 不意に、またしても涙が溢れ落ちる。


(零士! キスさせろキス!)


 能天気な父の姿が、脳裏に蘇る。ほんの数日前の出来事だ。僅かな期間だったが、統志郎と過ごした日々は本当に幸せだった。いっそのこと、最初から母とではなく父と暮らしていたら、こんなことにはならなかったのではないか。

 父だけではない。大橋、上野、メイドの女。みんな、いいたちだった。これまでの人生で、彼女らのように接してくれた人たちはいなかった。

 あの優しき日々は、もう二度と戻って来ない。

 自分の手で、壊してしまったのだ。


(零士、お前は生きてくれ)


 父の最期の言葉は、あまりにも切ない。そっと目を閉じ涙を流していた顔は、はっきりと脳裏に刻まれている。本能のまま荒れ狂う零士に一切の抵抗をせず、されるがままになっていたのだ。 

 零士を、愛してくれていたから──


「父さん……ごめんなさい……」


 呟いた直後、零士の意識は薄れていった。あの時と同じく、強力な眠気に襲われたのだ。そのまま目を閉じ、横たわる。

 意識が闇に沈む前に、零士が見たものは……統志郎や大橋や上野らと一緒に草原に座り、仲睦まじく笑いながらサンドイッチを食べる自身の姿であった。








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