風間由美という女


「あなたに、お願いがあります。僕を殺してください」




 その言葉を聞いたペドロは、零士をじっと見つめる。前と同じく、威圧感ある視線だ。

 しかし、零士は目を逸らさなかった。彼の視線を正面から受け止める。言葉に出来ない思いが、両者の間でぶつかった。あたかも、昔の剣豪が真剣を構え対峙している……そんな恐ろしい空気が流れている。

 ややあって、ペドロが口を開いた。


「その前に、ひとつ教えてもらいたい。なぜ、君を殺さなくてはならないのか、理由を述べてくれないかな?」


 静かな声だった。態度も、これまでと同じく堂々としたものである。目の前にいるのが、恐ろしい力を秘めた鬼だという事実にも、全く動じていないらしい。


「僕は、自分の母を殺してしまいました……」


 零士は感情を抑えつけ、どうにか語った。だが、そこで言葉につまる。ペドロは急かす様子もなく、無言で耳を傾けていた。

 ややあって、零士は再び語り出す。


「しかも今、父のことも殺してしまいました。僕は、この手で両親を殺した化け物なんですよ。罰を受けなきゃならないんだ」


 罪を犯した以上、罰を受けなくてはならない。これは当然のことだ。しかも、自分は親殺しである。これ以上の悪があるだろうか。

 それに、こんな世界で生きていたくない──


「僕はこの先、また何人の人間を殺すかわからない。もう、人を殺したくない。誰も殺したくない……だから、生きていちゃいけないんです」


 それが限界だった。零士はこらえきれず、再び崩れ落ちる。その目から、涙が溢れ落ちた。雫は下に落ち、床を濡らしていく。口からは、嗚咽の声が漏れ出ていた。

 少しの間を置き、ペドロが口を開く。 


「申し訳ないが、断る」


 その言葉に、零士はそっと顔を上げた。

 ペドロの顔つきは、先ほどと全く変わっていない。静かな……いや、冷めきった表情のまま再び語り出した。


「まず、俺は君を殺すよう依頼されてはいない。俺を雇うには、それなりの額の報酬を支払わなくてはならない。その額は高いよ。今の君に、支払いは無理だ」


 報酬、ときた。

 こんな状況でも、ペドロは自身の利を優先事項としているらしい。以前から薄々は感じていたことだが、今あらためて確信した。この男は、人間を超越している。

 以前、誰かがこんなことを言っていた。


(悪魔なんてね、人間の考えたものなんだよ)


 違う。

 悪魔は、現実に存在している。目の前にいる男こそが、本物の悪魔なのだ。人の魂をかてとして生きる存在。

 そして、自分は怪物だ。文字通り、人の肉を喰らって生きる存在。同類なのだ。

 さらに、ペドロは話を続ける。


「確認させてもらうよ。君は、罪を犯した。両親を、自分の手で殺してしまった。それ故に死ななくてはならない……そう思っているのだね?」


「それだけじゃありません。僕は怪物です。人間を殺して喰らう……そんな化け物は、生きていてはいけないんです」


 そう、零士は本物の怪物なのだ。実の母親を殺し、その肉を喰らった。

 今、実の父親をも殺してしまった。しかも、統志郎は自分に対し何の罪も犯してはいなかった。なのに、勝手な思い込みから父に襲いかかり、この手で命を奪ってしまったのだ。

 この件で、もっとも悪いのは自分なのだ。ならば、もう死ぬしかない──


 だが、ペドロの考えは違っていた。


「そう、君は怪物だ。人間ではない。ならば、人間の作り出した法や道徳や善悪などという概念に、従う必要はないのではないかな」


「えっ……」


 唖然となっている零士に向かい、ペドロはよどみなく語っていく。


「違うかね? 法や道徳というものは、人間が社会で生きていく上での拠り所だ。これを守って生きていけば、とりあえず皆からひどい目に遭わされることはない……というものだよ。ところがだ、君は人間ではない。ならば、法も道徳も守る必要がないのだよ」 


 そこで、ペドロは口元に笑みを浮かべた。いかにも楽しそうな表情である。

 だが、その口から語られる内容は、零士の心をさらに搔き乱すものだった。


「ひとつ、面白い話を聞かせてあげよう。君の母親である風間由美さんに、茨木統志郎氏は養育費を払っていた。額は六十万円らしい。毎月それだけの額を、一回も遅れることもなくきちんと支払っていた。これは、一般の相場を考えれば決して安くはない額だよ」


「ど、どこでそれを……」


 愕然となり、思わず尋ねていた。しかし、ペドロは即座に答える。


「申し訳ないが、本土にいる知り合いに頼んで調べてもらったのだよ。話を戻すとだ、支払われる養育費に加え、子育ての際に支給される様々な手当ての存在を考慮すれば、親子ふたりが暮らしていくのに問題はないだろう。現に、由美さんは一年前までは問題なく暮らせていた。贅沢もせず、身の丈に合った暮らしをしていた。君も、覚えているだろう」


 その通りだった。

 中学に入るまでは、本当に平和な家庭だった。母ひとり子ひとりだが、父がいないという事実について悩んだことはない。不自由さを感じたこともない。

 全てが変わったのは、一年ほど前からだった。


「ところが、町で旧友と再会してしまったことが彼女の運命を変える。その旧友に誘われ、由美さんはとある店に行った。いわゆるホストクラブだ。どんな場所かは、君も知っているね?」


 聞かれた零士は、こくんと頷いた。

 ホストクラブ……もちろん、行ったことはない。だが、どんな場所であるかは知っている。派手な格好をした若く顔のいい男性が、女性をもてなす場所だ。

 母は、そんな場所に行くような人間ではないと思っていた。だが、違っていたらしい──


「そこで、由美さんはひとりのホストと出会った。そこから、彼女の人生は変わる。以来、由美さんはホストクラブに通うようになった。これまで派手な遊びなどしたことのない由美さんを、ホストは言葉巧みに篭絡したわけだ。統志郎氏の払っていた毎月六十万の養育費は、あっという間に消えてしまった。にもかかわらず、彼女はホストクラブ通いを止めない。由美さんは、やがて風俗店に勤めるようになった。ホストクラブに通うためだ」


 あまりにも衝撃的な話だった。

 母が夜の店に勤めていることは、子供の零士にも薄々わかっていた。だが、それは父が養育費を払ってくれていないからだと勝手に思い込んでいたのだ。

 まさか、ホストクラブに通うためだったとは……。

 衝撃のあまり、再び崩れ落ちる零士だった。しかし、ペドロの話はさらにおぞましい方向へと進んでいく。


「やがて、金に困った由美さんに、ホストはある計画を持ちかける。それは保険金詐欺だ。息子に生命保険を掛けさせ、頃合いを見て殺害する。つまりは、君の殺害だよ」


 そこで、ようやく零士の口から言葉が出る。今になって思い出したことがあった。ペドロの話とは、明らかに矛盾している事実だ。


「ま、待ってください。母さんは、警察に僕の捜索願いを出していたんですよ……」


 そう、木下刑事は言っていたのだ。君のお母さんは、警察に捜索願を出したのだ……と。これは間違いないだろう。殺す相手に、わざわざ捜索願など出すだろうか。そんなことをする意味がない。

 もっとも、行動の意味などどうでもいい。零士の本音を言えば、ペドロの話が間違いであって欲しかったのだ。あの優しかった母が、ホストに狂った挙げ句に金目当てで自分を殺そうとするなど信じられない。いや、信じたくない。嘘でなくてはならなかった。

 しかし、その疑問に対するペドロの答えは、非情なものだった。


「それも、計画のうちなんだよ。話を戻すと、由美さんはネットにて青酸カリを購入した。そして六月二十九日の夜、君に飲ませた。結果、君は意識不明の状態に陥る。あるいは、仮死状態だったか。ひょっとしたら、一度は本当に死んだのかもしれない。その後、由美さんは君の死体をどこか見つからない場所に始末するつもりだったと思われる」


 話を聞きながら、零士は必死で当時の記憶を蘇らせようとした。同時に、今の話に矛盾がないか考える。ペドロの話に対し、反論するための材料を見つけ出すためだ。

 しかし、何も見つからなかった。ペドロは、やはり真実を語っているのだ。


「状態がどうあれ、君は動かなくなった。由美さんは、倒れている君を放置し警察に捜索願いを出す。日本の法律では、警察に捜索願いが出てから七年経てば、死亡したものとみなされる。これを失踪宣告というらしい」


 生命保険、青酸カリ、死亡、そして失踪宣告。次々と出てくる恐ろしい言葉を前に、零士の精神は今にも崩壊しそうだった。母が、そんな計画を立てていたとは……。

 そんな零士を、ペドロはさらに追い詰めていく。


「わかったかい。生命保険金を得るためには、君が死亡しなくてはならない。だが、死体が見つかってしまうと、警察は殺人事件として捜査することになる。となれば、由美さんたちが疑われる可能性が高い。しかも、警察はなかなか手ごわい連中だからね。本腰を入れて捜査されたら、素人の企てた保険金殺人など、簡単にバレてしまうからね。実際、由美さんのネットの履歴は巧妙に消されていたが、それでも青酸カリを購入した痕跡は見つけられたそうだよ」


 ペドロの言う通りだ。

 死体を調べられれば、死因などはすぐにバレてしまう。青酸カリなど用いれば、なおさらだ。警察なら、おかしな点にすぐに気づくだろう。

 そして、ペドロの口から続けて語られる話は、零士の考えを裏付けるものだった。


「由美さんが死体をそのままにして警察に通報すれば、その日のうちに彼女は逮捕されていただろう。ところが、死体が見つからなければ、ただの行方不明でしかない。少年の家出など、よくある話だよ。死体が見つかれば殺人事件だが、見つからなければ単なる家出として処理される。日本では、年間およそ十万人近くの行方不明者が出ているそうだ。君も、そのうちのひとりとして記録されるはずだった。そんな小さな事件を、警察は時間と人員を割いてまで捜査したりしない」


 そこまで計算していたのか。

 零士は、由美の生前の姿を思い浮かべた。あの優しかった母が、こんな恐ろしい犯罪に加担してしまった。

 しかも、標的は自分だった──


「その上、死亡したと見なされるまでの七年間は、君の養育費が支払われ続ける。死んでしまえば支払う義務はなくなるが、行方不明という事態なら別だ。そこに目をつけた者がいたのさ。ホストが計画し、由美さんが実行……途中までは、上手くいきかけていた」


 淡々と明かされていく事実に、零士はもう反論することも出来なかった。信じたくない話だったが、彼にはわかっていた。

 これは、全て真実なのだ。


(真実というものは、時に信じられないくらい残酷な一面を見せることもあるからね。知らない方が幸せなこともある)


 以前、ペドロが零士に放った言葉だ。確かに、これはあまりにも残酷すぎた。知らない方が幸せだった。

 心底から打ちのめされ、何も言えなくなった零士。だが、ペドロは一切の手加減なしで語り続けていく。

 

「ここで、想定外の事態が起きる。青酸カリにより、君は死亡したはずだった。事実、購入したのは、普通の人間なら確実に殺せる量だったらしい。ところが、由美さんの前で君は生き返ってしまった。毒を飲まされ一時的にせよ仮死状態に陥ったことにより、体の奥深くで眠っていた鬼の力を呼び覚ましてしまったのだよ。君の体は鬼へと変化し、体内の毒を消し去った。由美さんはそれを見て慌てた。反射的に、包丁を振り上げ殺そうとした。どうしても、君を殺したかったようだね」


 あの包丁は、零士を殺すために握ったものだった。

 青酸カリを飲ませた後、怪物と化した息子を見た母は、いったい何を思ったのだろう。恐ろしさのあまり包丁を握ったのか。

 いや、怪物が恐ろしかったのなら、すぐに逃げるはずだ。にもかかわらず、由美は初志貫徹するため包丁を握った。怪物と化した息子を、己の手で殺害しようとした。

 結局、母が愛していたのは息子の零士ではなかった。

 顔も名も知らぬ、ひとりのホストだったのだ。






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