次の犠牲者

 いつの間にか、床が真っ赤に染まっている。これは何だろう。

 

 血だ──


 零士は悟った。あれが、また始まったのだ。

 血溜まりの中には、死体が転がっている。首を引きちぎられ、右手には包丁を握っている。左腕はといえば、首と同じように切断されていた。肘のあたりから先がない。

 首はどこだ? 零士は、必死であたりを見回した。その時、あいつと目が合う。

 緑色の爬虫類を思わせる肌。紅く光る瞳。鉤爪の生えた手。あいつは、まっすぐ零士を見つめている。

 前回と同じく、零士の口から悲鳴があがる。

 ほぼ同時に、怪物も口を開けた。鋭い牙があらわになる。あの牙で、零士を噛み殺すつもりなのか。


「無駄だよ。お前には、何も出来ない。なぜなら……」


 どこからともなく声が聞こえた。だが、後半は何と言っているのかわからない。

 怪物は口を開け、零士に食らいついた──


 そこで、目が覚めた。

 零士は体を起こし、辺りを見回す。窓から見える外の風景は、暗闇に覆われていた。まだ、二時か三時頃だろう。

 ベッドで仰向けになり、天井を見つめる。

 あの刑事の言っていたことが本当なら、零士が見ていたものは事件当時の記憶ということになる。

 では、母を殺したのは怪物だということか。だが、あんな怪物が現実にいるわけがない。となると、あれは何なのだろう。

 入院していた時、悪夢の話を医師にした。すると、医師はこう言っていた。その夢は、君の思い出したくない記憶なのかもしれない……と。

 ひょっとしたら、自分の目に犯人は怪物のような姿に見えていた、ということなのか。そんなことを思いつつ、零士は眠りに落ちていった。




 翌日、零士はいつも通りの時間に起きた。朝食を食べ、自室に戻る。

 いつもなら、自転車に乗り出かけていただろう。しかし、今日は外出する気になれなかった。木下刑事から言われたこと、そして昨夜の悪夢が頭を離れてくれない。

 あの夢は、やはり事件の記憶なのだろうか。だが、あんな怪物が世の中に存在するはずがない。


「何がどうなっているんだ?」


 思わず呟いていた。

 そういえば、木下はこうも言っていた。零士の着ていた寝間着に、母の血が付着していた……と。

 母が殺された現場に、零士もまた寝かされていたというのか。犯人は、何のためにそんなことをしたのだろう。

 考えれば考えるほど、わけがわからなくなってくるだけた。結論が出ぬまま、時間が過ぎていった。




「ねえ、大丈夫?」


 昼食の時、大橋に声をかけられた。零士はギクリとしながらも、どうにか答える。


「は、はい。大丈夫です」


「そうは見えないよ。なんか悩みでもあるの?」


「いや、本当に大丈夫です。悩みなんか、ないですから」


 そう言って、零士は笑った。だが、引きつった笑顔になっているのは自分でもわかる。

 そんな下手な演技をする少年を、大橋はじっと見つめた。その眼力に圧倒され、零士はたじたじとなり目を逸らす。

 ややあって、大橋は口を開いた。

 

「わかった。これ以上は聞かないけど、何かあったらいつでも相談して」




 部屋に戻った零士は、ベッドに寝転がった。

 大橋は、本当にいい人だ。いや、大橋だけではない。上野も、メイドたちも、父の統志郎も……夜季島にいる人たちは、みんないい人ばかりだ。

 しかし、この島には会員制の風俗店がある。父は、その店の経営者なのだという。その事実に対し、零士は複雑なものを感じていた。

 もちろん、彼とて一応は男子だ。性的なものに対し、興味がないわけではない。風俗店が、どのような存在であるかもわかっている。

 しかし、自分の父が風俗店を経営しているという事実を、どう解釈すればいいのだろう。多感な十三歳の少年にとって、簡単に受け入れることの出来ない話である。

 少なくとも、友人に自慢できるような話でないのは確かだ。こんな悩みを、大橋に相談できるはずもなかった。

 問題は、もうひとつある。


(この島は、裏でとんでもないことが行われているという噂もあるんだ)


(大勢の人間の命が失われているかもしれないんだよ)


 刑事である木下が、とんでもないことと評する事態。しかも、人命まで失われているかもしれないというのだ。これは、確実に法に触れることだろう。おそらくは、父もかかわっている。

 このまま放っておいたら、どうなるのだろうか。木下が、島の裏側にあるものを全て暴き立ててしまうのかもしれない。

 その場合、父はどうなるのだ? せっかく再会できた父が不幸になる姿は、絶対に見たくない。それに、大橋や上野らが巻き添えを食うのも嫌だ。

 かといって、木下を止めることなど出来ない。自分には、そんな力などないのだ。 


 これは、十三歳の少年の悩みとしては、あまりにも大きな問題である。零士は、だんだんと考える気力がなくなってきていた。

 やがて何もかも嫌になり、思考を拒否しボーッと天井を見つめていた。


 ・・・


 夜季島は、夜になると暗闇に覆われる。夜の都会とは違う、本物の暗闇だ。

 旅行者が泊まるホテルの周囲には、僅かばかりの光があった。だが、建物から十メートルも離れれば、完全な闇の世界である。ライトなしで出歩くことなど、まず不可能であろう。

 そんな場所を、刑事の木下は歩いていた。ホテルを出た後、港の方向へと進んでいく。マグライトで前方を照らしてはいるが、それでも足元は危うい。急げば、確実に転倒するだろう。

 森の中を慎重に進んで行った時、不意に声が聞こえてきた。


「そこで止まるんだ」


 男の声だ。木下は、即座に立ち止まった。ライトを、声の聞こえてきた方向に向ける。

 立っていたのは、ひとりの男性であった。身長は百六十五センチから百七十センチ、Tシャツの袖から覗く二の腕には瘤のような筋肉がうねっている。暗いため顔をはっきりと見ることは出来ないが、どうも日本人ではなさそうだ。暗闇に覆われた森の中で、明かりも持たず突っ立っている。

 そこにいたのは、ペドロだったのだ。夜季島に災厄を撒き散らし、この王国に亀裂を生じさせている破壊者である。

 木下はまだ、その事実を知らない。それでも、相手が只者でないことは一目で見抜いていた。警戒しつつ口を開く。


「あ、あんたがペドロさんか?」


「そうだよ」


「あんた誰だ? ここに書いてあることは本当なのか?」


 言いながら、木下がポケットから出したのは一枚の便箋だった。

 その便箋には、この夜季島の秘密が書かれていた。しかし、今の木下には到底信じられぬことばかりである。最後に、証拠が欲しければ指定された場所に来い……という一文で結ばれていた。

 木下は、その指示に従い手紙に書かれていた場所へと来たのである。


「ああ、本当さ。俺は、嘘が嫌いだからね」


 ペドロは、落ち着きはらった態度で答えた。すると、木下は便箋をちらつかせる。


「読ませてもらったがな……こんなことは、有り得ないんだよ。証拠はあるのか?」


「君が信じようが信じまいが、それは君の自由だ。だがね、それが真実なんだよ。もうじき、この世を去ることになる君への、せめてものはなむけだ」


「な、何を言っているんだ……」


「君は、余計なことをしてくれた。零士くんに、いらない情報を吹き込んでくれたね。それに、君のような人間にこの夜季島をウロウロされると非常に迷惑だ。したがって、ここで退場してもらうことにしたのだよ」


 言いながら、ペドロはにやりと笑った。

 木下は、ようやく目の前の外国人が何を言わんとしているかを理解した。反射的に、マグライトを振り上げ身構える。彼の持つマグライトは、警棒としても使える頑丈なものだ。

 この木下は、百八十センチで九十キロの恵まれた体格の持ち主である。学生時代は柔道に打ち込み、オリンピック候補にまでなった経歴の持ち主だ。交番勤務の時には、荒れ狂う若者たちの集団に単身で飛び込み、乱闘を止めた経験もある。荒事には、普通の刑事より耐性がある……はずだった。

 だが、木下は何もわかっていなかった。ペドロは、彼がこれまで相手にしてきた犯罪者とは、まるで違う。野獣に近い身体能力に加え、高い知能と鋭い観察眼を兼ね備えた怪物なのだ。さらに、生きるか死ぬかの修羅場を何度も潜り抜けている。人間のレベルを、完全に超越しているのだ。

 木下がいかに強かろうとも、しょせんは人間である。ペドロのような怪物には、拳銃でも持っていなければ勝ち目はない。そして日本の警察は、拳銃の取り扱いには非常にうるさい。刑事といえども、拳銃を持ち出すには様々な手続きが必要だ。

 したがって、今の木下は拳銃を所持していなかった。

 

 勝負は、ほんの数秒で終わる。木下は首をへし折られ、無惨な死体へと変わっていた。勝負というより、一方的な殺害という方が正確だっただろう。

 ペドロの方は、涼しい表情で死体を見下ろしている。人ひとり殺した直後だというのに、冷静な顔つきだ。

 その後の行動にも、一切の躊躇が無かった。木下の大柄な体を、ひょいと担ぎ上げる。そのまま、森の中へと消えていった。




 やがて、ペドロは海岸へと到着した。木下の体を担いだまま、暗闇の中を数キロ歩いたのに、顔には疲労の色がない。それどころか、停泊してある大型ボートに死体を担いだまま、軽い足取りで乗り込んでいったのだ。

 船室の床には、美琴が繋がれていた。両腕と右足とを床に固定されている。失われた左足には、未だに焦げ跡が残っている。さらに、体のあちこちにも火傷の痕があった。ペドロから受けた拷問によるものだ。

 入ってきたペドロの姿を見るなり、彼女は恐怖に顔を歪める。口からは、か細い声が漏れ出ていた。


「お願いです、もう許してください。何でもします。何でも言いますから……」


 ペドロは、小さな声で訴えてくる彼女を無視して木下の体を床に下ろした。死体から、着ていた服を力まかせに剥ぎ取る。

 途端に、美琴の顔つきが変わった。先ほどまで怯えていたが、今は口を半開きにして死体を凝視している。

 次の瞬間、顔そのものが変化した。瞳は紅く光り、口からは鋭い犬歯がにゅっと伸びる。指には鉤爪か生え、完全に人外の者へと変貌していた。

 その変化を見て、ペドロはにっこり微笑む。同時に、肉切り包丁を拾い上げた。


「さあ、食事の時間だよ」






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