悪魔の教え(1)

 その時、零士はベッドで寝ていた。

 もう、何もする気になれなかった。周囲で、様々な人間が各々の思惑で動いているのはわかっている。だが、それは十三歳の少年にとって、あまりにも複雑で難しい世界だった。白か黒か、善か悪かで決められるものではない。ただ、自分がどちらかを選ぶかでしかないのだ。

 そして零士は、どちらも選びたくなかった。考えることに疲れてしまい、朝からずっとベッドに寝転び、ぼんやりと天井を眺めていた。このまま、何もしないでいよう。気がつけば、全てが解決しているかもしれないのだから……そんなことを考えていた。

 しかし、零士の運命は非情なものだった。この世の全てを司る神は、彼を放っておいてはくれなかったのだ。

 



 突然、窓のガラスがぴしりと鳴る。

 何かが当たったらしい。いったい何事が起きたのだろう。零士は起き上がり、そっと窓に近づいてみる、

 窓から下を見た瞬間、愕然となった。顔は青ざめ、下にいる者を凝視する。

 鉄柵の向こう側から、零士のいる部屋を見上げている者がいたのだ。遊びにきたよ、とでも言いたげな表情を浮かべている。Tシャツに短パンという格好で、一見すると夏のリゾート地にいる旅行者でしかない。

 しかし、零士にはわかっていた。今、こちらを見ている男は、ペドロという名の犯罪者である。七人を殺して刑務所に入れられたが、脱獄し今は夜季島に潜んでいるのだ。

 そんな恐ろしい男が、屋敷のすぐ近くに来ていた。いかにも楽しそうな表情で、零士のいる部屋を見上げている──


 次の瞬間、零士は窓から飛び退いた。カーテンの陰に身を隠し、顔を歪め座り込む。あの怪物が、ここに来てしまった。間違いなく、零士に用があるのだろう。

 出来ることなら、もう何もしたくない。ここ一ヶ月の間に起きたことや知ってしまった事実は、十三歳の少年の許容量を完全に超えていた。大人ですら、ノイローゼになってしまうかもしれない事態の連続であった。

 今は、何も見なかったこと、聞かなかったことにしてベッドにもぐり込みたい。現実から、速やかに逃避したかった。

 しかし、零士は立ち上がった。どうにか下に降りていき、大橋に気づかれぬよう静かに外へ出ていく。

 あのペドロという男は、何を思ったかわざわざ屋敷までやって来た。しかも、零士を呼び出しているのだ。このまま何もせずにいたら、何を仕出かすかわからない。ひょっとしたら、力ずくで屋敷内に侵入してくるかもしれないのだ。

 万一、侵入してきたペドロと大橋が接触してしまったら……あの男は、相手が女性だからといって容赦するようなタイプではない。大橋は、殺されてしまうだろう。

 ならば、自分が止めるしかない──




「やはり出てきてくれたか。嬉しいよ」


 会うと同時に、意味深な言葉を吐いたペドロ。その表情は穏やかなものだ。一方、零士の方は死人のような顔色になっている。


「あ、あなたに聞きたいことがあります」


 その声は震えていた。声のみならず、足も震えている。立っているのが、やっとだった。


「何かな」


「この島で、何をするつもりなのですか?」


 どうにか、聞きたかったことを口から出せた。直後に手を伸ばし、傍らの大木に触れる。どうにか体を支えていた。


「いずれわかるよ。それまでは、君に言うつもりはない」


「なぜですか? 僕に言えないことなんですか?」


「そう、言えないことだよ。企業秘密、というものだね」


 ペドロは、くすりと笑った。だが、直後に表情が一変する。


「次は、こちらから質問させてもらおうか。仮に、君の今の質問に対し、俺がペラペラと答えたとしよう。君には、その答えの真偽を判別する術があるのかい?」


「えっ……」


「人間は、平気で嘘をつく。ましてや、俺は犯罪者だ。犯罪者には、嘘つきが多い。というより、全ての犯罪者は嘘つきだ。日本には、嘘は泥棒の始まりという言葉があるそうだね。これは真実だよ」


 いつの間にか、零士は真剣な表情で聞き入っていた。

 嘘つきは泥棒の始まり……これは、誰から聞いた言葉だろうか。幼い頃、確かに聞いた記憶はある。もしかしたら、小学校低学年の授業で聞いたのかもしれない。

 そんな子供向けの格言を、最凶の犯罪者の口から聞けるとは思わなかった。しかし、小学校教師の口から聞かされるものとは、レベルの違う説得力を感じる。


「犯罪者は嘘つきだという事実を踏まえた上で、先ほどの質問に戻ろう。君は俺に、この島で何をするつもりなのかと聞いた。仮に、何もしないよと答えたとしよう。その場合、君は俺の言ったことを鵜呑みにするのかい?」


「い、いいえ、信じません」


 そう、信じられるわけがない。

 言われてみれば、確かに犯罪者は嘘つきだ。殺人犯に人を殺したかどうか聞いて「はい、殺しました」と素直に答えるようなら、警察など必要ない。詐欺師などは、嘘をつくのが仕事のような部分がある。

 ましてや、目の前にいるのは高い知性と強靭な肉体を兼ね備えた脱獄犯である。むしろ、真実を言ってくれると期待する方がおかしい。

 一方、ペドロは笑みを浮かべて頷く。


「フッ、実に賢明な選択だ。しかし、それだけでは不充分だね。犯罪者とはいっても、のべつまくなしに嘘を吐いているわけではない。全ての人間は、状況次第で変わる。本当のことを言うこともあれば、嘘を吐くこともある。さて、君はどうやって言葉の真偽を判別するのかな?」


「自分で調べてみます」


「自分で調べる、か。なるほど。だがね、自身の目が必ずしも真実を映し出しているとは限らないよ。そのことだけは、頭の片隅にでも留めておいてくれたまえ」


 どういう意味だろうか。聞き直そうとした時、ペドロの口から聞き逃せない言葉が飛び出す。


「せっかく出てきてくれた御礼だ。もうひとつ、君に教えてあげよう。あの木下という刑事には、退場してもらった」


 愕然となった。この男は、木下刑事のことまで知っていたのか……。

 恐ろしい事実を突きつけられた零士は、頭が混乱し何がどうなっているのかわからなくなってきた。ペドロは、本物の怪物なのだろうか。以前にペドロは、目から入ってくる情報を元に相手を分析できる……などと言っていた。ならば、木下刑事のことも見抜いたのだろつか。

 いや、それよりも大事なことがある。

 

「退場、ですか?」


「そう。彼の存在は、いささか目障りだった。また、ここに留まっていられては、俺の計画にとっても邪魔だからね。申し訳ないが、退場してもらった」


「それは、どういうことですか?」


「よく考えてみれば、自ずとわかってくるはずだよ」


 途端に、零士の足が震え出した。どうにか傍らの大木にもたれかかり、体を支える。

 そもそも、考えるまでもないことだった。この男は、木下を殺したのだ。これまで、七人の人間を殺している極悪人である。その経歴に、またひとり追加されることなど、何とも思わないであろう。

 同時に、ペドロは満足げな表情で頷いた。 


「そう、君の思った通りだよ」


「殺したんですね……」


 呟くように言った。だが、頭の中では様々な思いが駆け巡る。いったい、どうすればいい? この男が刑事の木下を殺したのであれば、次に何が起こる? 

 すると、声が聞こえてきた。


「さて、以前と同じ質問をしよう。ここに十三歳の少年がいたとする。ごく平凡な能力しか持たぬ彼の目の前に、凶悪な脱獄犯が現れた。脱獄犯は巨漢の力士を素手で殺せるだけの殺傷能力を持ち、走るのも早い。必要とあれば、何のためらいもなく人の命を奪う男だ。しかも、その脱獄犯はひとりの人間を殺したことを告白した。まんざら嘘とも思えない。この状況で、少年はどのような行動を取るべきかな?」






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