都会の電車に乗れなくなって田舎に引っ越した話

遠藤

第1話

元々、飛行機が怖かった。

ジェットコースターや観覧車などの高いところも苦手だった。

自分は怖がりな人間だ。




都会で生きていたそんなある日、電車に乗っていることが怖くなってきた。

バスにも乗っていられなくなっていた。

車に同乗するのも怖くなった。

原因は、便が出るようなお腹の痛みが発生するから。

降りたい時に降りられず、漏らしてしまうのではないかとの恐怖があったからだった。


万が一漏らしてしまえば、もうこの街で生きていく勇気はない。

何とか漏らさない方法を毎日考えた。


それでも、通勤で電車を利用しなくてはいけない。

都会で生きていくとは、そういうことだと思っていた。

それ以外選択肢はないと思い、騙し騙し生きていた。


そのうち、早い電車に乗れなくなった。

混んでいる電車に、乗れなくなっていった。

さらには、立って乗っていられなくなっていた。

座らないとお腹が痛くなってくるような気がして、乗っていられなくなったのだ。


特に、朝の電車で不安症状が悪化して、そのまま乗っていられなくなった。

途中の駅で降りてトイレに行くことを覚えたが、遅刻が増えていった。


トイレに行っても、恐怖が消えなくなっていった。

緊急停止が怖くて怖くて、耐えられなくなってきた。


緊急停止すると、もしかしたら人身事故で、1時間以上閉じ込められてしまうかもしれない。

そうなった場合、漏らしてしまうのではないかと、緊急停止の度に妄想が膨らみ、祈りながらなんとか難を逃れていた。

年々、人身事故が増えてきていたのもあった。



ある時、風邪薬を飲むと、各駅なら会社まで乗って行けることを発見した。

風邪薬の種類によって、腸の動きが弱くなるような感じで、便意が湧いてこないことを発見した。

気分が落ち着く成分も、入っていたのかもしれない。

風邪薬を飲まないと電車に乗れなくなって、常時飲むようになっていった。

ほどほどで止めなきゃと思っても、なかなか止められなかった。

ただ副作用で便秘になってしまい、排便リズムが崩れ、結果苦しむことになる諸刃の剣でもあった。


そのうち、風邪薬の魔法が効かなくなってきた。

逆に、お腹が張ってるような感じにさえなってきた。

不安が沸き起こるようになってきた。

また途中の駅で降りて、トイレに行く日々に戻った。


トイレに行っても、だいたい何も出ずに終わった。

オナラでも、何でもいいから出てくれれば楽になるのにと、お腹を押したり、揉んだりして出す努力を続けた。


解決策を求めて、ネットで検索をしてみた。

症状的に、たぶん過敏性腸炎だろうと目星をつけた。


なかなか治らないものだと、書いてあった。

これは病院行っても治らないものだと、勝手に決めつけた。


もともとお腹は弱かった。

小さい頃を思い出せば、整腸剤とかを良く飲んでいたのを思い出す。

お腹を度々壊して、何で自分だけこんなに苦しんでいるのだろうと思ったこともあった。


大人になって、だんだんお腹の弱い自分を忘れていった。

お酒を飲んだり、大盛りラーメンを食べたり、朝、電車乗る前に缶コーヒーを飲んだり、皆と同じように普通にできると思い過ごしていた。


仕事や、生きることでのストレスが増えていった。

都会のストレス度は、田舎の何百倍もあるのではないかと思えた。


上手に生きれない自分の生き方も災いし、ついに発症する結果となり、乗り物に普通に乗れなくなった。


そんなある日、健康診断で肝臓の数値が悪くなった。

お酒の飲み過ぎだろうと、再検査の日まで止めることにした。

しかし、再検査の結果、更に数値が悪くなっていた。

怖くなり、原因は何だろうと色々調べた結果、糖質の取り過ぎと運動不足による脂肪肝ではないかと、自分で結論付けた。

すぐに毎日食べていたお菓子を止め、毎日食べていた立ち食いそばも止め、毎日飲んでいた砂糖たっぷりの缶コーヒーも止めた。

缶コーヒーは、今日も頑張って電車に乗ってこれた、ご褒美の一本だった。

しかし、このまま肝臓の病気になる方が嫌だったので、覚悟を決めて止めれた。


肝臓の専門病院に行くことを決めていたが、このまま行くのが怖かったので、1か月後に行くと設定し、やれる限りやろうと心に決めた。


運動をしたほうがいいと思った。

数10年運動などしていなかったからだ。

意外と歩いていると思ってきたが、全く足りていなかった。

筋トレが一番なんだろうけど、自分では続かないとわかっていた。

手っ取り早いのは、歩くことだと結論付けた。


試しに仕事帰り、最寄り駅の2駅前で降りて歩いてみた。

楽勝だった。

これだけじゃもの足りないと思い、歩く駅数を増やしていった。

その間も、朝の通勤電車の辛さが相変わらず続いていた。


そんな時、突然思い立った。


「朝歩いて会社まで行ったらいいんじゃないか?」と。


それができれば一石二鳥。

いやもしかしたら三鳥、四鳥かもしれない。


思い立ったらやらないと気が済まない自分は、さっそくやってみることにした。

当時、京王線の仙川駅が最寄で、会社は東京駅。

全部歩くとおよそ18キロ。

少し無理があるかもしれないと思い、とりあえず新宿まで歩けるか試してみることにした。


いつもより早く起きて、新宿まで歩いてみた。

仙川から新宿まで約11キロ。

歩いて約2時間30分。

甲州街道沿いを歩いていく。

道はほぼ平坦で、途中上り坂もあるが、さほどきつくはなかった。

なんとか新宿まで歩くことはできた。

朝歩くメリットの一つで、歩いている人や自転車はほぼ目指す方向が一致しており、夕方歩くのに比べ歩きやすいところがある。

都会の歩道あるあるとして、歩道内で、人や何らかの障害物を追い越す場合、後ろから自転車や早い人が来ないか振り向いて確認しないといけない。

夕方は買い物や散歩等の人がいるので、私は歩きにくいと思った。

田舎で生きていた頃は、歩道で振り向いて確認することなど、絶対しないことだった。


汗だくになって、ぐったりと疲れた状態で新宿駅について、そこから、総武線各駅停車に乗って御茶ノ水まで行き、中央線に乗り換え、さほど大きな不安がなく東京駅まで乗って行けた。


自分の場合、ぐったりしていると、不安もあまり浮かんでこないことがわかった。


頑張って歩けたのはいいが、次の日には足に凄まじい筋肉痛が発生した。

おっさんだから症状は数日後かと思っていたが、次の日に出てきたので驚いたのを覚えている。

筋肉痛で辛かったけど、肝臓の数値が良くなるまでやってやるという気持ちと、朝の電車にほとんど乗らないで会社に行ける喜びも相まって、止める気などさらさらなかった。


歩いていると腸が活発になるので、途中でトイレに寄ったりするようになった。

歩いたことによって、排便も快調になったようで、排便後はスッキリとした気持ちになれた。



歩き始めて約1か月後、勇気を出して肝臓専門病院に行くことにした。

重い病気ではありませんようにと、祈りながら向かった。

始めに、血液検査等をして先生のところにいった。

先生は、健康診断の数値と現在の数値を見て驚いていた。

先生から逆に「どうやって数値下げたの?」と質問された。

自分が甘いものを止めたり、立ち食いそばを止めたり、今歩いてますと伝えると、褒めてくれた。

それがとても嬉しかった。

その他アドバイスとして、高カカオチョコを食べると良いとか、ゆっくりスクワットをすると良いと教えてくれた。

さっそく、高カカオチョコを買って毎日食べるようになった。

また、ブラックコーヒーを飲むようにもなった。

コーヒーも肝臓にいいと知ったからだ。

ただ、朝飲むのには勇気が必要だった。

本当は、朝コーヒーを飲んで歩いた方が効果が大きいのだが、コーヒーはお腹の弱い者には刺激が強すぎるので、朝飲むのを止めて会社についてから飲もうと決めた。


数値はかなり良くなっていたが、まだ正常値と言えなかった。

次回の検査までには、もっと良くなってやると心が燃え上がった。


歩くのに必要な靴や服装を整え、出勤時は全て歩いた。

普段着る服も、どんどん歩きやすい恰好になっていった。


雨の日はレインスーツを着て歩いた。

甲州街道は、高速から車が跳ね上げた水が降ってくることを学んだ。

台風の日は過ぎ去るのを待って、天候が落ち着いてから歩いた。

まあ、台風の日は電車も遅れているので、収まってから動いてもさほど差はなかった。

台風の後の甲州街道は大荒れで、街路樹が倒れてたりした。


猛暑の日でも、水筒を持って歩いた。

朝だから比較的涼しかったが、それでも結構きつい時もあった。

目的の駅まで歩けたときは達成感があって、その達成感が、明日もまた歩いて行ける勇気になっていった。


新宿駅近くになると、トイレに行きたい日が増えてきた。

歩く刺激に慣れてきたせいか、新宿駅近くになってからトイレに行きたくなってきたのだ。


お腹の弱い人にとっては、新宿駅は鬼門だ。

トイレの数は確かに多いが、とにかくトイレ利用者が多い。


また新宿駅はとても広いため、どこのトイレを目指すのかで運命は決まる。

京王線新宿駅のトイレは広く綺麗だが、電車が到着する度にトイレに向かう人が多数いるので、お腹の状態によっては並び途中で漏らしてしまう可能性もある。

小田急線のトイレも一緒だろう。

また、小田急線の改札外のトイレも気軽に行ける分、激戦地と化している。

そしてもっとも危険なのが、JR改札内のトイレだ。

新宿西口から改札に入った場合、中央線乗り場方面のトイレが一番近いが、ここは極めて危険ゾーンだ。

とにかく並びが半端ない。

昔は和式トイレもあって、和式は不人気だったので、空いている可能性があったのだが、全部洋式になってから並びが更にきつくなった。

余裕ない時は、絶対に目指してはいけない。

JR新宿駅のトイレに関しては、ほぼ制覇したと思うが、とにかくいつも空いているところはない。


自分は一度新宿駅で、総武線各駅停車を待っている時、究極状態になったことがある。

ホームで待っている時はピンチ度をレベルで表すなら3(4段階のレベルで、4はホットゾーン)だった。

突然のレベル3に、電車を待つ間悩んだ。

新宿駅で空いているトイレを探すより、先に進んで、信濃町駅とかで降りて、トイレに行ったほうが安全なのではないか。

いや、万が一電車が止まってしまったら、間違いなく結果(脱糞)が出てしまう。

だから、新宿駅周辺で探すのが正しいのではないかと。

じっくり考慮する時間などない。

残された決断は直感しかない。

下された決断は新宿駅周辺で探すことだった。

ホームから階段を降りると、一番近い中央線乗り場近くのトイレを目指す。

激戦地であることはわかっているが、わずかな希望を抱いてトイレ入口に行くと、並んでいる人がスグに目についた。

駄目だと判断し、今度は改札内か改札外か決断しなくてはいけない。

これもまた究極の決断だった。

万が一も考えなくてはいけなかった。

漏らすならひと気のないところがいい。

改札を出て、東口方面の地下街の方を目指すことにした。

ここのトイレは個室トイレが少ない。

わかっているがもうこっちに進む以外にない。

お腹の状態はまだレベル3をなんとか保っていた。


祈るように地下街のトイレに入る。

やっぱり満室。

もう詰んだ可能性があるが、最後まで諦めたくはなかった。

次はどこだ?

もう地下街のトイレはたぶん同じ状況だろう。

外に可能性を求める以外にない。

その時神の啓示が降りてきた。

「区役所がある」と。

瞬間的に体は反応し、区役所を目指す。

もう開いている時間だろうと信じ向かった。

区役所は開いていた!

さっそく1階のトイレに駆け込む。

満室!

「なんでこんなにウンコ民が多いんだ!」と叫びそうになる。

だが、まだ諦めていない。

待つぐらいなら動く性格のため、上の階を目指す。

エレベーターか階段かと考えたが、ちょうどエレベーターがきたので乗り込む。

幸いにも自分だけだ。

万が一漏らしても大丈夫だと、自分を勇気づける。

いや、でも漏らしたくはない。

こんなピンチじゃなければエレベーターは避けているだろう。

万が一閉じ込められたらと考えるからだ。


デパートでも低い階のトイレは混んでいる。

また、最上階のレストラン街も危険だ。

とりあえず真ん中ぐらいと決めて、ボタンを押した。

お腹レベルが4のホットゾーンに到達しそうになっていた。

目的の階に到達すると、動物的感覚でトイレのありそうな場所を瞬時に探り当てる。

なんと、また満室だった。

嘆いている暇などない。

出来る限り急いで階段を下りる。

上る判断もあったが、レベル4に到達していたので上れる力は残っていなかった。

滑るおぼんに、お銚子を載せて運んでいる時の歩き方で、下の階のトイレに向かう。

見る人が見たら状況がわかるだろうが、知らない人が見たら変な人だと思ったろう。

最後のチャンスだと思い、トイレのドアを開けた。

空いていた。

助かった。

最後まで諦めないで良かった。

全てを出し切ったあとは、疲れがドッと押し寄せてきた。


助かったのはよかったが、これほど新宿駅のトイレを研究し、この地域ではトイレ利用を絶対に避ける場所と認識していたのにも関わらず、追い込まれることになったことに悔しさが募った。

ただ、新たなトイレを発見できたのは収穫だった。



ここで話は逸れるが、私の経験談の、新宿駅から東京駅のトイレ激戦状況をお伝えしたい。

まずピンチの時避けたいのが代々木駅、四ツ谷駅、神田駅、東京駅、おまけで秋葉原駅。

代々木駅は利用者のわりに個室トイレが少ない。

トイレが新しくなる前が懐かしい。

四ツ谷駅は、快速停車駅なので激戦となりやすい。

そして個室トイレが少ない。

神田駅は、個室トイレの数は多いのだが利用者が多い。

外にもトイレはあるが、そこも利用者が結構いる。

サラリーマンは皆、お腹壊していると考えて挑んだほうがいい。

秋葉原駅は、男性個室トイレがかなりあるのに、利用者が多いため、とにかく混んでいる。

チャンスは、総武線各駅停車のホームにあるトイレかなと思っている。

ただ、別路線利用でわざわざ上の総武線ホームまで向かうのは避けて欲しい。

ここで駄目だった場合、次のトイレを目指すのに距離がある。

改札外の、橋周辺に公衆トイレが点在しているが、利用したことが無いので状況はわからない。

秋葉原駅は、個室トイレを別目的で使用する者もいるので、一日中混んでいるイメージだ。

東京駅はトイレの数も多いがやはり利用者が多い。

改札外のトイレまで考えられれば色々可能性があるが、ピンチの時には向かう場所ではない。

とにかく広すぎる。

中央線ホームは、駅上部にあるため距離がある。

真ん中エスカレーターを降りれば、そこにトイレはあるが、空いている保証はない。

できることなら、上記駅付近でピンチになる前に、トイレを済ませておくことが大切だと思う。

そして、あらかじめトイレ位置、朝の状況の確認をしておくことと、もし、万が一の時にはすぐに諦めないで、自分は戦える人間だと、そして、希望の祈りは天に届くと信じてトイレを目指してほしい。




私が一番助けられたのは千駄ヶ谷駅だ。

私がしょっちゅう利用していた当時は、オリンピックに向けて整備中で、利用者の割には個室トイレが多く感じた。

多目的トイレも複数あり、選択肢は多く何度も助けられた。


その他の駅は空いてたり、並びは無いけど満室だったりとマチマチだった。


話しは逸れたが、混雑する新宿駅を目指すのは止めて、その先の駅を目指すようになった。

最初は代々木駅。

そのうち慣れてくると千駄ヶ谷駅。

しばらくは千駄ヶ谷駅まで歩いていたが、調子いい時は四ツ谷駅だったり、東京駅まで歩いたりしていた。


気づくと朝歩く習慣が出来上がっていった。

朝早く起きることも、苦にならなくなってきた。

肝臓専門病院も、無事卒業できた。

健康診断の数値も、すこぶる良くなっていた。

ほぼ週5日、毎回10キロ以上歩いていた。


ただ、何も気にせず電車に乗れる状態には戻っていなかった。

特に困ったのは、関係者と乗っている時だ。

関係者と乗ると、気軽に降りたりできないのではないかと思って、怖くなったりした。

なかなか本音を相手に伝えられず、怖くて乗りたくない中央線に乗らなくちゃいけないときは、毎回ドキドキだった。


自分の苦しみは、なかなか伝わらないものだ。

直接ストレートに言えればいいのだが、あの頃の自分は、お腹が弱いことや、電車に怖くて乗ってらないことを深刻な顔ではなかなか言えなかった。

恥ずかしかったのかもしれないし、言ってもわかってもらえないだろうと諦めていたのかもしれない。

だからオブラートに包んで伝えたり、笑いながら話したりしてしまっていた。

そのため思いが上手く伝わっておらず、乗りたくない電車に乗らなきゃいけない日が多々あった。

もちろん、普通に乗れるようになるためには、訓練が必要だと思う。

だけど、それは無理せず、少しずつ自分のペースで慣らしていくものだと思っていた。

ずっと自分のタイミングでやっていきたいと思っていた。


上手く自分を伝えることができず、避けているのではと、不快な気持ちになった人もいたかもしれない。

きちんと相手に思いを伝えることは、自分にとっても相手にとっても、とても大事なことだと今は強く思っている。

その後、気を遣う性格も災いし、症状がさらに悪化していくことになっていった。


仙川から引っ越して、さらに東京の西、調布の端っこ、飛田給駅に引っ越した。

コロナ直前の引っ越しだった。

引っ越しても歩くの止める気はなかった。

ただ、歩いていると出勤時間が間に合わないと思った。

新宿まで約17キロとなって、約4時間もかかる。

そのため、初日に走ってみることにした。

2年以上歩いてきた実績があるはずだから、走れると思っていた。

しかしまったく走る筋肉は鍛えられておらず、全然続けて走れなかった。

これはまずいことになったなと、次の日に向けて作戦を考えた。


そして思いついたのが、歩きと電車乗車を組み合わせた作戦だ。

まずは布田駅まで歩くことにした。

なぜ布田駅かというと、調布駅だとトイレが混んでいると思い、利用者の少ない布田駅なら、乗る前にトイレ行けるだろうと思ったからだった。

思惑通り布田駅でトイレに行けて、京王線に乗ることができた。

問題は、どこまで乗っていけるかに絞られた。

幸いにも、布田駅からだと座ることもできた。

布田駅で座れなくても、国領駅で結構降りる人がいることを学んだ。


ちなみに、私はシルバーシートを積極利用していた。

申し訳ない気持ちもあったが、座らないと乗っていられず、もっとも座れる可能性がある、シルバーシートを狙っていつからか座るようになった。

時間帯によっては、普通の座席は埋まっていて、立っている人までいるのに、シルバーシートはガラガラというのを見かけたので、それならと積極的に狙うようになったのかもしれない。


つつじヶ丘駅で通過電車のため停車するのだが、止まっている車内が怖くて何度も降りようか悩んだ。

なんとか頑張って、仙川駅まで行けた。

しかし、ここから先も気になっていた。


仙川駅から騙し騙し乗って行けていた頃、仙川ー千歳烏山間で電車が詰まったり、踏切の無理やり横断で、緊急停止したりした経験が何度もあった。

そのため、千歳烏山駅に着くと、降りてトイレに駆け込んだ。

ちなみに、仙川に住んでいた時も、怖かったので、帰りは仙川駅まで乗らず千歳烏山駅で降りて歩いていた。

仙川駅で悩んだが、怖かったので降りる決断をした。

仙川から新宿まで歩いていく方法もあったが、既に歩いて1時間はロスしている。

やはり、途中でもう一回乗らなくてはいけない。

ここから微調整の日々が続いた。


仙川駅から八幡山駅まで歩いて、八幡山駅から乗って下高井戸駅で降りる。

下高井戸駅から新宿方面は電車が詰まることがあったため、降りて新宿駅まで歩いたり、笹塚駅まで歩いて、そこから新宿駅まで頑張って電車に乗ったりした。

笹塚駅から新宿駅までは長いトンネルがあり、このトンネル内で何かあって、止まったらどうしようと恐怖だった時期もあった。

また、時間帯だったり、遅れの発生だったりで、下り電車の待ち合わせが何本か発生することがあり、その止まっているわずかな時間さえ、パニックになりそうになったこともあった。

京王線新宿駅にホームドアが付いたからよかったが、付く前は、もし、笹塚駅を発車した後に、京王新宿駅で何かあったらどうしようかと、怖がりながら乗っていたことを思い出す。


笹塚駅から新線新宿駅方面にチャレンジしたこともあったが、結局幡ヶ谷、初台と刻んでも絶対的に電車がスムーズに進むわけではなく、逆に途中駅から乗ってくる人を見て、閉じ込められて降りられなくなるのでは、との感覚に襲われ、怖くて途中下車ばかりだった。

しかも、幡ヶ谷駅や初台駅のトイレは小さく混んでることが多かった。

さらに、万が一新線新宿駅でトイレを目指すのには、地下深くあるため、かなりの距離があり、メリットはあまりなかった。


そうこうしている内にコロナが始まった。


電車内がシーンとなった。

それでも喋っている人がいると、怒鳴る人が出るようになっていった。

何とも言えない緊張感が車内に広がっており、ますます電車に乗ることへの恐怖が増していった。

しかし、感染者が増えると同時に電車が空いていった。


当初は、テレワークができるような仕事ではなかったので相変わらず会社に向かった。

車内が空いた事が幸いして、電車に少しは乗っていられるようになった。


ある時、つつじヶ丘駅から新宿行き始発電車があることに気づいた。

もの凄く空いていた。

それに乗ると、騙し騙しだったが新宿駅まで乗って行けた。

これはいいものを見つけたと思い、このルートで行くことにした。


ほどなくして、会社が神田駅に移った。

総武線各駅停車も比較的空いていたので、秋葉原駅まで乗っていって神田まで歩いたり、お茶の水駅から歩いたりした。

電車に乗りたくない時は、新宿から神田まで歩いた。

例え空いていても、中央線には一駅でも極力乗りたくはなかった。


コロナが騒がれ、緊急事態宣言に便乗し、家で仕事することが増えていった。

それと同時に、今後の人生について考える日が増えていった。

家で座って考えていると悪い方にしか浮かんでこないので、歩いて考えるようにしていた。

歩き始めは、じっくりと重い問題について考えているのだけど、疲れてくると「何とかなるだろう」しか浮かばないので結構前向きになれて助かった。


このまま東京で暮らすのか、それとも田舎に行くかが、日々の考えるテーマとなっていった。

会社に行かない日は、府中近くのスーパーまで歩いて買い出しに行くその間考えた。


このまま今の仕事でいいのか、電車にもまともに乗れず、学歴も、転職ばかりで職歴もないおっさんに再就職先はあるのか悩み続け、気づけば一人追い込まれていった。


家族がいる身で、もし、田舎に行って失敗した時には、もう二度と這い上がってこれないんじゃないかと浮かんだり、東京に残っても、自分の実力じゃ低所得の中、家賃を払うためだけに働き続けて、気づけば老後だろうと考え、なんのために東京にいるのだろうとさえ思えてきて、どちらとも究極の判断が必要な時にきていると、一人悩み続けた。


子供の小学校入学も迫っていた。

東京に残る決断をして、やっぱり後から田舎に転校ではあまりにも可哀そうだ。

この頃は、とにかく自分が引っ張って行かなきゃと、家族に相談することもなく、自分が一人決めていた。

念のためにと、妻の意見も聞いてみた。

案の定、答えはスグに出そうになかった。

やはり自分が決める以外にないと思い、一人何度も歩いて考えた。

その間、夫婦喧嘩は多々発生した。

結婚してからも度々発生していたが、ここ数年は特に多かった。

結論から言えば腹を割って話しあい、任せる部分は任せればよかった。

俺にしかできないんだという、そんなルールを自分にも妻にも植え付けてしまってきた。


ある日、田舎に行く以外無いと思った。

とにかく東京という環境で、今の自分では100%発揮することはできないと思った。

電車にもまともに乗れない、再就職でライバルに勝てる実力も自信もなかった。

例え東京で夫婦二人頑張って働いても、たかが知れていると思った。

動く以外に希望は無いと思った。


田舎に行けば、身体と心を回復させられると思った。

私は、北海道の田舎町出身だったので田舎を熟知していた。

まあ、凄まじいド田舎ではないが。

東京のような環境さえ無くなれば、自分をもう一度取り戻せる。

そうすれば何とかなると思った。


妻は東京出身で田舎を知らなかった。

妻に田舎とはどういところだと、説明する日々が続いた。

そして、田舎に行くにしても東京に残るにしても、悔いのない決断をして欲しいと何度もお願いした。

もちろん、東京に自分も残った場合のシュミレーションを、何度も何度も繰り返した。

電車に極力乗らないで生きれる方法はあるのか、東京に絶対居なきゃ駄目な仕事をやりたいのかどうか。

東京に残りたいといった場合、申し訳ないが回復するための期間、単身で田舎に行かせてもらおうとも思っていた。



実はこの頃、電車にほとんど乗っていられなくなっていた。

悩むことが増えたせいかもしれないが、電車に乗るとスグに怖くなってきていた。

例え乗る前にトイレに行ってスッキリしていても、乗るとスグにお腹が痛くなった。

何ならホームで待っている時から、痛みが出る時もあった。

コロナも弱まってきて、通勤する人が増えてきたのも影響したのかもしれない。

つつじヶ丘駅の始発電車も、利用者が増え乗らなくなった。

会社に行く日がかなり減っていたが、まともに乗っていけなかった。

さらに帰りの電車でも、降りて歩くことが増えていった。

さらにビル街を歩くのも、怖くなっていた。

上から何か降ってくるんじゃないかと、上を見ながら歩くことが増えた。

甲州街道では、工事現場があると迂回して歩くようにした。

精神的にかなり追い込まれていた。


いよいよ2022年秋、ついに田舎に行くことが決まった。

妻はまだ悩んでいたようだが私はもう決心した。




2023年早々、ついに行ったこともない候補地に降り立った。

一目惚れだった。

富士山がとても近くて、それだけでもこの町に住みたいと思った。


念のためもう一つ候補地を見たが、最初の町の方が断然良かった。


東京に戻ってきて、家族に最終確認をした。

もう行くしかないと、家族全員覚悟は決まった。

その後、賃貸物件の内見を済ませ部屋を決めた。


引っ越しのため、家財道具のほとんどを、東京生活のしがらみや、苦しみと一緒に捨てた。

もう東京で暮らすことはないかもしれないが、元気になってまた遊びにきてやると決意して。

いよいよ東京の部屋を引き渡し、新天地へ出発した。

この時も騙し騙しだったが、昼の電車は朝より楽だった。


新幹線の車窓を見ながら思った。

決して負けたわけじゃない。

さらに強くなるために、もっと高みを目指すために一旦引くんだと。


無事小学校の入学も完了でき、少しはこちらの生活に慣れてきたゴールデンウィーク。

心の完全なる回復はまだだったが、電車に乗って、港町の水族館まで遊びに行ってみることにした。

そこには本来、駅からバスに乗っていくルートだが、バスが怖くて歩くことにした。

30分ほど歩くと着いた。

水族館近くになると車もかなり混んでいて、バスに乗っていたら症状が出てただろうと思えた。

夕方いよいよ帰るとなった。

バスには乗らず、駅までまたしても歩く。

家族の協力が嬉しかった。

そして電車に乗った。

最寄り駅まで、もうあと二駅という時に、電車が緊急停止した。

車内はまあまあ混んでいた。

私は座っていた。

なんでこんなところで止まったのだろうと思った。

なんのアナウンスもなく時間が過ぎていく。

心臓がドキドキしてきて、だんだん怖くなってきた。

そんな私を察知したのか、子供が「どうしたの?」と心配して言ってきたが、優しく答えることができず「うるさい」と一蹴してしまった。

きちんと前もって、こういった時の事を説明しておくべきだったと反省した。

ただ、言い訳かもしれないが、このような状況になった場合に、私の場合今起きている事実から逃れたいがために、説明してしまうとこの事実を再確認することになり、ますます怖くなるような気がしていた。

また、「大丈夫だ」とか「頑張れ」とかも、かえってそのことが気になってしまい、なんだか逆効果となった。

目の前で起きていることを忘れられるほどに、夢中になれる世界が得られれば、気にせず乗り越えられるのだが。


田舎の緊急停止が、どういった理由で発生するのか、わかっていなかった。

北海道なら鹿に当たったとかあるが、こっちは何なのか?

乗っているのが先頭車両だったが、そんな感じはなかった。

もし線路とか車両とかの不具合だと、もの凄く長い時間閉じ込められしまうのではないかと、恐怖が襲い掛かってくる。

不幸にも、トイレがない電車だった。

しかもお昼に港料理を食べて、お酒も飲んでいる。

ベロベロに酔っていれば眠ってやり過ごせるのだろうけど、ちょっとしか飲んでないので、余計にお腹が緩くなるのではないかと心配が増え、こういったことがあることを予測できなかった自分を悔いた。

早く動いてくれと祈り続けた。

こんなところで漏らしたら、せっかくの新生活が終わってしまう。

電車に乗る生活ではないが、田舎町がゆえ伝説になってしまうかもしれない。

ましてや今は、ネットにすぐ上げる時代だ。

私の惨状が晒されるのは耐えがたい。

とにかく祈った。

神様に祈り続けた。

すると祈りは届いた。

運転再開のアナウンスがされた。

何の説明もなかった。

イラっとしたが、とにかく動いてくれた。

あと二駅だったが、一つ前の駅についたので一人降りて歩いて帰った。

降りると便意など無かった状態になる。

まったく回復していないんだと、改めてわかった。

田舎にきて1か月、何も変わっていなかった。


せっかく新生活が始まったのだから、今のうち好きな事をやろうと思った。

そして、不要なものは更に捨てようと思った。


ある時気づいた。

何で田舎に来てまで、お酒を飲んでいるのだろう?と。

腸の弱い人間にとって、お酒は天敵なはず。

前は嫌でも飲まなきゃいけない時もあったが、今は自由。

たいした強くも無いし。

だったら止めようと飲むのを止めた。


しかし、都会を離れ田舎に来たまでは良かったが、どうやって前より良い生活を送れるようになるのか、悩む日々が続いた。


またしても、精神が追い込まれていったそんなある日、スピリチュアルと出会った。

もの凄く温かい世界に触れた。

それまでは胡散臭くて、毛嫌いしていたが、温かい励ましの言葉に涙が出た。

この日を境に自分は急激に変わっていった。


一人背負って頑張ってきたことを、全部止めると妻に話した。

田舎にきて数か月、都会とは比べ物にならないほどのランニングコストだった。

無理に頑張らなくても、細々とやっていけば何とかなるだろうと思った。

車もまだ無いので。

家族で力を出し合えば、楽しく生きていけるだろうと思った。


一気に、心が回復していくのがわかった。

一日一日回復していく。

気づくと、毎日抱えていた将来の不安が消えた。

良くわからない焦りもなくなった。

愚痴も言わなくなった。

必死で意味もなく見ていたテレビも見なくなった。

毎日が楽しいと思えるようになってきた。



そんなある日、西伊豆の水族館に泊まりで行くことになった。

心の回復はしてきていたが、バスはやっぱり怖かった。

水族館まで、最寄駅からバスで約30分。

歩けないかとグーグルマップで確認したが、途中にトンネルがあった。

歩くのは断念し、バスに乗ることを決意した。

バスは渋滞などで閉じ込められて、降りられなくなるのが怖かった。

始めて行くところだったのでよくわからず、もしかしたら、この水族館までの道は、田舎でも混んでいるのではないかと考え一人怯えた。

念のため、家族に、自分は水族館行きを、途中で断念するかもしれないと伝えた。

その時は、二人で行ってきて欲しい、心配しないで楽しんできてくれ、こっちで散策しているからと。

恐怖だったが、とりあえずバスに乗り込む。

電車でもバスでも、乗り物が止まっている中乗っていると、症状が顕著に表れた。

この時も、駅出発のバスなので、乗り込んでも数分止まっており、急激に恐怖が湧いてきて、やっぱり降りようかと何度も苦しんだ。


そんな時、スピリチュアルを良く見ていたせいか、この「乗り物に乗ったら怖くなる」という症状は、もしかしたら自分を守ってくれている、怖がりの自分のせいではないかと思えてきた。

さらに、こんな自分がいたから、今まで安全に過ごせてきたんだなとも思えてきた。


そうしたら感謝の気持ちが芽生えてきた。

自分の心に話しかけた。

(ありがとう。もう大丈夫だよ。怖がらなくてもこれは安全な乗り物だから)と心の中で言った。

何だかわからないが、泣けてきたがグッと堪えた。

それによって恐怖は少し薄らいだが、それでも完全に消えるわけではなかった。

行けるところまで行って、駄目なら降りようと決意した。

なるべくなら、トンネルを超えて欲しい。

そしたら水族館まで歩けるはずと、停留場を一つ過ぎる度に、頑張れと、神様お願いしますと祈りながら乗っていた。


そんな時、一人の男性が停留所から乗ってきた。

前から乗ろうとして「後ろから乗って下さい」と運転手さんに注意されながら。

バス会社とコラボしたアニメのシャツを着て、リュックを背負って。

そしてなぜか、私の前に座った。

ハゲていたが、もの凄く良い笑顔の中年男性だった。


天使だと思った。

いつもの私なら、この男性を見てクスクス隠れて笑って、あとからも笑いものにしていただろう。


でもその時は違った。

この男性が乗ってくるまで、私はバスに乗ってる苦しみの中にいた。

例え自分の中にいる怖がりの自分を即席で癒しても、スグには回復できず、どこで降りようか悩んでいた。

それが、この男性によって、その恐怖が全て吹き飛んだ。


この人は天使だと、自分は信じて疑わなかった。

何とか乗り越えようとしている自分に、勇気を運んでくれたのだと、その男性の後頭部を見つめながら泣きそうになった。


水族館まで、天使は同乗してくれて、まったく普通に乗ることができた。

天使は、私が無事乗り越えることができたのを見届けると水族館には行かず、また別のバス停に向かっていった。

感謝の気持ちが止まらず、水族館にいる間、あの人は天使だと家族にずっと話していた。

おかげで、水族館をとても楽しめ、帰りのバスも発車前から乗っていても全然余裕だった。


ただ、次の日、宿近くの停留場から駅までバスに乗る予定だったが、団体のお客と鉢合わせになり、さらにバスも遅れていたので、怖くなって駅まで歩くことにした。

それでも、水族館まで乗れたという実績ができたのが嬉しかった。


帰ってきて考えた。

旅行が楽しかったのは、いつの頃だろうかと。

あんなに楽しかった旅行が、いつから、こんなに苦しむものになってしまったのだろうかと。

下着の着替えだけ持って、旅行に行けていた頃はいつだったろうか。

今ではリュックに万が一を大量に詰め込んで、ずっしり背負って、たかだかの一泊旅行に重装備で挑んでいく。

旅行の計画を立てるのが、純粋に楽しかったのはいつの頃だろうか。


不安ばかりで、何も楽しめない自分が嫌で嫌でしょうがなかった。

都会も離れ、こんなにも自由になったはずなのに。


訓練するなら今しかないと思えた。

行って帰ってくるまで、笑顔の旅行を取り戻すために、小さな訓練を積み重ねるしかないと。

田舎ならそれが可能だ。

怖い時は降りて、何度でもチャレンジすればいい。


今はチャレンジしたい意欲がどんどん湧いており、少しずつだが、路線バスにもチャレンジしている。

もっと乗りたい、普通に乗れるまでやってみたいと思い、毎日生きている。

もちろん歩くことも継続している。

どこまでも歩いてやるという気持ちは消えることがない。

東京であそこまで歩けたのだから。





―終わりに―


気づけば10年以上、都会で戦ってきました。

何だか書いたのを読み返して、よく頑張ってきたなと、泣けてきたりしています。

始まりは、単なる胃腸が弱いからしかたがないのだろうと、気にも留めずやり過ごしておりましたが、だんだん症状が悪化して、電車に乗っていられなくなった頃には時すでに遅しでした。

生きていくためと、自分に合わない仕事や生活スタイルがストレスとなり、更に悪化させる原因にもなりました。


今回このことを書きたいと思ったのは、同じように悩んでいる人達に、こうやって戦っていたよと、お伝えしたかったからです。

もちろん、歩いたからといって完治はできませんでした。

でも、薬に頼らず、なんとかできないもんかと、もがいた結果であり、何一つ失敗したとは思っておりません。

もし、悩んでいる人達に、突破できる一つの材料になれば、嬉しいなと思っております。



私は、絶対克服できると信じて生きています。

自分をとにかく、自分を信じて生きていくと決めました。

今は、自分が一番大事なので、自分がやりたいことをやって、毎日幸せの気分を味わっております。


様々な事情があると思うので一概には言えませんが、時にその環境から離れ、心を回復させてしまうという方法もあるのではないかと思っております。

都会で騙し騙し生きていても、完全回復するのには、難しい方もいるのではないかと思うのです。


電車やバスが、怖くなる原因は様々だと思いますで、一つの方法で皆治るということは無いと思います。

ただ、乗り越えるために戦った人たちが集まって、叡智を出し合えば、自分に合った解決方法が見つかるかもしれません。

なので私も、自分が戦ってきたことを書かしてもらいました。


絶対に無理はしないで欲しい。

駄目な時はあきらめも肝心だと思っております。

都会には夢がいっぱいあるけれど、厳しさもいっぱいあります。

心が病んでしまったときは、一度田舎に帰って回復してから再挑戦もできるはずです。

自分の心に何度も聞いてみてください。

そこに、苦しい自分がいたら話を聞いてあげてください。

自分を守ることが、生きていくうえで一番大事な事です。



何かのお役に立てれば幸いです。



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都会の電車に乗れなくなって田舎に引っ越した話 遠藤 @endoTomorrow

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