18

 疲れてしまったのだろう。隣から聞こえはじめた小さな寝息に、改めて幸せを感じる。フェリクスは見るともなしに見ていた寝台の天蓋から目を離し、妻のほうを見やった。


 無防備な寝顔に手を伸ばし、額や頬にかかる髪をよけてやる。夜目では気づかなかったが、日中に間近で見るコルネリアの肌は、少しカサつき、髪も傷んでごわついている。それしきのことで霞む美しさではないが、手をかければ治るものだと男の自分にもわかるので、もったいないと思った。


 ──ワレリア男爵家の経済事情は、それほどまでに悪かったのだろうか? 身づくろいに金をかけられないほどに?


 細い指先の荒れにも目を向け、フェリクスはいぶかしむ。水仕事をする洗濯女中などならばいざ知らず、所領持ちの男爵家の令嬢が指先にささくれやあかぎれを作るものだろうか。


 一度、ワレリア男爵領の財政状況をくわしく調べてみる必要がありそうだ。そのあたりが、もしかしたら、デビュー前のコルネリアに爵位を継がせなかった理由なのかもしれない。


 フェリクスはコルネリアの寝顔を見つめ、そっと頬にてのひらを添えた。眠りながらも、体温を追うように顔を傾ける妻のようすに、自然と笑みがもれる。


 わからないことは、まだある。なぜ、コルネリアはデビュタントの白いドレスを着ておらず、年上のはずのディアナの付き添いとして夜会に参加していたのか。


 また、自分の思い人がコルネリアだとわかったいまでは、ディアナに宛てた糸紐細工ミクラマへの礼状の文面も、どうにも解せない。


 それに、結果的には良かったものの、こちらが求婚した相手とは違う娘を何の連絡もなしに嫁がせる現男爵のやりくちも、理解できなかった。


 そのいずれの事柄についても、きっとコルネリアは口を割らないだろう。口にする気があれば、はじめからそう述べるはずだ。ディアナがどうだから代わりに来た、とか、自分のことが恋しくて、頼み込んで譲ってもらった……とか?


 最後のは妄想が過ぎた。反省しながら、フェリクスは寝台を滑り降りた。内扉から自室へ向かい、衣裳部屋から自分の服を見繕い、身にまとう。書机にあった仕事の書類を掴んで、寝室へ戻る。


 コルネリアは、まだ夢のなかだ。隣に滑り込んで座り、静かに書類に目を通す。馬車鉄道の用地の収用の件は、先日の御前会議からさほどの進展が見られない。蒸気機関に興味を持った諸大臣が計画軌道に変更をかけるべきではないかとくちばしを挟んだからだ。


 これまで、馬車鉄道の軌道は、王都のなかでも貴族の邸宅の集まる地域を大きく迂回するルートを取っていた。だが、もしも、馬力と速度の出る蒸気機関を載せられるのならば、なるべく直進したほうが無駄がない。下位貴族のタウンハウスの敷地をいくつか潰す程度で済むよう、文官たちが頭を捻って度重なる調整をかけてくれたおかげで、いま、フェリクスの手元には新たな軌道の素案が出ていた。


 地図に落とし込まれた各邸宅の敷地の形状、屋敷そのものの位置、所有者の名称。いまだ部外秘の情報のひとつひとつをたどっていく。できるだけ不満の出ないように、最小限ので抑えたい。根回しできるところには、だれかのツテを使ってでも蒸気機関の素晴らしさや先見性を伝え、協力を仰ぎ、できるだけ国家事業であることをアピールする。


 タウンハウスの土地の買収において、足元を見られて値をつりあげられた日には、事業の予算を食いつぶしてしまう。穏便に売ってもらうには、国に貢献したことを周囲に示せる手立てがあるべきだ。貴族の名誉は、ときに金銭よりも尊い。


 竣工式に招待するのはもちろんだし、王都の駅舎に用地提供者として名を掲げるのも一案だ。フェリクスは、金銭保障のかわりに、地方都市の駅前の土地を一画、換地として与えるのも面白いと思う。その土地を持っていることが名誉になれば、手放さずにすむよう、だれもが自力で努力するだろう。蒸気機関車が行きかい、町が発展し、駅前の地価が高騰すれば、地権は金の延べ棒や宝石よりも貴重な代物になる。


 地図のなかに思わぬ名を見つけ、フェリクスは、おや、と驚いた。コルネリアの生家、バロー家のタウンハウスが軌道上にあった。それも、完全に敷地も屋敷も縦断されてしまうので、土地の一部の収用では済まない。


 ──コルネリアは、そのタウンハウスに亡くなったご両親との思い出があるだろうか。


 案とはいえ、すでにほぼ固まった鉄道軌道を私情で移動させることはできない。だが、もし、そこに思い出があるのであれば、屋敷を取り壊すにあたって建材なりをもらってきて、この屋敷のどこかに使ったり、別邸を建てる際に用いることはできる。思い出の手すりや窓、扉のひとつやふたつ、あるかもしれないではないか。


 コルネリアが起きたら、この話をしてやらなければ。部外秘とは言うが、妻に話すくらいは許してもらおう。


 ──と、考えていたものの、実際のコルネリアの反応は薄かった。


「バロー家のタウンハウスでございましょう? フェリクス様の妻となったわたくしには、何の権利もございませんし、関わりのないことでございます」

「そうは言っても、ご両親との思い出などあるのでは?」


 問われたコルネリアは、わずかに眉を寄せ、目を伏せた。


「タウンハウスに参りましたのは一度きりです。王立学院の試験を受けるため、わたくしだけが滞在いたしました。父母との思い出は、あの屋敷にはございません。お気遣い無用でございまます」


 触れないでくれと突き放すように話を終わらせ、コルネリアは別の話題に移っていく。淑女の彼女ならば、触れられたくないことは完璧に隠してしまうと思っていた。だからこそ、隙のあるその姿に、フェリクスは強い違和感を覚えた。




 

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