17

「陛下がくださった建国記念日の招待客名簿の写しがコレ」


 グイドは長机に手際よく書類を並べていく。招待客名簿には、コルネリアとディアナの名がある。


「男爵家のご令嬢がデビュタント以外に王宮の夜会に呼ばれることはない。紳士録の記載から、自分が会ったのはディアナ嬢だろうと推測した。そこまではいい。で? 本人がお持ちの婚姻証明書と身元保証書にはコルネリア嬢の名がある。俺が止めるのも聞かずに初夜の寝室に乗り込んでって、朝まで出てこないから、てっきりちゃんとうまくいったんだと思ってましたよ、ええ! ──念のため聞くけど旦那様。あんた、奥様ご本人から、なんて名乗られました?」


 長机に両手をつき、顔を近づけながら、グイドはフェリクスに鋭い視線を向ける。コルネリアは仲裁すべきかとハラハラしたが、フェリクスのほうは急に真面目な顔つきになり、戸惑ったようすでこちらを見遣った。それから、執事に向き直る。


「……コルネリアと聞いた」

「それならどうして、そのとおりお呼びしないんですか。ご本人の申告ですよ?」


 強い口調でなじられているフェリクスが見ていられなくて、コルネリアはさえぎるように手を伸ばした。


「待って。フェリクスさまは、わたくしの名など、ご存じでいらっしゃいます。ディアナに求婚していらしたのに、わたくしが参ったのが悪いのです。代わりくらい、務められます。二年経てば、お約束どおり出ていきますし、離縁もいたしますから」

「──えっ」


 フェリクスが目を見張って、勢いよく振り返る。呆れたようすでグイドは額に手を当て、天井をあおいだ。


「あんた、仕事はできるくせに恋愛に関してはとことんポンコツだよな。陛下が見兼ねて手助けしてくださる時点で自覚しろよ!」


 まったく情けない! と言わんばかりの声音だった。顔をこわばらせて凍りついているフェリクスの襟首を掴んで引き立たせると、グイドは応接間の扉のほうへと主人を押しやった。


「いまから、奥様にきちんと説明してさしあげろ。平伏して許しを乞うてこい!」


 再度怒鳴りつけると、グイドは書類をまとめて憤然と出ていく。フェリクスは立ちすくんでいたが、やがて、長椅子に腰をおろしたままのコルネリアのほうを向き、手を差し伸べた。


「──コルネリア」


 確かめるように呼ばれて、目の前の手に手を重ねる。エスコートを受けつつ、どこへ、とも示し合わさずに二階への階段をあがり、女主人の部屋の前で足を止める。


「話をさせてほしい」


 緊張した面持ちで端的に切り出したフェリクスへ、コルネリアは部屋の扉をみずから開けることで答える。夫から離れ、窓辺に置かれた長椅子まで歩いていくと、手で座るようにと促す。

 彼は示された場所に座ろうとはしなかった。コルネリアを腰かけさせると、その前に跪いた。


「あなたの名を勘違いして、申し訳なく思っている。だれかの代わりにした覚えはないんだ。私は、はじめから、他のだれでもなく、あなたに求婚したつもりだった」


 ひとことずつ区切るように言われたことばに、頭がついていかない。まっすぐな視線は、コルネリアを見つめている。返答は、しかし、求められていないように思えた。


「最初から、やり直させてほしい」


 最初? どこから? 浮かんだ疑問を払うように、フェリクスは右手をさしだす。悩むより先に、反射的に右手が出た。それをうやうやしくいただいて、フェリクスはくちびるでそっとコルネリアに触れた。


「フェリクス・アウレリウスと申します。あなたのお名前をお聞かせくださいますか、レディ」


 フェリクスも、あの日、挨拶を交わせなかったことを覚えていた。それがわかってようやく、コルネリアは事の次第を理解した。


「──わたくしが、白いドレス姿でなかったからなのね?」


 なんてことだろう! 泣き笑いになって、流れた涙を拭われる。


 フェリクスは、貴族の常識で考えただけだ。勘違いして当然ではないか。彼が出会ったのは、付き添いのための濃緑のドレスを纏っていたコルネリアだ。デビューの年齢の令嬢だとはわからず、自分が出会ったのは年嵩のディアナのほうなのだと思い込んでしまったに違いない。


 もしも、ディアナがまともに付き添いを務めていたら、きっとコルネリアは庭になど降りず、彼とは出会えなかった。けれども、彼女が騒動を起こさなければ、ふたりはあの場で名乗りあい、こうしてすれ違うこともなかっただろう。

 まったく数奇な運命だった。


「『わたくしは、コルネリア・センプロニウス=バローと申します』」


 あの夜会の日に告げたかった名を伝え、コルネリアは改めて、跪くフェリクスに微笑みかけた。涙の残る目元に、再び手が伸びる。その骨張った手の甲に指で触れると、彼が腰を浮かせた。


 吸い込まれるような紺青の瞳が近づいてくる。目を伏せて受け入れ、絶え間ない触れ合いに溺れる。息をつぎながら、フェリクスが囁く。


「私の話をあんなに楽しそうに聞いてくれるのは、あなただけだ、コルネリア。きらきらした瞳がすごくきれいで、何度も見惚れていた。その場でこうしたかったくらい、気持ちが昂っていたんだ。気づいていた?」


 ふるふると首を振って答えながらも、コルネリアのほうも、少しだけ勇気を出してみる。


「わたくしも、あのときから、お慕いしておりました」


 顔が熱くなるのをこらえて告白すると、フェリクスは心底うれしそうにした。


「ほんとうに?」


 目を見交わすと、もう、ことばは要らなかった。くちづけに息があがる。ドレスの布地越しに、熱いてのひらが背にあたる。応えて両腕を首に回して肩に触れ、彼のうなじを辿る。肌の感触さえ愛しくなって、自分からも身を寄せる。


「コルネリア、ダメだ、それ以上は……っ」


 フェリクスはコルネリアの肩を掴み、からだを引き剥がす。うつむく彼の耳は、濃い肌色でも隠しきれないほど真っ赤だった。


 失われた体温を取り戻したくてコルネリアが胸に伸ばした指を、彼は手で柔らかくつつむように取った。熱を帯びた青い瞳で、上目遣いに見つめられる。呼吸が荒い。フェリクスのまっすぐな欲求を感じ取って、こちらも顔が熱くなった。


「あなたに触れられると、からだが獣になったみたいに言うことを聞かなくて」


 もどかしそうな彼の言いぶんに、首を傾げる。


「──フェリクスさまは、わたくしが触れるのが、いやなのですか?」

「違う、そうじゃない! コルネリアが嫌がっても、やめられないから。あとで、もっと落ち着いて、ゆっくりと」


 言わんとすることを察して、コルネリアは座った姿勢で背伸びした。かすめるようにフェリクスの頬にくちづけ、間近で微笑む。


「嫌がりなど、いたしませんわ」


 いまのコルネリアにできる精一杯の誘いだった。

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