16

 部屋でひとりの朝食を終えると、日課の読書をしていないことが気になりだした。コルネリアは食事の世話をしてくれた侍女に書斎の場所を尋ね、許可を取るために執事を呼ぶように伝える。まもなくコルネリアのもとを訪れたのは、想定していたグイドではなく、フェリクスだった。

 

「じいさまの本を読みたいんだったね。あれを出すのには時間がかかるから、今日のところは書斎で許してくれるかい? あなたが読みたがるときにはいつでも鍵を開けるよう、執事には話しておいたから」


 そう早口に告げる彼は、旅装だった。まさか、いまから出かける気なのか。慌てて長椅子を立ったコルネリアのそばまでくると、フェリクスは軽くかがみこみ、そっと頬にくちづけを落とした。


「新婚早々に申し訳ないが、数日留守にする」


 そう言われて、コルネリアはピンときた。例の急用の件に違いない。あれは、地下水路の現地確認だと言っていたか。


「昨日ご覧になった地下水路の状況が、思わしくないのですね?」


 問いかけに、フェリクスはうなずいた。


「日常的な維持管理の範囲は逸脱している。早急に本格的な補修が必要だ。これから王宮に出向いて補正予算を申請して、その足で国内に散らばった技術者をかき集めてこようと思う。どんなに急いでも三日はかかる」

「まぁ……、王宮はともかくとして、技術者のもとにも、ご自身で向かわれますの?」

「ああ。私が直接出ていったほうが話が早いからね」


 そこでことばを切って、フェリクスは照れたようだった。


「うっかりしたな、まるで色気のない話をしてしまった。いつ戻るかだけ伝えるつもりだったのに」

「わたくしは、聞かせていただけて嬉しゅうございますわ」


 若いから、女だからとけ者にされずに、問えばきちんと状況を教えてもらえた。そのことだけで、まるで、自分が認められているような気がして、こころが浮き立つ。こちらもつい、素直な気持ちでフェリクスを見上げると、彼はなぜか惚けた顔になった。


 ぐっと抱きしめられ、噛みつくように口を塞がれる。フェリクスはコルネリアの腰を抱いたまま、こめかみのあたりに指を触れ、白金の髪を撫でた。


「ああ、ディアナ。このまま、邪魔が入らなければいいのに」


 身を離したフェリクスのつぶやきに、我に返る。からだを包んでいたふわふわとしたしあわせは、従姉の名を耳にしたとたんに霧散していた。コルネリアは夫の胸を押しやり、ぐっと顔を背けると、感情を押し殺して口を開いた。


「水が届かなくなれば、多くの生命に関わります。陛下に奏上するような一大事なのでございましょう? どうぞ行っていらして」

「──つれないな」


 いじけたように返して、フェリクスは腕を解く。離れていく体温のかわりに、ひやりとした空気が肌に触れる。コルネリアは腰元で両手を組み、うつむいて、部屋を出ていく彼を送った。


 伯爵家の書斎は広々としていて、コルネリアは書名も聞いたことのない本がたくさんあった。重厚な装丁が目をひく一冊を出してもらい、書見台で開く。文字を追いはじめると、時は矢のように過ぎ去る。


「奥様、そろそろ休憩なさいませんか?」


 コルネリアのそばで刺繍をしていたはずの侍女に声をかけられて、顔を上げる。


「食事のご用意もできますが、いかがいたしましょう」

「……できれば、軽いものとお茶をいただける?」


 熱中しているうちに、日は高くのぼっていた。侍女もほんとうは、昼食を勧めたかったのかもしれないが、あいにくコルネリアは食欲と無縁だった。


 乾いた大地に水が吸い込まれていくように、文章と新しい知識はからだに染みわたる。叔父一家に女中をさせられていた期間に抑圧されていたものが、一気に弾けたのだろう。それに、本に夢中になるあいだは、嫌なことも忘れられる。


 陽気がよいからとテラスに出て軽食を摂り、書斎に舞い戻る。時間を忘れて没頭し、またもや侍女に促されるように着替えさせられ、夕食をひとりで食べる。


 そうして丸一日好きに過ごして、気が済んだらしい。翌朝目覚めると、書物への強い欲求はなくなっていた。


 ──遊んでばかりはいられないわ。女主人の仕事をしなければ。


 使用人の管理から、食事の献立の指示まで、貴族の妻がすべきことは多岐に亘る。代理を務めていたグイドや侍女頭から徐々に引き継ぎを受けつつ、書斎に短時間通う。そんな過ごしかたにコルネリアが慣れたころ、夫は戻った。


 先触れを聞いて身支度をして、屋敷の玄関へ出る。フェリクスを乗せた馬車は、出迎えたコルネリアたちの前で止まった。御者の世話を待ちきれないようすで、フェリクスは車を飛びおりてくると、満面の笑みでこちらに向かってきた。


「ただいま戻ったよ、ディアナ!」


 両手を取られ、返答をと考えた瞬間に、隣からグイドの声がさえぎった。


「旦那様。お話がございます」


 妻の発言の機会を奪った執事に、フェリクスが不機嫌そうに眉を寄せる。だが、グイドは一切引く気がないらしく、硬い表情のまま、同じ内容を繰り返した。


「それは、いまでなければダメか? それほど急を要することが起きたのか」

「ええ、たったいま、起きました」

「──何?」


 問いかえすフェリクスに、ここからいちばん近い応接間へと場所を移すことを提案し、グイドは屋内に戻っていく。コルネリアはどうしたものかと、手を繋いだままの夫を見上げたが、彼は納得のいかない顔つきで執事の背を睨み、それから、ため息をついた。


「急ぎのようすでしたわ、わたくしには構わず、どうぞおいでください」

「ずっとあなたが恋しかったんだ。いまは離れたくない。それに、たとえ仕事の話でも、あなたなら退屈はしないのではないかな」

「……! よろしいんですの?」


 手を繋ぎなおし、フェリクスはエスコートするように歩き出す。ついていくコルネリアの足取りは、不思議と軽かった。


 コルネリアたちが応接間に到着し、扉を閉めるなり、グイドはフェリクスに食ってかかった。


「おまえはバカか! 初夜の前に説明したじゃないか、ホントに目ん玉ついてんのかよ?」

「ついているさ。証明書類に別人の名前が書いてあった件だろう? それがなんだって言うんだ」

「だから! 前提がそもそも違うんだよ!」


 グイドは敬語も忘れてフェリクスを怒鳴りつけると、もう一度書類を見せてやるから待ってろと言い残し、足早に出ていく。それを見送って、フェリクスはコルネリアに椅子を勧め、自らも隣に腰を下ろした。


「驚いたろう。グイドは幼なじみなものだから、外部の目がないときは、いつもあんな感じなんだ」


 フェリクスの母と仲の良い技術者の妻があり、グイドはその子どもなのだと言う。彼の両親は敷地内に住んでいて、妹たちがいてと、話を聞いている間に、当の本人が戻った。

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