15

 外套を受け取る従者を横目に、グイドがフェリクスに寄り添って歩き出す。


「おかえりなさいませ。奥様は主寝室にてお待ちです。何点かご報告がございますので、お召し替えはわたくしが務めさせていただきたく存じます」

「わかった」


 応えて、フェリクスは外套を持った従者にさっと手を上げて下がらせ、自室へと向かう。グイドは部屋に入るまではつんと澄ましかえっていたが、扉が閉まるなりいつもの幼馴染の顔になった。


「フェリクス! 奥様、ディアナって名前じゃなかったぞ! おまえなぁ! 出会ったときにちゃんと名前くらい聞いてこいよ! 危うく違うお名前でお呼びするところだったじゃないか!」

「……何を言ってるんだ?」


 眉を寄せ、着替えを手伝おうとするグイドの手を払いのけ、フェリクスは気色ばんだ。


「ディアナでなくて、だれが来たんだ?」

「コルネリア様だよ。婚姻証明書の写しにも、このとおり書かれてる。公証人が立ち会っているんだから、正真正銘あのかたが──」


 グイドがさしだしてよこした写し書きには、「原本に相違ない」旨の公証人の署名が記されており、妻の欄にはコルネリア・センプロニウスとあった。


 例のデビュタントの名だ、に汚名を着せた、あの。


 腹の底から湧き上がるものを抑えきれずに、フェリクスは旅装のまま勢いよく部屋を出た。追ってくる友の声がしたが、聞く気はなかった。怒りにまかせて主寝室の扉を開く。薄明かりのなか、一段暗い寝台に人影を認める。天蓋に隠れて造作は見えないが、女が敷布に端座しているのは見てとれた。


「──だれだ、おまえは」


 私が求婚したのは、おまえなどではなくだ! と、よほど言ってやりたかった。フェリクスはコルネリアの指摘するすべてに、恋に浮かれた自分の浅はかさを思い知り、打ちのめされた。


 こんなことにならなければ、いまごろはを妻に迎え入れていたはずだ。


 フェリクスには、バロー家のデビュタントであると会った覚えはないし、他のだれかと糸紐細工ミクラマの話をした記憶もない。だから、礼状でペレグリーニのミクラマと言及したは、紛れも なくあの日出会った令嬢だったのに。


 深く悔やみながら触れた妻の容貌を見たとたん、わけがわからなくなった。そこにいたのは、だった。白金のまっすぐな髪、聡明そうな双眸そうぼう、華奢な体躯。焦がれた女性は、あきらかにこちらに──男に怯えながらも、覚悟を決めた表情をしていた。


 その肌を目にして、理性が弾け飛ぶのは、一瞬だった。違和感と事態の異常を知りながら、考えることを放棄する。


 疲れたのか、が気絶するように寝入ってしまったところで、ようやくフェリクスの頭は、ふたたび回りはじめた。


 は、なぜコルネリアと名乗ったのだろうか。なぜ、婚姻証明書にまで、コルネリアの名が記されているのだろう。


 ──まさかとは思うが、デビューの宴で名乗った名を使い続けることにしたのか?


 汚名よりも、詐称を重く見たのだろうか。では、彼女は名を奪われてしまったということか。


 フェリクスは、汗ばんだ妻の額を拭ってやり、その寝顔にじっと見入った。そうして何気なく触れると、欲した女性を手に入れた実感がわいた。


──従妹の名を名乗らせ続けるのは不憫だ。私だけはきちんとディアナと呼んでやらねば。


 考えながらまどろむ夜明け前は、どこまでも幸福でしかたなかった。




 朝日のまぶしさにまばたきをすると、隣から腕が伸びてきた。頬を優しく包まれて、ついばむようなくちづけを受ける。


 自分のいるのが伯爵家の主寝室で、くちづけの相手がフェリクスであることまで把握すると、コルネリアの意識はしっかりと目覚めた。


「ディアナ、からだに辛いところは?」


 気遣われて、首を小さく横に振る。フェリクスはすでに衣服を身につけ、長い髪もすっかりと整えていた。素肌のままのコルネリアがそのことに気づいて恥じらうと、彼は部屋の外に湯の用意を言いつけに離れた。すぐに戻ってきて、寝台に腰かけると、困ったように笑みかける。


「あなたにそのような可愛らしい顔をされたら、我慢がきかなくなってしまう。昨晩のように強引に抱く気はなかったんだ」

「わたくしは、閣下の妻です。お好きなようになさってください」


 ディアナを重ねるのも、愛を囁くのも、捨て置くのも、勝手にすればいい。コルネリアのこころは、コルネリアだけのものだ。もう、だれにも土足で踏み入らせなどするものか。


 決意を新たにしていると、夫はこちらににじり寄った。


「閣下ではなく、フェリクスだ」

「承知しました、フェリクスさま」


 無感情に返し、間近な彼の顔を見つめかえす。黒く長いまつ毛に縁取られた紺青の瞳は、深い湖のようだった。明るいところで目にすると、濃い肌の色は、きめ細やかで、とろりとしている。肩からこぼれかかる黒髪には、あの日と似た色味の髪飾りがあった。


 コルネリアの視線を受けて、彼はくすぐったそうにして、髪飾りの房に指先で触れた。


「覚えていてくれたのだろう? 髪紐の返礼の手紙でも触れられていて、うれしかった」

「さようで、ございますか」


 つぶやくのが限界だった。必死に防御壁を張ったつもりだったのに、すきまから滲み出るように、ディアナに対するフェリクスの思いに、こころが侵食されていく。鋭い痛みを生じはじめる。


 コルネリアは自分を守るために、より固く内に籠った。

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