13

「お休みのところ失礼いたします。リヌスでございます、お嬢様」


 執事だ。屋根裏部屋に移ってからは、顔を合わせることも声を聞くこともなかった。彼がいったい何の用だろうか。いっこうに開かれない戸を見つめ、相手の求めることばを理解して、コルネリアはゆるゆると口を開く。


「……入室を許します」


 許可とともに、居住まいを正した。慇懃いんぎんに木戸を開けたリヌスはこちらに一礼すると、一歩踏み出し、また深く頭を下げた。


「すべては私の力不足でございます」

「いいのよ、いずれ個人資産を得たら、出ていくつもりだったもの。18歳までここで辛抱するか、いま嫁がされるかにさしたる違いはないわ」


 執事のかわりにコルネリアが叔父を諌める役割を担ったせいで、要らぬ誤解を生んだか不興を買ったと思っているのだろう。だが、それは誤りだ。だれが説明したところで、彼らは理解しないだろう。


 人生で初めて、本気で匙を投げるような相手に遭遇した。同じ言語を話しているはずなのに、ことばが通じない。そんな絶望感を今後も味わい続けるくらいならば、たとえディアナを求める男だとしても、ドミティウス伯爵のほうが話せるだろう。フェリクスとは、あんなに会話が弾んだのだ。追い出されさえしなければ、なんとか18歳まで凌げる場所が手に入るかもしれない。


 ──そのためには、何が必要かしら。


 案外、悪くない状況に思えて、コルネリアは苦笑した。場を取りつくろう笑みにでも見えたか、リヌスはさらに恐縮する。


「私にできるかぎりの償いをさせてくださいませ」

「それであなたの気が済むなら、わたくしからいくつかお願いをしましょう。──できることならば、あの婚姻証明書に署名するときには公証人を立ち合わせたいの。あと、わたくしの管財人に連絡を取りたいわ。あとで手紙を取り次いでくれるかしら」

「それくらいのことでしたら、すぐにも手配いたします。他には、何がご入用いりようでしょうか」

「そうね。では、」


 言いさして、コルネリアはこぶしを握った。切り換えるのだ。彼は夜会で出会った青年ではない。自分が生き延びるための踏み台だ。いっさいの隙を与えてはならない。


「……フェリクス・アウレリウスというかたや、その血縁者について、リヌスの知るかぎりの情報を教えてくれる?」


 問いかけに、執事は心得たようにうなずいた。




 求婚を受け入れるとの返信がバロー家からあったとき、フェリクスは歓喜よりも驚きを感じた。


「──グイド。これは、夢か?」

「いや、現実だ。よかったな」


 今日何度目かになる主人の問いかけをあっさりと流しつつ、グイドは執務机のうえで書類を振りわける。インク壺の残量を確かめ、ペン先の割れや欠けがないかも目視で点検する。


「婚約期間はおくのか? 一般的な貴族は半年から一年おくらしいが」

「おかない」

「じゃあ、婚約披露は無しで、結婚披露の場が要るんだな?」

「それも要らない」


 フェリクスの返答に、従者ははじめて手を止め、ふりかえる。フェリクスは手紙に目を落としたまま、考えるような顔つきをしていた。


「婚礼は? まさか、それも無しか?」

「ああ。できるだけ早く、身ひとつで嫁ぎたい、目立つような婚礼の儀は不要だと書いてある」

「それは、さすがにおかしくないか?」


 違和感を訴えると、フェリクスはさきほどまでの驚愕や困惑を削ぎ落とした怜悧れいりな横顔を見せた。


「なんとなくではあるが、理由は推測できる」


 ディアナを騙るデビュタントの話をすると、グイドはフェリクスの言う「なんとなく」がわかったようだった。


「つまり、祝いの場に同席して、それぞれの名があきらかになるのを避けたいってわけか。そんな小細工をしたところで、いつまでも隠しとおせるものでもないだろうに」

「案外、ディアナ本人の希望かもしれない。従妹の愚行のせいで、自分の名だけがひとり歩きしているんだ。それを恥ずかしく感じるだけの分別が、彼女にはあると思う。男どもの不埒な視線に晒されるのを良しとする女性には見えなかった」


 フェリクスの口にする印象に、グイドは腕を組んだ。


「でも、汚名はそそぐべきじゃないか? でなけりゃ、いつまで経っても、おまえのパートナーとしておおやけの場に出られないだろう」

「ああ。それは追々どうにかする。まずは、これ以上の汚名が降りかからぬよう、ディアナを家から引き離してやらねば」

「そうだよなぁ。じゃあ、支度金は俺のほうでバロー家に送っておくから、フェリクスは奥様の受け入れ態勢を整えてくれ。女主人の部屋にはかなり手を入れないといけないだろう? 婚約期間も結婚披露もなしなら、特急で取り掛からなきゃ家具や布類が間に合わない。その打ち合わせのためには、しっかり仕事を終わらせような? 雑談おしまい!」


 「奥様」のことばの響きを噛み締め、フェリクスが妄想をはじめるのを遮って、グイドは名残惜しそうにする主人から手紙を取り上げた。結婚は喜ばしいが、日々の仕事をおろそかにしてもらっては困る。口にせずとも、そうした意味合いの圧力がある。


 グイドに仕事へと追い立てられながら、フェリクスは密かに、の名をおとしめたやバロー家への対処について、頭を巡らせていた。




 伯爵家に向かう馬車のなか、コルネリアは膝元を見据えながら、やり残したことがないか振りかえった。


 屋根裏部屋に隠していた蔵書は婚姻証明書とともに財産管理人に預けたし、公証人に依頼した証明書の写しは手元にある。身分を証立てる書面は叔父に書かせた。婚姻の支度金のほとんどはディアナに使われてしまったようだが、質素ながら婚礼衣裳はもぎとった。揃いのヴェールと長手袋もある。


 荷物は少なく、付き添う侍女ひとり無い。みじめな道中と言うひともあるだろう。けれども、コルネリアは清々しかった。ワレリア男爵家に、もはや自分の居場所はない。対外的には、生まれ育ったあの場所を追い出されたわけでも、出奔したわけでもないことが、むしろ救いですらある。コルネリアは、単に他家に嫁ぐだけだ。


 ドミティウス伯爵家の門衛は、あらかじめ知らされていた客人の到着に浮き足だったようすだった。コルネリアが車中からさしだす書類をうやうやしく受け取り、門を開け、徒歩で馬車を先導する。広大な敷地のなかには、いくつかの家らしきものが建ち並び、まるでここがひとつの集落であるかのようなふんいきを醸し出している。


 家々は石造りではない。白木製なのかと思ったが、よく見れば乾いた土でできたような色をしている。子どもが通りへ走り出るのを、母親がうしろから押さえる。そのどちらも、肌の色が濃い。


 ──水路の技術者の末裔かしら。


 初代伯爵は、我が国に招いた技術者たちを敷地内に住まわせたのだろうか。あれはその名残かもしれない。めずらしいことだ。


 フェリクスはこの環境で育っている。他の貴族とは考えかたの根本が違う可能性がある。婚約期間をおかない婚姻も、持参金を求めず支度金を用意する姿勢も、婚約披露などの宴を開く気配がないことも、いまのところ例外だらけだ。どれも叔父一家に都合が良かったから受け容れられたが、他家の令嬢に対してこんなことをすれば、社交界から爪弾きにされることだろう。


 やがて馬車はとまった。伯爵家の侍従の手を借りて車を降り、コルネリアは目の前の壮麗な屋敷を見上げた。慣れ親しんだ建築様式にホッとする。こちらも土でできていたら、戸惑ってしまったと思う。


 門衛から渡された書類を手に出迎えたのは、フェリクス本人ではなく執事らしき男だ。グイドと名乗った彼は、コルネリアを見て微笑み、それから証明書に目を落として、訝しそうな顔になった。

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