10
角の向こうから聞こえるのは、ふたりぶんの声だ。ひとりは先日の御前会議に出席していた同僚の声に思える。
「おまえ、聞いたか? フェリクスに気になる女が出来たんだとよ」
「へえ、あのフェリクスに? どんな娘なんですか?」
「それが、建国記念日の夜会で、バロー家のデビュタントの付き添いをしていたご婦人だそうだ」
「バロー家のデビュタントって、ディアナ嬢でしょう? 僕は実際に話をしましたが、16才とは思えないほど艶っぽい美人でしたよ。しなをつくるのも、とても上手くて。あれは遊んでるな。でも、付き添いなんて、見たかなぁ?」
──デビュタントが、『ディアナ』?
聞き捨てならない。それは誤りだ。デビュタントは前男爵の娘のコルネリアであって、ディアナではないはずだ。
フェリクスは訂正したくてたまらなかったが、そんなことをすれば、礼儀知らずな盗み聞きまで明かさなければならない。もどかしい思いで廊下の曲がり角で立ち尽くす。男同士の会話は、次第に下世話な方向へと進んでいった。
「従姉にあたるご婦人が付き添いをしていたらしい」
「歳は食ってても、あのディアナ嬢と血のつながった従姉妹同士なんだから、磨けば光るのかもな」
磨かなくとも、すでに光り輝いていた。あの夜に見たうつくしい白金の髪を思い起こして、フェリクスは目を伏せた。月光のような髪。まさに月の女神ディアナの名にふさわしいあの女性が、いままさに
「少なくとも、あの朴念仁のフェリクスが一目惚れするような容姿なんだぞ? 早めに手紙のひとつも送ってみるか」
驚きの展開だった。フェリクスには、目を
「じゃあ、妹が今度お茶会をするから、その付き添い宛てにも招待状を送るように言ってやるよ。庭に席を設けさせれば、屋敷のなかから、じっくり観察できるだろう。気に入ったら、出ていって声をかければいい」
続く会話に、焦りがじわじわと足先から昇ってくる。
フェリクスには、自分が選ばれる自信など無かった。多くの男が彼女の前に現れれば、彼女が選びとるのは己の手ではないかもしれない。いや、その可能性のほうが高い。だれが好き好んで、異邦人だの新興貴族だのと
それでも、目の前の書類の文面が何度読んでも頭に入らない。フェリクスは額に手をあて、天井を仰いだ。
こういうときは、とことん考えてしまったほうがいい。ほんとうなら、グイドに相談できたらよかったが、職務中の王宮内に、従者は連れ歩けない。せめてひとりで思考が堂々めぐりしないように、先程の男たちの会話の何が自分のこころを乱したのか、会話の内容を紙に書き起こして突き詰めてみる。
まず、自分の思いびととして、バロー家のデビュタントの付き添いをしていた女性が話題にあがった。
次に、バロー家のデビュタントと直接話したと語る男が、その名を誤ってディアナと呼んだ。
「艶っぽい美人」「しなをつくるのが上手い」「遊んでいる」。ディアナに対して使われた形容詞は、どれもあの女神のような女性には似つかわしくない。どう考えても別人に対する評価だった。
ディアナに手紙を送ろう、彼女を茶会に呼ぼうと言う流れに動揺した。
羅列してみて、違和感に気づいた。
男は、バロー家のデビュタントと話したと言った。描写から、確実にディアナとは別の人物と出会っている。しかし、それならば、なぜ、ディアナの名が出るのだろうか。彼はこうも言ったではないか、「付き添いなんて、見たかなぁ」と。フェリクスの知るディアナとは、面識がないのではないか。
まさか、ディアナの名を
考えるフェリクスに答えを示すように、不意に男のことばが脳裏をよぎった。
『あれは遊んでるな』
──まさか、コルネリアとやらは、これまでも従姉を隠れ
顔が自然と嫌悪に歪むのを感じた。
社交界デビューの夜会においてまで名を偽るとは、なんと愚かな。これほど多くの人間に「デビュタントのディアナ」として認知されてしまっては、もう後には引けまい。いまさら訂正もできないだろうに。
これ以上、ディアナの名を汚させるわけにはいかない。一刻も早く、ディアナとデビュタントが別人であることを白日の元にさらさなければ。
ディアナは貴族となったばかり。社交界に知り合いもないはずだ。本来ならば、デビュタントを導く立場の「付き添い」など、務められるものではない。それもデビュタントの差し金だろうか。
あの夜、自分と出会ったとき、おおかた、夜会の場に居心地が悪くなって庭園に逃げ延びてきたところだったのだろう。
素行の悪いデビュタントがいなければ、フェリクスはディアナと出会えなかったが、その従妹の振る舞いのせいで、このように男たちのあいだで自分の名がうわさされているなどと、きっと予想だにしないに違いない。
憤りを覚えたことで、焦りのほうはおさまった。ディアナを手に入れ、デビュタントを
物思いに
割り切って取り掛かった仕事は、瞬く間に片付いていった。
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