邂逅一晩(完全版)
獅子座のラッキースポットは、夜の池。
ほんの数日前まで梅雨明けと騒いでいたのをすっかり忘れた朝の情報番組。明らかに時間調整のために設けられたコーナーのくせに、星占いは妙にロマンチックな提示をしてくるなと思った。緑の多い場所、などと漠然とした指定ならまだしも、夜の池だ。時間帯の指定までしてきた。
この都市部で池といえばいくつか思いつく。コンクリートとガラスと鉄筋でできた迷路においては息抜きのできる場所ではあるけれど、陽が落ちれば人の姿は消えるし街灯も少ない。夜に近づきたくはない。
他愛無いオカルトに対して、私がここまで考えを巡らせているのは単に暇だからだ。在宅勤務を始めてもう長い。あくせくと出かける支度をしたり、満員電車で他人の鞄の角に肋骨の隙間を圧迫されることもない。
雑談も空気の読み合いも面倒だ。一人で気楽にやりたい。今日みたいに偶然早く目が覚めた朝も、のんびり珈琲など飲みながらだらだら過ごしたい。
だから、スマホが鳴ったのもすぐには気づかなかった。
他人からの連絡などただでさえ面倒くさいのに、記された氏名にまったく覚えがないことで警戒心が一気に高まった。続くフレーズがそこに追い打ちをかける。
『突然なんだけど、一緒に花巻に行かない?』
相原真由子。
誰だ、お前。
しかも花巻って。
誰かが勝手に自分のアカウントを教えたのだろうが、問い質すのも億劫だ。テキストであっても人とやり取りするのは避けたい。
よって、放置決定。スマホの電源を落として珈琲を飲み干す。一人もくもくと取り組める仕事に今日も打ち込むとしよう。
パソコンのスイッチを入れ、椅子に腰掛けると頭が切り替わる。余計なことは考えず、ひたすらタスクをこなすモード。なのに今日は、妙にノイズが入るような感じがする。原因は間違いなく先ほどのメッセージだ。
ちいちゃん、元気にしてる?
私――汐見茅早をそのように呼ぶ人物に、心当たりはない。
心当たりはないのに、なぜか妙に懐かしいその響きが気にかかって仕方がない。結局、キーボードを叩く手は普段の二割ほどスピードを落としたまま午前の業務を終えた。
インスタントラーメンを昼食に啜りつつ、先ほどのメッセージについてまた考える。そしてスマホの電源を切ったきりであることを思い出す。
「食べてからでいいか」
立ち上がろうとした足を独り言で押さえ込み、まだ湯気の上がるカップに集中する。食べ慣れた縮れ麺と塩味のスープを啜っても、なんだか今日は妙に気が急いて味がよくわからない。結局、流し込むように食事を終えた。
食後の熱い茶を飲み終えるともう回り道はできない。自室に入り暗転したままの液晶画面を睨む。いつも以上に渋い顔をした私が映っている。片手に取り上げて、電源ボタンをやや過剰に長押ししながらリビングに戻った。
起動を待つまでに、大ぶりの湯呑みに再び茶を注ぐ。今度はなみなみと。経験のない動揺を前に、何かしら気持ちを落ち着けるものが欲しかった。湯気を立てるのを慎重に啜ると妙に渋い。さらに眉間の皺が深まるのを感じた。そうしているうちに、ついに液晶画面にアイコンが出揃う。そのなかからトークアプリを選んで叩く指先がかすかに震えた気がした。
依然としてメッセージは残っている。入力欄のカーソルが急かすように瞬く。
久しぶり。相原真由子です。
ちいちゃん、元気にしてるかな。
突然なんだけど、一緒に花巻に行かない?
一行で済むところを、わざわざ三度に分けて送信してくるところもなんとなく鬱陶しい。いったい誰なんだ、こいつ。
ちいちゃん。
画面を睨んだままほうじ茶を啜ること、四度。
熱い茶に緩んだ頭の隅から、滲み出すように記憶が姿を表す。
ごく小さい頃、確か小学生になったばかり時期に、そう呼ばれていたことがある。
ちはや、という名前を当時の自分は大層嫌っていた。もっと「かわいらしい名前」がよかった、というのが言い分で、おそらく両親を相当困らせたと思う。一度言い出すと聞かない性格は今も変わっていない。
振り返ってみれば他愛無いとすら呼べない事柄であっても、子供の時分には致命的な不幸に思えるものだ。自分に本来与えられるべきであった、そして実際にはありもしない「かわいらしい名前」に恨めしさを募らせていた私に、声をかけてくれた女の子がいた。
――じゃあ、ちはやちゃんじゃなくて、ちいちゃんって呼ぶね。ちいちゃんのほうがかわいいよ
――ねえ、どうかな。ちいちゃん。
私は飛び上がって喜び、その日から「ちいちゃん」になった。茅早と呼ばれようものなら、ちいちゃんと呼んで、と胸を張って言い返す。子供っぽいと言われようがお構いなしだった。方々からちいちゃんと呼ばれて満足だったし、新しい名前をくれたその子に私は心から感謝した。
なのに、その子の顔も名前も、私は覚えていない。
意識を、過去から現在に戻す。
当時、私をちいちゃんと呼んでいた人物は多い。だからメッセージの送り主はそのなかの誰かであるということは見当がつく。
再度茶を啜る。
「見当がついたところでなあ」
肝心の、急に連絡を寄越した目的は未だに不明だ。しかも花巻という聞いたこともない場所へ誘ってきている点については輪をかけて意味がわからない。
立ち上がって、スマホを右手に、湯呑みを左手に持った。自室の作業机に再び陣取り、スリープ中のパソコンを叩き起こしてブラウザを開く。
花巻、とだけ尋ねても検索エンジンは優秀だ。そこがどこなのかすぐに教えてくれる。日本、東北、岩手県、花巻市。内陸の街。住んでいるところからは新幹線で三時間と少し。遠いな。世界地図のうえでは小さな島でも、やっぱりこの国は広い。
記述を流し読みするうち、ひとつのフレーズが意識に引っかかる。
宮沢賢治の生まれ故郷。
今日はやたらと見覚えのない名前を目にする日だ。正確に言えば、ほとんど忘却に等しいうろ覚え、と言うべきかもしれない。
学校の授業で聞いたような気がする。ネットで見た気もする。
新しい検索窓にコピーした名前を貼り付けて、エンターキー。
詩人。童話作家。宗教家。農民。教員。
やたら多い属性とともに、ぼやけた写真が表示される。
短く刈り込んだ髪。組み合わせた両手、どこか遠くへ投げかけられる強い眼差し。
帽子にコート。背中に回した両手、うつむいて立つ姿。
記憶にはない二枚の写真に妙に惹きつけられて、眺めているうちに午後の作業を始める時間になった。
気持ちが多少落ち着いたのか、速度を取り戻した指によって作業の遅れはしっかり取り戻せた。それに機嫌を良くして少しばかり作業時間を伸ばしたところ来週の準備まで終わってしまい、今週はもうほとんどやることがない。モニター越しの上司にそう伝えると、こんな提案をしてきた。
「そういえば、有休が随分余っていましたよね。週末と合わせて連休にしても問題ないですよ」
休みだからと言ってすることもない。掃除して洗濯して、食事を作って食べ、寝る。仕事をしない平日みたいなものだ。人混みは嫌いだから外出もしない。
なのに。
「では、明日から金曜日まで、取ります」
多分、頭の隅にまだあのメッセージが引っかかっていたのだろう。そのせいだ。そうに違いない。
「了解です。申請お願いしますね、今日中で良いので」
「わかりました」
会社のウェブシステムにログインしてから、ものの数分で手続きは終わった。
手に入った久しぶりの長い休み。
何をするかは、もう決めてある。
クローゼットで埃をかぶっていたスーツケースを引っ張り出す。留め金を外すと、閉じ込められていた空気がふわりと舞い上がって鼻先を掠めた。
どこか懐かしい匂いを吸い込んで、スマートフォンを叩く。入力欄に返事を打ち込む。
『明日からでもよければ』
よく考えなくてもおかしな話だ。
正体不明の相手に急に旅行に誘われ、しかもそれに応じようとしている。あろうことか有休を使ってまで。
このご時世、どこかで殺されて身ぐるみ剥がされた挙句死体を埋められたって不思議ではない。
もともと高かったはずの警戒心がずるずるに溶けてしまっているのは、きっとあのメッセージと、二枚の写真のせいだ。
返事はすぐに来た。
『じゃあ現地集合しよう。楽しみにしてるね!』
短いテキストと、アドレスがひとつ。触ると地図アプリが起動する。
赤いピンの刺さった場所には、白鳥の停車場、と名前がついていた。
駅舎を抜けるとそこは平地であった。などと文豪の真似をしたくなるほど、駅の前には何もない。広いロータリーの向こうにレンタカー屋の駐車場、隣にぽつんとある土産屋。あまりにもなんというか、見晴らしの良い場所で拍子抜けする。新幹線の駅の周りといえばどこもうるさいくらいに賑わっているものと思っていたけれど、そうでもないらしい。陽射しだけはふんだんだ。
帽子をかぶり直し、ペットボトルの水をひと口飲む。スマートフォンの指す場所はここからだいぶ離れている。おまけに私は自宅勤務を始めて長い。考えるまでもなかった。それから三分もしないあいだにタクシーは駅を後にしていた。
なぜか猫の人形が二体並んで立っているコンビニの角を曲がり、線路を越えると車は山道に差し掛かった。座席に押し付けられる背中が意外ときつい傾斜を感じ取り、やはり歩かなくて正解だと思う。
山道、で思い出した。小学校の何年生だったか、遠足で山道を延々登らされて大変だった、とクラスメイトがうんざりした顔で話していた。その日私は運悪く体調を崩してしまって欠席したのだが、熱血が行き過ぎてもはや独善的だった教員に散々連れ回された様子を耳にして、口にはしなかったものの休んで良かったと心底安堵した。
「あのとき登らなかったぶんか」
独り言を聞き取った運転手が訝し気にバックミラーを覗いてくるのを笑って誤魔化す。夏草のつるが垂れたトンネルを越えると、陽射しが一層強くなった。
驚いたことに、駐車場は混んでいた。平日の昼間なのになぜ、と数秒考えて、今は一般的に言うところの夏休みの時期に当たることを思い出す。人混みは苦手だ。意味のわからない叫び声を上げて走り回る子供も、周囲を完全に無視して写真撮影に没頭する大人も友達にはなりたくない。たちまち憂鬱になる。
しかし、ここを訪れると決めたのは自分だ。無理はせず、限界になる前に帰ろう。そう腹を決め、料金をちょうど支払ってタクシーを降りる。
サングラス越しに見る、能天気なほどの夏。
能天気であるほど、日常を自宅で過ごしている人間には厳しい。とにかく急いで日陰に入りたかった。ぐるりと見渡すと、駐車場の入り口近くに店らしき建物が見える。建物があるということは冷房が効いているということだ。急ぎ足でそちらへ向かう。
近づいてみると、そこにあったのは正確には建物ではなく、屋根のついた大きな箱だった。駅で何度か見かけたことがある。線路のうえをいくつも連なって、けたたましい音を立てながら走っていったあれだ。
「コンテナ?」
壁の一面には扉が設けられ、荷物ではなく人がひっきりなしに出入りする。ドアチャイムの軽やかに鳴る音が響いていた。
コンテナに冷房があるのかどうかはわからないけれど、少なくとも外よりはマシだと判断した。思い切ってドアノブを引く。
さあっと視界が涼しくなった。
所狭しと並ぶ、青。
ハンドメイドらしきアクセサリー。無造作に並べられた鉱物。美しい箔押しの紙細工。装飾のために置かれたランプさえも、無限の階調の青のなかにあった。
「いらっしゃいませ」
呆然と突っ立っていた私に、のびやかな声がかかった。
カウンターの向こう、女性がにこにこと笑ってこちらを見ている。眼鏡の奥の目尻がやさしそうに垂れて、綺麗な銀のネックレスが胸元に緩やかな弧を描いていた。
ぼんやりしているところを見られた気まずさに、こんにちは、と曖昧に応えてそそくさと商品棚の裏に回り、品物を眺めるふりをした。小さな鉱石を背負ったまるっこい生き物がずらりと並んでいる。つぶらな目はまっすぐで、ますます自分の格好悪さを痛感するようだった。
久しぶりに人混みへ出てきたらこの有り様だ。私は早くも後悔し始めていた。急に体調が悪くなったとか、適当に言い訳をして帰ってしまおうか。どうせ得体の知れない相手だし、連絡先をブロックして放置してしまえば――
そこまで考えたとき、再びドアチャイムが鳴った。
「こんにちはー」
のんびりと朗らかな、やわらかい声だった。
「あら、まゆちゃん! 今日はゆっくりだったのねえ」
「ご無沙汰してました、駅長さん」
駅長さん、と呼ばれたのは先ほど出迎えてくれた女性だ。店長ではなく、駅長。どういうことだろう。
「あれ、もうすぐ始まりますか?」
「そうね。そろそろ準備も終わると思うけど」
そう言い合いながら、二人して外を眺めている。そういえば、先ほど店の前に奇妙なものが出ていた。ベニヤ板とか、クッションを貼った丸い缶とか。何かイベントでもあるんだろうか。
「今年はあんまり、烏瓜が見つからないって聞きましたよ」
「そうなのよ、でもみんながあちこち探してくれてね。私もちょっとお手伝いして」
からすうり、ってなんだろう。ここの店長、ではなく駅長はともかく、今さっき店に入ってきた人――私と同い年くらいの女性も、ここの事情には詳しいようだった。
つい気になって二人の様子を眺めていると、その女性が急にぱっと振り向いた。
「ねえ、烏瓜の灯り、一緒に作りませんか?」
にっこり笑った顔に、何か光るようなものが見えた気がした。
箱にしまって、鍵をかけて、屋根裏部屋に押し込んで。それでも光を放つ宝石のような、輝く何か。
それがなんなのかわからないまま、尋ねる。
「烏瓜って、なんですか?」
「これくらいの丸い実で」
女性が手を差し伸べてくる。指を丸めて、ちょうどレモンがすっぽり入るくらいの大きさの膨らみを示した。ほっそりとして良く動く指だった。
銀河の祭り。川へ流す灯り。未完の物語。
聴かせてくれた話に、あの名前が出てきた。
「三十七歳で亡くなったんですよ、宮沢賢治って」
たったの三十七年。私も、あともう少しすれば追いついてしまうくらいの人生。
いったいどんな気持ちで、短い命を生き切ったのだろう。
「想像でしかないんですけど」
そう前置きして、女性は語る。
「早く亡くなってしまうと、悲劇的なことって思われがちですよね。でも、いつまで生きるのかなんて、結構運次第だと思うんです。だから何が正しいとか、本当は良くわからないものなのかなって」
静かな、けれども確かな実感のこもった言葉だった。
「だから、賢治自身がどう思ってるのかが大事で……なんてね、それはもうわからないんですけどね」
そう締めくくる。私が何も言えずに黙っていると、照れくさそうに笑って手招きした。
「行きましょう。始まるみたいです」
店の外には、むわっとした夏の熱気がまだ残っている。陽はもうまもなく、敷地をぐるりと囲む林の向こうへ消えるところだった。
足場にベニヤ板を渡して机を作り、簡単な椅子を並べる。そこへ道具と材料をどっさり広げれば、立派な工作教室だ。揃いの腕章を着けた人たちが慌ただしく仕上げを行っていた。受付の小さなテーブルには張り紙も出ている。辺りを見回せば、私たちと同じように遠巻きに机を眺めている観光客が何人もいた。今日の盛況ぶりには、どうやらこの催しもひと役買っているらしい。
「お待たせしました!」
黄色い腕章を巻いた人が受付に立ち、声を張り上げた。
「烏瓜の灯り作りワークショップ、ただいまより開始します!」
動き出した人の群れに合わせて、私たちも列に並んだ。一人一回五百円。参加費は当然のように女性が出した。財布を取り出そうとするとゆったり首を振る。
「付き合っていただいたので、お礼です」
やわらかく細めた目を、やっぱり私は知っているはずだった。
――どこかで、会ったことがありますか。
尋ねる前に、席に通された。
ころんと緑色をした烏瓜の、まずは頭の部分を切り落とす。クッキーの型で好きなようにくり抜く。それから、ふわふわの綿みたいな果肉と、大きな種を掻き出す。渡されたのはカニを食べるための細いフォークで、思わず笑ってしまった。
「……上手ですね」
深々と刺さってしまった型をなんとか引き抜くと、隣で黙々と作業している女性の手元が目に入った。どこにあったのか彫刻刀を手にして透かし彫りのように模様を描いている。
「こういうの、好きなんです。昔から」
喋るあいだにも刃先は繊細に動いて、小さな三角形を彫り出す。波のような線と連なった図形は編み物のようだ。それに比べて、私はただ穴を空けただけの不格好な出来栄えだった。
「星がいっぱいですね。プラネタリウムみたい」
その言葉に慰めるような響きはなく、純粋にそう感じているのだとわかった。こんなに素直に褒められるとかえってむず痒い。こういうときに素直にありがとうと言えたならどんなに心地好いだろう。
昔の私なら、きっとそうできたのに。
コイン電池に小さな電球を貼り付けて、烏瓜に入れたらあとは仕上げだ。切り落とした縁のところに穴を空けて紐を通す。木の枝に――好きな枝をどうぞと言われたのがなんだか楽しくて、ずいぶん時間をかけて選んだ――ぶら下げる。
「はい、出来上がりです。おつかれさまでした」
ゆるやかに反った枝の先で、緑色のプラネタリウムが揺れた。
「良い時間になりましたね」
そう言われて見回せば、すっかり辺りは暗くなっていた。駐車場の向こう、ゲートの奥から光がこぼれ出している。
「ね、せっかくですし、見に行きましょう」
誘われて、席を立つ。ゲートへ向かい歩いていくと、すれ違い追い越す誰もが私たちの手元を見て目を輝かせる。二人でぶら下げる灯りが二本の光の線になって動いていく。
こんな無邪気な遊びを、最後にしたのはいつだろう。
いつからだろう。
こんな風に、誰かと隣り合って歩くのをやめてしまったのは。
いつから私は、独りだったのだろう。
「今日は、おひとりなんですか」
「……あ、えっと」
正体のわからない人物から誘われた、などと初対面の相手に打ち明けるわけにもいかず、友人と待ち合わせしていると説明する。
「良いですね、夏の思い出ですね」
女性ははしゃいだように応えて、ついでのようにこう付け加えた。
「もうすぐ会えると思いますよ」
なぜそう思うのかと問う前に、空いたほうの手がすっと先を指した。
銀河ステーションとある門を越えた、その先。
そこは光の庭だった。
入り口の右手から続く森に、枝葉と行き交う人のシルエットが規則的に揺れている。まっすぐ進むと橋の向こうから芝生が広がり、無数の光るオブジェが散りばめてあった。スピーカーが設置してあるのか、あちこちからかすかに音楽が聴こえてくる。
「ね、別世界でしょう」
楽しげな口調に誘われて、まずは森のほうへ向かう。土から生えた岩みたいな七色のステンドグラス、枝に吊るされたミラーボール。そこに私たちの烏瓜の灯りが加わって、ますます景色は現実離れしていく。時折観光客のカメラがフラッシュを閃かせて、森の輪郭が一瞬だけ浮かび上がってまた暗闇に沈む。くねくねと曲がる道は次第に小川に沿って、その水の先を目指すと人だかりがあった。
「ここは池があって、夏になると水芭蕉がたくさん咲くんですよ。でも今は見えないかな」
ほら、と差し伸べる指の先を目で追って、思わず息を飲んだ。
池のほとりに立つ、ひときわ眩しい十字架。
水面がまるで鏡のようだった。
「『銀河鉄道の夜』にも、十字架が出てくるんですよ」
女性は静かに語り始める。
「船の事故で亡くなった姉弟と、その家庭教師の青年が十字架のある場所で降りるんです。主人公のジョバンニは、きっともう少し時間があったら、その子たちともっと仲良くなれたと思っていて」
「どうしてですか?」
「別れ際に、ジョバンニと姉は言い争いをしてしまうんです。でもきっと、本当はお互いにそんなことが言いたいんじゃなくて……ここで降りたらもう会えないと二人ともわかっていて、気持ちが空回ってしまった。私はそう思ってます」
女性は小さく息を吐いて、続けた。
「大切なことを、きちんと伝えられる時間があれば良かったのに……そういうこと、ないですか」
もちろん、ある。生きているとそんなことばかりだ。
「私、茅早って名前なんですけど」
語っても仕方ない。けれども、語らずにいられない。
「もっと可愛い名前が良かったって、小さい頃にわがままを言ったことがありました。もちろん親は随分困ってましたよ、せっかくつけた名前ですから。でもそんなこと、まだわからなくて」
目を伏せると、十字架と烏瓜の灯りが同じ水面に映っていた。
「そうしたら、友達があだ名をつけてくれたんです。ちいちゃん、って。こっちのほうがかわいいでしょって。それが本当に嬉しくて、なのに」
本当に、薄情だと思う。宝物みたいな記憶だったのに。
「その友達のこと、忘れてしまって。顔も、名前も。ひどいやつですよね」
「でも」
烏瓜の灯りがもうひとつ、水面に映る。
ゆらゆらと揺れる、ふたつの灯り。
「ちいちゃんってあだ名は、覚えててくれたね」
わずかに吹いていた風が不意に止んだ。
「嫌なことも苦しいことも、無理に覚えておかなくたっていいんじゃないかな。それにね、あれは本当に、運が悪かっただけって思ってるよ」
穏やかな声が、ひどく胸に染み入った。ひび割れた土に水が染み込んで、そこから芽が出るみたいに、記憶が少しずつ目を覚ましていく。
信号無視の車が突っ込んできたとき、その子は咄嗟に私を突き飛ばした。
ひどく擦り剥いた腕からも、前側がひしゃげた車の陰からも、どくどくと血が流れた。痛みはちっとも感じなかった。その代わりに視界がだんだん狭まり、周りの音も遠くなって、真っ白で静かになった瞬間ぱちっとスイッチを切るみたいに意識を失った。目を覚ましたのは病院のベッドで、その子が亡くなったと母が泣きながら話すのを、包帯でぐるぐる巻きになった腕を見ながら聞いていた。
「ちいちゃんが学校に行けなくなっちゃって、わたしも悲しかった。遠足楽しみにしてたのにね。みんなも、ちいちゃんが来てくれたらって、言ってたよ」
そうだ。
遠足の日、私は熱を出して休んだのではなかった。
それよりもっと前に、私は学校に行けなくなっていた。学校どころか、家の外に一歩も出ず、食事もろくに取らず、部屋に閉じこもり続けた。
友達が自分をかばって目の前で死んだことを受け止められずにいた。
受け止められないなら、忘れてしまうしかなった。
忘れたふりで箱に詰め込んで、蓋をするしかなかった。
あの子の――友達の名前さえも。
「真由子ちゃん……まあちゃん」
「久しぶり。ちいちゃん」
にっこり笑うと、右の頬にえくぼができた。それがとても可愛くて、大好きで、私の隣で微笑む女性にも、やっぱり同じえくぼがあった。
「信じてって言っても難しいよね。でも、ちいちゃんにはどうしても信じてほしいんだ」
そう言って、私の右腕にそっと触れる。
一目ではわからないほどの淡い傷跡が残る腕に。
「腕、痛かったよね。ごめんね」
これは私の、救われたいだけの夢ではないのか。
どうしようもない後悔を拭いたいだけの、都合の良い幻想ではないのか。
もしそうでないのなら。
「恨んでるの」
情けなく声を震わせて、問いかける。
「そんなわけない。違うよ、絶対違う」
どんなにひどい叱責も受けようと思ったのに、そう言ってきっぱりと首を振る。
変わらないね、まあちゃん。
いつも優しいけど、違うって思ったことは、決して曲げなかったね。
「ちいちゃんを恨んでなんかいないよ」
それに、一度だって、嘘をついたことがなかったね。
「なんで?」
そのまっすぐさが大好きだったって、そう伝える前にいなくなってしまったね、まあちゃん。
「なんで恨んでないの? 私のせいで、まあちゃん死んじゃったんだよ? なんで、なんでまあちゃんが、なんで私が」
なんで私が生き残ったの?
何度も自分に問いかけて、大人になった。答えのないまま大人になった。
問いかけ続ける子供のまま、年だけ取って、大人になった。
「わかんないよ」
子供のまま時間が止まったまあちゃんは、そう言ってまた笑う。
大人になったらこんな姿になっていただろうと、虚しく思い描いていた姿で、だけど、あの頃と同じ笑顔で。
「生きてるちいちゃんがわからないなら、死んじゃったわたしもわからない。多分、誰にもわからないことなんだよ、それって」
どうしてあの子が。そう叫んでいた姿を思い出す。
遊びに行くたびに明るく出迎えてくれたまあちゃんのお母さんは、暗い病院の廊下でうずくまって泣いていた。
どうしてあの子でなくお前が死ななかったのかと、言葉なしに私を責めていた。
その嘆きにも答えはないと、まあちゃんは言う。
「もしあのとき、ちいちゃんが死んじゃったら、きっとわたしも同じこと言ったよ。でもやっぱり、答えはわからないと思う。もしかしたら、答えなんて、ないんじゃないかな」
輝く十字架がまあちゃんを照らしている。優しくて、嘘をつかなくて、まっすぐで、私の大好きな友達を。
「でも、ひとつだけ悔しいなって思ってることがあってね」
その姿がいっそ神々しく見えて、何気ない言葉さえもひどく胸を刺す。
もっと生きたかった。死にたくなかった。そう責められることくらい、覚悟していたのに。
それなのに、胸が痛む。
「わたしね、ちいちゃんと一緒に大人になりたかった。ちいちゃん、本当にきれいになってたから。わたしの友達はこんなにきれいな人なんだよって、みんなに自慢したかった」
大きくなったらきっと美人だよ。
あの頃ちいちゃんは、繰り返し私にそう言ってくれた。大きくなったらお化粧して、きらきら光る服を着て、一緒に歩こうね。何度も、そう言ってくれた。
さびしい笑みは、少しも私を責めなかった。
「ここはね、本当は、神さまの公園なの」
ふいにちいちゃんが振り返る。芝生に散らばる虹色、森を透かして届く光。あれだけいた観光客は、一人残らず姿を消していた。
「夏の夜だけ入れる公園なんだよ。ここに来たら、願い事がひとつだけ叶うんだって。みんなには内緒ね」
「まあちゃん」
「なあに?」
たまらず、私は問いかける。
「まあちゃんは、それでよかったの」
たったひとつ、何を願ったのかは明らかだ。
でも、そんなことのために?
「もちろんだよ」
こちらへ向き直ったまあちゃんは、晴れ晴れと笑う。今夜の星空のように。
「ずーっとずーっと、ちいちゃんに会いたかったから!」
わあああ、と叫ぶ声が自分の喉から出ているなんて、すぐには信じられなかった。
みっともなく声を上げるほど、まあちゃんの姿も、水面に映る烏瓜の灯りも、輝く十字架も、みんな滲んで混じっていく。
「ごめんね、ごめんねまあちゃん、ごめんなさい、ごめんなさい」
一緒に大人になれなくて。置いて行ってしまって。忘れてしまって。
何度謝ったって足りなかった。
こんなにも、私のことを想ってくれている人がいることに、気づかないなんて。
「思い出してくれてよかった。会えてよかったよ。ありがとう、ちいちゃん」
泣きじゃくる私の背中を、ゆっくりなでる手が沁みるほどにあたたかい。
「でも、もうそろそろ行かなくちゃいけないんだ」
はっと顔を上げる。
あの頃より大人びたけれど、まだやさしい丸みを失わない頬に、池のほとりの十字架が透けて見えていた。
「願い事が叶ったらね、あんまり長く生きている人の世界にいちゃいけないんだって。約束なんだ。だから」
ゆっくりと輪郭を失っていく両手が、生きているみたいにあたたかい。
「最後まで、聴いてね」
水面の烏瓜。その一方が、ゆっくりと光を失っていく。
ちいちゃんが生きててくれて嬉しい。大人になったちいちゃんに会えて、嬉しいよ。元気でよかった。
無理して幸せでいなくたっていいよ。
たまには、幸せじゃなくたっていいよ。泣いたっていいよ。誰かと喧嘩したり、一人ぼっちになったっていいよ。
でもいつだって、私はちいちゃんの友達だからね。
「大好きだよ、ちいちゃん」
もう眼差ししか、残っていない。
何度も頷いて、その星のような輝きに、私は叫んだ。
「まあちゃん」
ありがとう。
私も、大好きだよ。
帰りの新幹線は静かだった。乗客はまばらで、みんな眠っている。
私は泣き腫らした目をペットボトルで冷やしながら窓の外を見ている。
一人で戻ってきた私に、駅長さんと呼ばれていた女性は何も尋ねなかった。駅まで送ると言われ、断る間もなく助手席に腰かける。踏切を越え、駅舎が見えてくる頃に、女性はふと口を開いた。
「楽しかった?」
横顔は穏やかで、多分何があったのかわかっているのだろうと思った。
はい、と頷くのが精いっぱいだった。
別れ際に渡されたお茶はなぜだかいつまでもぬるくならず、心地好く目蓋を冷やしてくれる。
次の夏もここへ来ようと思うのは、また来てね、と言われたからではない。
たくさん笑って、泣いて、生きていこうと思ったから。
幸せだったり、そうでなかったりしながら。
いつかまた会えたとき、まっさきに聞かせたい思い出を、たくさん作ろう。
そう、思ったから。
邂逅一晩 此瀬 朔真 @konosesakuma
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