邂逅一晩
此瀬 朔真
邂逅一晩(冒頭)
獅子座のラッキースポットは、夏祭り。
ほんの数日前まで梅雨明けと騒いでいたのを綺麗さっぱり忘れたような朝の情報番組の、明らかに時間調整のために設けられた星占い。そういう適当なコーナーのくせに妙にロマンチックな提示をしてくるなと思った。緑の多い場所、などと漠然とした指定ならまだしも、夜の森だ。時間帯の指定までしてきた。
いや危ないだろ、普通に。
大体、この都市部で森なんて望むべくもない。コンクリートとガラスと鉄筋でできた迷路における植物といえば人間が恣意的に作った緑地か、徹底的に無視される雑草程度しか存在しない。もちろん郊外へ出ればそれらしい場所があるといえばあるけど、その辺りの人口密度を考えればやはり夜に足を踏み入れたいとは思えない。
他愛無いオカルトに対して、私がここまで考えを巡らせているのは単に暇だからだ。在宅勤務を始めてもう長い。あくせくと出かける支度をしたり、満員電車に乗り合わせた他人の鞄の角に肋骨の隙間を圧迫されることもない。
雑談も空気の読み合いも面倒だ。一人で気楽にやりたい。今日みたいに偶然早く目が覚めた朝も、のんびり珈琲など飲みながらだらだら過ごしたい。
だから、スマホが鳴ったのもすぐには気づかなかった。
他人からの連絡などただでさえ面倒くさいのに、記された氏名にまったく覚えがないことで警戒心が一気に高まった。続くフレーズがそこに追い打ちをかける。
『突然なんだけど、一緒に花巻に行かない?』
誰だ、お前。
しかも花巻って。どこだよそこは。
誰かが勝手に自分のアカウントを教えたのだろうが、問い質すのも億劫だ。テキストであっても人とやり取りするのは避けたい。
よって、放置決定。スマホの電源を落として珈琲を飲み干す。一人もくもくと取り組める仕事に今日も打ち込むとしよう。
パソコンのスイッチを入れ、椅子に腰掛けるとこちらも頭が切り替わる。余計なことは考えず、ひたすらタスクをこなすモード。なのに今日は、妙にノイズが入るような感じがする。原因は間違いなく先ほどのメッセージだ。
ちいちゃん、元気にしてる?
私――
心当たりはないのに、なぜか妙に懐かしいその響きが気にかかって仕方がない。結局、キーボードを叩く手は普段の二割ほどスピードを落としたまま午前の業務を終えた。
適当にこしらえたラーメンを昼食に啜りつつ、先ほどのメッセージについてまた考える。そしてスマホの電源を切ったきりであることを思い出す。
「食べてからでいいか」
立ち上がろうとした足を独り言で押さえ込み、まだ湯気の上がる丼に集中する。縮れた麺と塩味のスープを啜る。気に入っているインスタントなのに、なんだか妙に気が急いて味がよくわからない。結局流し込むように食べ終えた。
洗い物を済ませ、食後の熱い茶を飲み終えるともう回り道はできない。自室に入り暗転したままの液晶画面を睨む。いつも以上に渋い顔をした私が映っている。片手に取り上げて、電源ボタンをやや過剰に長押ししながらリビングに戻った。
起動を待つまでに、大ぶりの湯呑みに再び茶を注ぐ。今度はなみなみと。経験のない動揺を前に、何かしら気持ちを落ち着けるものが欲しかった。湯気を立てるのを慎重に啜ると妙に渋く、さらに眉間の皺が深まるのを感じた。そうしているうちに、ついに液晶画面にアイコンが出揃う。そのなかからトークアプリを選んで叩く指先がかすかに震えた気がした。
依然としてメッセージは残っている。入力欄のカーソルが急かすように瞬く。
久しぶり。相原真由子です。
ちいちゃん、元気にしてるかな。
突然なんだけど、一緒に花巻に行かない?
一行で済むところを、わざわざ三度に分けて送信してくるところもなんとなく鬱陶しい。いったい誰なんだ、こいつ。
ちいちゃん。
画面を睨んだままほうじ茶を啜ること、四度。
熱い茶に緩んだ頭の隅から、滲み出すように記憶が姿を表す。
ごく小さい頃、確か小学生になったばかり時期に、そう呼ばれていたことがある。
ちはや、という名前を当時の自分は大層嫌っていた。もっと「かわいらしい名前」がよかった、というのが言い分で、おそらく両親を相当困らせたと思う。一度言い出すと聞かない性格は今も変わっていない。
振り返ってみれば他愛無いとすら呼べない事柄であっても、子供の時分には致命的な不幸に思えるものだ。自分に本来与えられるべきであった、そして実際にはありもしない「かわいらしい名前」に恨めしさを募らせていた私に、声をかけてくれた女の子がいた。
――じゃあ、ちはやちゃんじゃなくて、ちいちゃんって呼ぶね。ちいちゃんのほうがかわいいよ
――ねえ、どうかな。ちいちゃん。
私は飛び上がって喜び、その日から「ちいちゃん」になった。茅早と呼ばれようものなら、ちいちゃんと呼んで、と胸を張って言い返す。子供っぽいと言われようがお構いなしだった。方々からちいちゃんと呼ばれて満足だったし、新しい名前をくれたその子に私は心から感謝した。
ありがと、――ちゃん
なのに、その子の顔も名前も、私は覚えていない。
意識を、過去から現在に戻す。
当時、私をちいちゃんと呼んでいた人物は多い。だからメッセージの送り主はそのなかの誰かであるということは見当がつく。
再度茶を啜る。
「見当がついたところでなあ」
肝心の、急に連絡を寄越した目的は未だに不明だ。しかも花巻という聞いたこともない場所へ誘ってきている点については輪をかけて意味がわからない。
立ち上がって、スマホを右手に、湯呑みを左手に持った。自室の作業机に再び陣取り、スリープ中のパソコンを叩き起こしてブラウザを開く。
花巻、とだけ尋ねても検索エンジンは優秀だ。そこがどこなのかすぐに教えてくれる。日本、東北、岩手県、花巻市。内陸の街。住んでいるところからは新幹線で三時間と少し。遠いな。世界地図のうえでは小さな島でも、やっぱりこの国は広い。
記述を流し読みするうち、ひとつのフレーズが意識に引っかかる。
宮沢賢治の生まれ故郷。
今日はやたらと見覚えのない名前を目にする日だ。正確に言えば、ほとんど忘却に等しいうろ覚え、と言うべきかもしれない。
学校の授業で聞いたような気がする。ネットで見た気もする。
新しい検索窓にコピーした名前を貼り付けて、エンターキー。
詩人。童話作家。宗教家。農民。教員。
やたら多い属性とともに、ぼやけた写真が表示される。
短く刈り込んだ髪。組み合わせた両手、どこか遠くへ投げかけられる強い眼差し。
帽子にコート。背中に回した両手、うつむいて立つ姿。
記憶にはない二枚の写真に妙に惹きつけられて、眺めているうちに午後の作業を始める時間になった。
気持ちが多少落ち着いたのか、速度を取り戻した指によって作業の遅れはしっかり取り戻せた。それに機嫌を良くして少しばかり作業時間を伸ばしたところ来週の準備まで終わってしまい、今週はもうほとんどやることがない。モニター越しの上司にそう伝えると、こんな提案をしてきた。
「そういえば、有休が随分余っていましたよね。週末と合わせて連休にしても構いませんよ」
休みだからと言ってすることもない。掃除して洗濯して、食事を作って食べ、寝る。仕事をしない平日みたいなものだ。人混みは嫌いだから外出もしない。
なのに。
「では、明日から金曜日まで、取ります」
多分、頭の隅にまだあのメッセージが引っかかっていたのだろう。そのせいだ。そうに違いない。
「了解です。申請お願いしますね、今日中で良いので」
「わかりました」
会社のウェブシステムにログインしてから、ものの数分で手続きは終わった。
手に入った久しぶりの長い休み。
何をするかは、もう決めてある。
クローゼットで埃をかぶっていたスーツケースを引っ張り出す。留め金を外すと、閉じ込められていた空気がふわりと舞い上がって鼻先を掠めた。
どこか懐かしい匂いを吸い込んで、スマートフォンを叩く。入力欄に返事を打ち込む。
『明日からでもよければ』
よく考えなくてもおかしな話だ。
正体不明の相手に急に旅行に誘われ、しかもそれに応じようとしている。あろうことか有休を使ってまで。
このご時世、どこかで殺されて身ぐるみ剥がされた挙句死体を埋められたって不思議ではない。
もともと高かったはずの警戒心がずるずるに溶けてしまっているのは、きっとあのメッセージと、二枚の写真のせいだ。
返事はすぐに来た。
『じゃあ現地集合しよう。楽しみにしてるね!』
短いテキストと、アドレスがひとつ。触ると地図アプリが起動する。
赤いピンの刺さった場所には、白鳥の停車場、と名前がついていた。
遠足の前日には眠れなくなる。
子供の頃からそういう体質だ。そのせいで、小学生の頃に散々な経験をしたことがある。
前夜、何度も荷物を点検したり配られたしおりを眺めるうちにどんどんテンションが上がっていって眠れなくなり、実に馬鹿馬鹿しいのだが、私は朝になって高熱を出した。喋れないほどふらふらの状態になって病院に担ぎ込まれたものの、もちろん悪いところもあるはずがない。遠足が楽しみにで眠れない子供など健康そのものである。結局解熱剤だけを出されて家に戻り、母親が学校へ欠席の連絡をするのを聴きながらふて寝した。
発熱の原因は単なる睡眠不足だ。だから昼までぐっすり眠れば当然ぴんぴんして目が覚める。ただし気持ちのほうは最悪だった。今頃楽しく昼食時間を過ごしているであろうクラスメイトたちの様子を思い浮かべつつ、作ってもらった弁当を居間で食べた。私の大好物である唐揚げと卵焼きも憂鬱を打ち負かすには至らなかった。
しかし話はここから面倒になる。
翌日、元気になったので仕方なく学校へ行くと、クラスメイトたちが浮かない顔をしている。しかも登校してきた私を見て「ちいちゃんが羨ましい」とまで言う。何があったのか尋ねると、どうも遠足で散々な目に遭ったそうだ。
熱血が行き過ぎてもはや独善的だった担任に、心を鍛えるなどという訳のわからない理由で山道を散々連れ回されたらしい。楽しみにしていた昼食後のおやつタイムもなく最低限の休憩だけでひたすら歩いた、と語る表情はおしなべて暗かった。昨日休んで良かったよ、と言われて複雑な気持ちになったのを覚えている。
そんなことを、ベッドのうえでしばらく思い返していた。
現実逃避の一環として。
枕元の時計は、乗るはずだった新幹線が発車してから三時間が経ったと知らせる。
発熱と寝坊、どちらが悪いだろう?
「どっちも最悪だ」
布団を跳ね上げ風呂場へ飛び込んだ。
汗だくになって移動しながら、どうにか列車の席を押さえる。定刻通りに出発した窓際の席で、水を飲みながらスマートフォンを開く。
家を出る前に送ったメッセージの返信が届いていた。おそるおそる開封する。
『わかった、待ってるね。気をつけて来てね』
短い文面からは感情などわからない。とにかく、現地へ向かってひたすら謝るしかない。目的地の新花巻まではおよそ三時間。気持ちが急くほどに、移動時間は延びていく。
駅舎を抜けるとそこは平地であった。などと文豪の真似をしたくなるほど、駅の前には何もない。広いロータリーの向こうにレンタカー屋の駐車場、隣にぽつんとある土産屋。あまりにもなんというか、見晴らしの良い場所で拍子抜けする。新幹線の駅の周りといえばどこもうるさいくらいに賑わっているものと思っていたけれど、そうでもないらしい。
帽子をかぶり直し、ペットボトルの水をひと口飲む。スマートフォンの指す場所はここからだいぶ離れている。陽はとっくに傾いてまもなく沈むところだけれど、私は自宅勤務を始めて長い。日頃の運動といえば近所のコンビニまで徒歩で往復、そのくらい。
考えるまでもない。三分もしないあいだにタクシーは駅を後にしていた。
なぜか猫の人形が二体並んで立っているコンビニの角を曲がり、線路を越えると車は山道に差し掛かった。座席に押し付けられる背中が意外ときつい傾斜を感じ取り、やはり歩かなくて正解だと思う。夏草のつるが垂れたトンネルを越えると空が一層夜の気配を増した。
驚いたことに、駐車場は混んでいた。平日なのになぜ、と数秒考えて、今は一般的に言うところの夏休みの時期に当たることを思い出す。人混みは苦手だ。意味のわからない叫び声を上げて走り回る子供も、周囲を完全に無視して写真撮影に没頭する大人も友達にはなりたくない。たちまち憂鬱になる。
しかし、ここを訪れると決めたのは自分だ。無理はせず、限界になる前に帰ろう。そう腹を決め、料金をちょうど支払ってタクシーを降りる。ぐるりと見渡すと、駐車場の入り口近くに店らしき建物が見える。建物があるということは冷房が効いているということだ。急ぎ足でそちらへ向かう。
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