月下の岸
葉霜雁景
月下の岸
テレビやネットが
こちらを焼き焦がさんばかりの酷暑は彼岸を境に弱まり、日中の温度を吸い取る夜中には、虫の声が転がっている。物寂しさを
人と車に気をつけながら、自分も月を見上げた。電線が額縁のように、夜空を四角く切り取っている。大きな月は
すぐに帰るのも
これも同じことを考える人はちらほらといて、数人と道を共にしながら、自分は
自分はカメラが得意じゃないのと、周囲にぶつからないかが気になったので、前を始め周りを見て歩いた。
川原に咲く一群へ視線を流していると、じっと
何となく気になって、何となく、じりじり距離を詰めてしまう。堤防の坂を下って、花を踏まないように川岸を歩く。彼岸花と月の両方を撮るべく、川岸に下りている人もいるにはいたが、自分と男性の周囲は
男性は、まだこちらには気付いていないらしい。少し老いが見えるくらいの人で、白いネクタイをしている。かっちりとした薄茶色のスーツを着ていて、自然体でも美しく、老紳士という言葉が似合うような人だった。
歳を重ねて立ち尽くす老木のような姿は、それだけでじゅうぶん絵になるから、目を惹かれたのも納得がいく。ちょっと後ろめたい気分を抱えながら、引き続きこっそり眺めていると、白いネクタイが風に揺れた。……いや、風は吹いていない。老紳士も動かないままで、
ゆらゆら、ゆらゆら。白いネクタイだけが揺れ動いている。その動きは布よりもっと
やがて、白いネクタイの正体が分かった。分かってしまった。――白い細腕が一本、男性に
「う、あっ……」
幸い、絶叫は防げた。川岸はともかく、堤防の上には人が多く歩いている。見えてしまったものの真偽を抜きにしても、急に悲鳴を上げては人目を集めてしまうし、男性に迷惑がかかってしまいかねない。
しかし、その男性には気付かれてしまった。男性は穏やかな動きでこちらを見ると、ふっと微笑んで、
途端、さっきまで怖さ一色だった胸が、申し訳無さで急激に縮むような心地がした。こちらは見知らぬ他人な上、勝手に覗き見るなんて失礼なことをしていたのに、男性は
ぐ、と。
会釈をしてくれた後、男性は目を川面へと向けていたが、こちらが歩み寄っていることに気付くと、また穏やかな動きで視線を動かした。悲しげな面影はそのまま、じっとこちらを眺めていた。
「こんばんは」
「こんばんは。……さっきは、じろじろ見ちゃって、すみませんでした」
「いえいえ、お気になさらず。でも、ありがとうございます。こうしてわざわざ謝ってくださったのは、あなたが初めてです」
にこり、老紳士の顔に笑顔と、増えた皺が刻まれる。くしゃくしゃの顔だったけれど、ほっこりして、胸が温かくなった。謝って良かったと思いつつ、これまでにも
「月が明るいと、彼女が見えてしまう人もいるんです。こちらこそ、驚かせてしまって申し訳ない」
白いネクタイだと思われた細腕は、相変わらず男性の胸に縋りついていて。男性も話しながら、握る手をほどかなかった。顔と同じく皺の目立つ男性の手と違って、呼び方からも女性と思わしき細腕の手は文字通りまっさら。皺も染みも見当たらない。
けれど、そんな手に一つ、きらりと光るものが
「この腕は、妻の腕なんです。事故に遭ってしまいましてね。左腕を、左手を綺麗に
握った手から対岸へ、男性の目が遠くを見る。月に照らし出された横顔は物悲しく、それでもやはり美しい。
「悲しくてね。私もしばらく立ち直れませんでした。それでも、何とか生きてこられました。そうしてしばらく経った頃、この腕が見えるようになったんです」
「……どれくらい、奥さんの腕と、一緒に?」
「でも、先立ってもなお一緒にいてくれるほど、私のことを好きでいてくれるとは思いませんでした。もしかすると、私が引き留めてしまって、苦しめているのかもしれませんが」
男性が
「違うって言っているみたいでしょう。私が、自分に非があるんじゃないか、なんてことを言ったり思ったりすると、こうして横に揺れるんです」
ぎゅ、と。男性の手が奥さんの手を、合図をするように握り込む。細腕はぴたりと止まったが、意思が伝わって満足したのかもと思うと、ちょっと可愛らしい気もした。
「妻の腕のことを誰かに話したのは、これが初めてです。見えたところで、近寄ってくる人まではいませんでしたから。
老紳士に縋る細腕は、動かない。肯定を示すような不動に、執念に
けれど、男性と奥さんが互いを思っていることは事実で、温かいことなのも間違いない。そんな大切なことを話してもらえて、
「……ありがとうございます。お話してくださって」
「とんでもない。こちらこそ、月見の途中に耳を傾けてくださり、ありがとうございます」
そういえば、月を見に外出したんだった。すっかり男性と細腕に気を取られて、忘れてしまっていた。
顔に出ていたのか、男性がくすりと笑う。今度は悲しい影のない、おかしいと言わんばかりの微笑。そういう笑みの方が、男性に似合っているなと思ったけど、お節介な気がしたから言わないでおいた。
男性はまだしばらくここにいるというので、それでお別れとなった。またも花を踏まないよう、堤防の上へと戻って振り返ると、男性はまだこちらを見ていた。ずっと見送ってくれていたらしい。彼岸花と一緒に月光を受けて、白く照らし出されている。
美しい老紳士に向けて、今度は自分から、ゆっくりと会釈をした。男性は奥さんの手を握ったまま、優美に会釈を返してくれた。
○
帰り道も月を堪能したからか、翌日になっても、名月の余韻は残り続けていた。テレビのニュースや、SNSに流れてくる写真のせいもあったと思う。だけど何より、昨夜の余韻を長引かせてくれていたのは、細腕を握る老紳士の姿だった。
一夜だからこそ叶った出会い、という気はしていたけれど。何となく落ち着かなくて、結局また川に向かった。堤防と川原に花の赤色は残っているが、昨夜の神秘的な雰囲気までは残っていない。
ところが。夜は無くとも、黒いスーツの一団が、彼岸花の咲く川原に集まっていた。葬列だ。骨壷らしき箱と、大きめの遺影を抱えた人も見える。
あの老紳士は、とっくに向こう岸へ渡ってしまっていたのだと。直感が全身を貫いて、そのまま足裏に杭を打った。
固まってしまったうちに、葬列が堤防の上へ戻ってくる。
一礼すると、遺族の方々も
遠ざかるバスに一礼して、
月下の岸 葉霜雁景 @skhb-3725
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