月下の岸

葉霜雁景

月下の岸

 テレビやネットがしきりに中秋の名月を報じるので、つい、浮かれ気分で外へ出た。

 こちらを焼き焦がさんばかりの酷暑は彼岸を境に弱まり、日中の温度を吸い取る夜中には、虫の声が転がっている。物寂しさをまとう秋は確実に近付いてきているが、外には人の姿が目立っていて、賑やかの一歩手前な空気が漂っていた。みんな、月を見に出てきて、いつもより存在感が強まったそれを見上げていた。

 人と車に気をつけながら、自分も月を見上げた。電線が額縁のように、夜空を四角く切り取っている。大きな月は皓々こうこうと輝いて、見惚れてしまうのも仕方がないほど綺麗で、そりゃあ昔の人も月を好きになるなと思った。現代の人ももちろん好きだろう。スマホ越しのSNSに目を落としても、上手く撮られた今夜の月の写真が流れてくるに違いない。

 すぐに帰るのも勿体もったいないので、しばらく歩くことにした。数歩進んだところで、川に出ようと思い立った。開けているから月がよく見られるだろうし、あそこにはまだ、彼岸花が咲いているはず。夜中に出会うと不気味な花ではあるが、今夜なら神秘的に見えるかもしれない。

 これも同じことを考える人はちらほらといて、数人と道を共にしながら、自分は堤防ていぼうの上へとやって来た。堤防と川原、近くに架かっている橋の上にも、結構な人影がある。三脚を構えている人もいる。やはり多くは月を見上げたり、スマホやカメラのレンズを覗き込んだりしていた。

 自分はカメラが得意じゃないのと、周囲にぶつからないかが気になったので、前を始め周りを見て歩いた。鉄紺てつこんの川面は月光にきらめき、まだ咲いている彼岸花も、白い光を静かに受け止めている。

 川原に咲く一群へ視線を流していると、じっとたたずむ人影に目が留まった。これまでざっと見てきた人々とは違って、そのたった一人に目が吸い寄せられる。すらりと背の高い男性で、こうべを垂れていた。月より、彼岸花を見ているようだった。

 何となく気になって、何となく、じりじり距離を詰めてしまう。堤防の坂を下って、花を踏まないように川岸を歩く。彼岸花と月の両方を撮るべく、川岸に下りている人もいるにはいたが、自分と男性の周囲は閑散かんさんとしていた。

 男性は、まだこちらには気付いていないらしい。少し老いが見えるくらいの人で、白いネクタイをしている。かっちりとした薄茶色のスーツを着ていて、自然体でも美しく、老紳士という言葉が似合うような人だった。

 歳を重ねて立ち尽くす老木のような姿は、それだけでじゅうぶん絵になるから、目を惹かれたのも納得がいく。ちょっと後ろめたい気分を抱えながら、引き続きこっそり眺めていると、白いネクタイが風に揺れた。……いや、風は吹いていない。老紳士も動かないままで、なびきそうなジャケットのすそもぴしり、男性の不動に寄り添っている。

 ゆらゆら、ゆらゆら。白いネクタイだけが揺れ動いている。その動きは布よりもっとなめらかで、生き物のように見えてくる。不気味で、だんだん恐ろしくなってきたけれど、目を逸らせない。

 やがて、白いネクタイの正体が分かった。分かってしまった。――白い細腕が一本、男性にすがりついている。


「う、あっ……」


 幸い、絶叫は防げた。川岸はともかく、堤防の上には人が多く歩いている。見えてしまったものの真偽を抜きにしても、急に悲鳴を上げては人目を集めてしまうし、男性に迷惑がかかってしまいかねない。

 しかし、その男性には気付かれてしまった。男性は穏やかな動きでこちらを見ると、ふっと微笑んで、会釈えしゃくをしてくれた。胸に縋りついている手を上から握って、どことなく悲しげな影をふくんだ表情で。

 途端、さっきまで怖さ一色だった胸が、申し訳無さで急激に縮むような心地がした。こちらは見知らぬ他人な上、勝手に覗き見るなんて失礼なことをしていたのに、男性は挨拶あいさつをしてくれたのだ。

 ぐ、と。つばを飲み込んで、恐怖心やら迷いやらを押し込める。再び、花を踏まないように気を付けながら、自分は老紳士の近くへと歩き出した。

 会釈をしてくれた後、男性は目を川面へと向けていたが、こちらが歩み寄っていることに気付くと、また穏やかな動きで視線を動かした。悲しげな面影はそのまま、じっとこちらを眺めていた。


「こんばんは」


 深煎ふかいり豆のコーヒーにミルクを溶かしたような声が、言葉の挨拶を描き出す。整えられた灰色の髪、しわの刻まれた優しい顔と、つぶらな瞳。間近で見ても、男性は美しい老紳士だった。


「こんばんは。……さっきは、じろじろ見ちゃって、すみませんでした」

「いえいえ、お気になさらず。でも、ありがとうございます。こうしてわざわざ謝ってくださったのは、あなたが初めてです」


 にこり、老紳士の顔に笑顔と、増えた皺が刻まれる。くしゃくしゃの顔だったけれど、ほっこりして、胸が温かくなった。謝って良かったと思いつつ、これまでにも不躾ぶしつけな視線を向けられたらしいことがうかがえて、気分がくもっていく。


「月が明るいと、彼女が見えてしまう人もいるんです。こちらこそ、驚かせてしまって申し訳ない」


 白いネクタイだと思われた細腕は、相変わらず男性の胸に縋りついていて。男性も話しながら、握る手をほどかなかった。顔と同じく皺の目立つ男性の手と違って、呼び方からも女性と思わしき細腕の手は文字通りまっさら。皺も染みも見当たらない。

 けれど、そんな手に一つ、きらりと光るものがはまっていた。指輪だ。とてもシンプルな銀色の指輪。重ねられた男性の手にも、同じものが嵌められている。


「この腕は、妻の腕なんです。事故に遭ってしまいましてね。左腕を、左手を綺麗にかばって、先にあちらへってしまいました」


 握った手から対岸へ、男性の目が遠くを見る。月に照らし出された横顔は物悲しく、それでもやはり美しい。


「悲しくてね。私もしばらく立ち直れませんでした。それでも、何とか生きてこられました。そうしてしばらく経った頃、この腕が見えるようになったんです」

「……どれくらい、奥さんの腕と、一緒に?」


 いてもいいのか少し迷ったけれど、話してくれているのなら大丈夫かもしれない。そう結論付けて差し出した問いかけは、無事「さて、どれくらいでしょうね」と応答を返してもらえた。


「でも、先立ってもなお一緒にいてくれるほど、私のことを好きでいてくれるとは思いませんでした。もしかすると、私が引き留めてしまって、苦しめているのかもしれませんが」


 男性が自嘲じちょうの笑みを浮かべた途端、静かだった細腕が大きく揺れた。まるで、首を横に振るかのように。その反応も慣れたものなのか、男性の自嘲は、柔らかだけれど悲しい笑みに戻る。


「違うって言っているみたいでしょう。私が、自分に非があるんじゃないか、なんてことを言ったり思ったりすると、こうして横に揺れるんです」


 ぎゅ、と。男性の手が奥さんの手を、合図をするように握り込む。細腕はぴたりと止まったが、意思が伝わって満足したのかもと思うと、ちょっと可愛らしい気もした。


「妻の腕のことを誰かに話したのは、これが初めてです。見えたところで、近寄ってくる人まではいませんでしたから。自惚うぬぼれを言うなら、妻が私の目移りを防いでいた、なんてこともあったのかもしれません。彼女は少し、心配性な人でもありましたから」


 老紳士に縋る細腕は、動かない。肯定を示すような不動に、執念にからんだ暗い想像がよぎってしまって、細腕の印象は怖いに逆戻りしてしまった。ごめんなさい奥さん。

 けれど、男性と奥さんが互いを思っていることは事実で、温かいことなのも間違いない。そんな大切なことを話してもらえて、ほこらしい気持ちもある。


「……ありがとうございます。お話してくださって」

「とんでもない。こちらこそ、月見の途中に耳を傾けてくださり、ありがとうございます」


 そういえば、月を見に外出したんだった。すっかり男性と細腕に気を取られて、忘れてしまっていた。

 顔に出ていたのか、男性がくすりと笑う。今度は悲しい影のない、おかしいと言わんばかりの微笑。そういう笑みの方が、男性に似合っているなと思ったけど、お節介な気がしたから言わないでおいた。

 男性はまだしばらくここにいるというので、それでお別れとなった。またも花を踏まないよう、堤防の上へと戻って振り返ると、男性はまだこちらを見ていた。ずっと見送ってくれていたらしい。彼岸花と一緒に月光を受けて、白く照らし出されている。

 美しい老紳士に向けて、今度は自分から、ゆっくりと会釈をした。男性は奥さんの手を握ったまま、優美に会釈を返してくれた。


 ○


 帰り道も月を堪能したからか、翌日になっても、名月の余韻は残り続けていた。テレビのニュースや、SNSに流れてくる写真のせいもあったと思う。だけど何より、昨夜の余韻を長引かせてくれていたのは、細腕を握る老紳士の姿だった。

 一夜だからこそ叶った出会い、という気はしていたけれど。何となく落ち着かなくて、結局また川に向かった。堤防と川原に花の赤色は残っているが、昨夜の神秘的な雰囲気までは残っていない。

 ところが。夜は無くとも、黒いスーツの一団が、彼岸花の咲く川原に集まっていた。葬列だ。骨壷らしき箱と、大きめの遺影を抱えた人も見える。

 あの老紳士は、とっくに向こう岸へ渡ってしまっていたのだと。直感が全身を貫いて、そのまま足裏に杭を打った。

 固まってしまったうちに、葬列が堤防の上へ戻ってくる。おのずと、目が遺影に吸い寄せられた。距離はあれど、だんだん近づいてくる額縁の中には、確かにあの老紳士が微笑んでいた。

 一礼すると、遺族の方々もまばらに返礼してくれる。葬列が、待機していたバスに乗って、そのバスが走り出すのも見送る。昨夜、男性がこちらを見送ってくれたように。

 遠ざかるバスに一礼して、きびすを返す。帰ったらコーヒーを淹れて、ミルクが溶けていくのを眺めながら、ゆっくり飲もうと思った。もし、また老紳士に会えることがあったら。あなたをしのんでコーヒーを飲みましたと、気障きざにも聞こえる台詞せりふを言ってしまいたいなんて、ひとり笑みをこぼしてしまった。

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