6
なぜかは分からないが、背中がやけに冷たかった。僕は携帯を眺めながら、何も見ていなかった。校門の近くで蝉が死んでいた。こうやって僕が立っているだけで動かないから蝉も動かないだけで、ひょっとしたらまだ生きているかもしれない。こんな考えも淡い期待だろうか。校庭から元気な声が聞こえる。じゃれあって水飲み場で水をかけあっているところまで想像できそうなくらいだった。僕の首筋から汗が落ちた。寒さのためか暑さのためかは分からないが、とにかくそれは地面に染みを作って瞬く間に消え失せた。いっそこんなふうに消えてしまえたら、という思いは相変わらず脳を横切る。何も待ってはいないのに、確かに何かを待っていた。待たなくてはならないような何かを、僕の運命は抱えているらしかった。「時瀬君」弱々しい声がして、反射的に振り向いた。普段だったら聞こえなかったような小さい声だ。そこには瀬名がいた。前会った時の明るさはそこになかった。前とは違う違和感を密命のように帯びて、佇んではこちらを見ている。「どうしたの」僕が問いかけると、彼女はひび割れた笑顔を取り繕った。「…あのね、変なの」「変?」「私の、彼氏」少しだけ僕の手が震えた。彼女の目の奥の瞳は霧がかかったように掠れている。「一回、どうしたらいいのか分からなくなった時があったんだ。彼が飲みたいのと違うお酒を注いで、怒られちゃった。…グラスを投げられて、おなかも蹴られた。」彼女は予測できなかったらしい。彼の異常性を、というよりも、自分自身の異常性を。仕方のないことか
もしれなかった。大人であっても判断できる人間の方が少ないだろう。「従わなきゃダメだって。従わないと、怒られたり、殴られたりするから。会うのが怖くなっちゃってさ。駅前のトイレで戻したり、帰りの電車で泣いたり、家で携帯を見てられなくなったりしちゃったんだ」彼女は辛うじて口角を上げている。ただ、もう笑ってはいなかった。声は震え始めていた。僕が泣きそうになってしまい、大きく息を吸う。「わ、私、私…」瀬名は自分で負ったあらゆる責任のために震えている。「携帯、ある?」僕の声が掠れそうになっているのを無理やりに押し込めて、瀬名が携帯を取り出すのを見る。彼女の手は握れば壊れそうで、指は細かった。端末の装飾品を丁寧
に取り外してから、彼女は僕にそれを手渡した。受け取って、僕は携帯を地面に叩きつけた。表情が止まった瀬名の前で、僕は地面にはりついたそれを思いきり踏みつけた。彼女ははっとしていたが、何も言葉を発したりせずに硬直していた。「…はい、これ」拾い上げたそれを受け取った瀬名は、困惑してそれを眺めていた。「君はこの携帯を、人混みで間違って落としたんだよ。もう使えないかもね」嫌われてもいい。僕は瀬名に興味がない。瀬名を助けたかった。細かい感情は消し飛んでしまった。こんな僕を目覚めさせたのは、この遣る瀬無さだろうか。責めさいなまれるような怒りだろうか。これまでの人生の虚無感だろうか。一生社会にそぐわないことを自覚してしまったからだろうか。踏みつけたときの液晶に映る自分の顔は、血液の通っていないような、喪失した顔をしていた。肩に何も背負っていなかった。瀬名は震えていた。目が潤んで、声が出ていなかった。「ごめんね」僕がそう言っても、反応はない。僕はまた校門の方を向いて歩き出そうとした。「待って」ワイシャツの裾を掴まれている感覚が背中を伝って脳を刺激する。「家、同じ方向だったよね」「うん」「…一緒に帰ってくれるかな」「分かったよ」振り向くのは辛かった。彼女の苦悩は彼女にとっては恒星の質量に値するほど重いものだろう。真後ろから、瀬名のすすり泣く微かな吐息が零れて僕の背に触れ、そのたびに骨が割れそうな冷たさが五臓六腑にまで染み入る。もう蝉の鳴き声は聞こえない。汗ばんだ左手に、真っ白な右手の甲が触れた。瀬名は俯いて隣を歩いている。短い髪の隙間では機械的で動物的な呼吸が揺れている。そこには幸福感も、利害もない。山の頂の清澄な流れが、麓で砂利を転がすような自然な成り行きが漂うばかりだ。雲一つない青空が広がっているせいで、強すぎてひりつく太陽の光を阻むものは何もない。「ごめんね」瀬名が零す。「僕は構わないよ」彼女に謝罪されるようなことは何一つしていないのに誤らせてしまったようで、少し心苦しい。「わがままだよね、私って」「…そうなの?僕が君をそうだと思ったことはないよ」それを聞いて彼女は黙した。喋らない瀬名は大人びていて、それでいてあどけなくて、ただそこにいた。整った顔は、声を押し殺して流した涙のせいもあって赤くなっていた。毛虫が足元を這っていた。僕はそれに気づかずに踏みつぶしてしまい、黒い体液が進行方向に勢いよくぴゅっと飛び出した。瀬名の体が強張った。僕は気が付かないふりをして歩き続け、瀬名もまた、僕の状態をなんとか無視して汗を垂らしながら歩いていた。
短編-毛虫 虚言挫折 @kyogenzasetuover
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