5
放課後の教室でなんとなく座り込んでいると、廊下側が急に慌ただしくなり始めた。教科書を開いてその様子をぼうっと聞いていたが、はっきりとは聞こえない。些細な事であるはずなのに、やけに僕の心を惹いた。「はい、わかりました」その声で僕は弾かれたように廊下を見た。安藤だった。相変わらずぞくぞくして心が硬直する。今日は待つことに決めた。聞きたいこともあった。僕は今、人間で興味の対象となる相手が安藤しかいなかったのだ。幾億年にも思えた時間の流れがようやく過ぎたところで、足音が聞こえた。外を見ると、彼だった。向こうから神崎の喚き声が聞こえてくるが、彼は意に介さぬ様子で教室の前を通り過ぎようとしている。「安藤君」彼がするりとこちらを向く。「どうしたの」「聞きたいことがあるんだけど、ちょっといいかな」「いいよ」安藤は僕の目の前の席に座って、細くて硬そうな腕と肋骨を背もたれに置いた。彼は驚くほど綺麗だった。夕陽のせいかもしれない。「あの、この写真って知ってる?」僕は携帯の画面に例の写真を表示した。「うん。僕が撮って君に送ったんだ」どうして、と僕が問う前に安藤は言葉を繋げる。「君は変わっているし、普通でもある。だからきっかけを用意したんだ。これは神崎に蹴られながら撮ったんだ」「蹴られながら…?」「うん」その表情は鋼のように動かない。しかし、背後に穏やかさを湛えているらしかった。その深さは相変わらず僕に何の情報もよこさない。「…君には、話したいことがあるんだ。今まで君みたいな人には会ったことがないから」神聖さを帯びたその語り口調には、人を引き付けて離さない何かがあった。本当にいじめを受けている人間なのだろうかと疑問すら抱くほどだ。「この教室の隅の棚の上にある花瓶がなくなっているのが分かるかな」僕がそっちを見ると、確かにそれは消えていた。「今朝、花瓶で神崎を殴ったんだ。今までは僕のことだけを攻撃してきたから、我慢できたんだ。そんなやつにどうされたって、僕の本質的な部分に傷はつかないから。でも、今朝は僕の母親を馬鹿にしてきたから、衝動的に殴ったんだ。」彼は細く鋭い、それでいて折れやすい針に見えた。「皆がびっくりしてたのを見て、僕は誰にも僕を見られていなかったことに気づいたんだ。子供じみた感傷ではあったけど、やっぱり少し寂しかったかな。」意外だった。しかし、それも当然だ。僕は安藤を見ていたわけではない。彼から発せられる潜在的な狂気を観察していたにすぎなかったのだ。「僕と僕の母は、父親だった男に逃げられたんだ。母は自分一人では歩けなくて、それでも僕を養わなければならない。働ける場所はどこにもなかったから、結局自分の体を売ったんだ。そこから精神まで蝕まれて、今は昼ご飯を食べられるか否かくらいの生活をしてる。」心臓が輪ゴムで括られているような苦しみが、骨にまで染みわたっていた。彼の考えを理解できる人間は、僕ではないような気もしていた。自分の無力に恥ずかしさすらも覚えた。「この間の朝会で言われ
た、五番通りでうろついていた生徒っていうのは、多分僕のことだ。母の迎えに行っていたんだよ。でもね、それが心外なんだ。僕に責められる理由があったのは確かだけれど、そこに出向くことまでもが罪だと、そこに住む人までも悪人だと決定したような口調で、偏見をもとにしてつつかれるのは我慢ならない。誇りをもってあそこに暮らす人だっている。住みたくないけれど住んでいる人だっている。僕を攻撃していい理由になっても、住む人まで外道と決めるのは犬畜生にも劣る判断だ。物わかりの悪い子供と言われてしまえばそれまでだけど、それでも納得できない理由があるんだ。やっぱり、許すことはできないよ」安藤の表情には、なにか慈悲のような感情が、それも人の苦しみを知った上でなおも誰かの安寧を願う気持ちが、微かに表れていた。彼は他人のためなら傷ついてしまえるし、いくらでも残酷になれるのだ。どれだけの年月を無為に重ねたとしても、誰も彼のようにはなれないだろう。彼は自ら狂った。培われた他人への敬虔を材料にした。きっと彼はそれを誇るだろうが、周囲にはもう理解されないに違いなかった。「僕が苦しんでもいい。でも、僕を苦しめるのは簡単だ。簡単であるがゆえに、僕を苦しめた人は誤解して、過信するんだ。自分の能力とか、正義とか、魂の崇高なことを。その人はその時点で、自分が何者にもなれないことを身をもって証明してしまうんだろうね。自分でも気づかないうちに」彼の精一杯の皮肉は、嘘や夢幻のように暑い空気に溶けた。安藤は、彼より間違った生き物たちに蹴られることを容認するが、自分以外を蹴られるのはひどく苦手だったのだ。「…ありがとうね。こんな話聞いてもらって」彼は笑った。忘れられないくらいに悲しい顔をしていたせいで、僕が泣きそうになった。「いいよ。君が苦しんでいる間、僕は何もできなかったんだから、話したいんだったらいくらでも聞くよ」その日、僕たちは一緒に帰った。明日も帰ろう、と言ったら、安藤は首を横に振って、自分が退学になったと話した。
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