瀬名に呼び出されて、僕は表通りの喫茶店の片隅の席に座っていた。あまりにも唐突な要求だったため、ろくすっぽ準備もしないままでここまで来てしまった。冷房が効きすぎている。僕に肉や脂肪が足りていないせいかもしれなかったが、寒すぎるくらいだった。何の用事かは勿論理解できるはずもない。店内に流れる音楽は、僕の趣味とはまるで正反対の洋楽で、シンセリードと潰れたキックが喧しすぎた。既に氷だけになったアイスコーヒーをストローで突っつきまわしていると、ドアが開いて光の差し込み方が変わった。時間通りだ。瀬名は、妙に色気のある、派手な格好をしていた。真っ黒い鞄は妙に小さく見える。「遅れちゃったかな」「そんなことないけど」ならよかった、と屈託のない笑みを浮かべた。なるほど、確かに皆が慕いたくなるわけだ。どこか抜けているような気がするが、大人びてもいる。思考の部分はきっと年齢相応のもので構築されているはずだ。しかし、それ以上に強烈な違和感を発していたせいで、ストローを弄ぶ僕の手の動きは止まってしまった。それが何なのかはまだ見えてきそうにない。「で、何の用?」嫌な予感がする。とっとと帰ってしまいたいという気持ちを押し殺せずに質問する。「まあまあ、そんなに焦らないでよ。用事はないんでしょ?」「ないよ」「それじゃあ、もう少しゆっくりしてから本題に入ってもいいじゃない」「そうだね」瀬名はカプチーノを注文し終えると、僕にいくつかの質問を投げかけてきた。趣味や成績、自分のことをどう思っているのかなど。僕の答えは芳しいものではなかったということだけは断言できる。店員が注文の品を運んできた後、彼女はそれに口をつけないままで新しい問いを僕に投げかけた。「時瀬くんってさ、今のクラス楽しいの?」「楽しいよ。誰も僕に関心がないから、楽」「そうなの?寂しくない?」「思ってたよりも寂しくない」彼女の目は、僕が彼女にとって「当たり」の物件であることを正直に示していた。人の上に立つ人が持つ独特の所有欲は見て取れない。僕が異常者であるということに惹かれているらしかった。「僕は僕の不幸を貪り食っては再生産する馬鹿なんだよ。多分、人と何かをすることはできないよ」溜息混じりに感想を吐き出したが、彼女はきょとんとしている。今まで何か

を問われるたびに、自分の積み上げてきた防波堤の高さと向き合うことになるせいで、そこから逃避することが癖になっていた。彼女に関しては、相変わらず何の興味も湧いてこなかった。異性と会話したことなどなかったので、無論緊張はしているが、せいぜいそれまでだった。僕と会っているのが周囲に知られて損になるのは瀬名の方だ。「実はねえ、君を呼んだ理由は興味なんだ。ほら、君ってあんまり喋らないし、人とも関わらないし、でも聞かれたことにははっきり答えるでしょう。それが不思議で」その声は甘かった。確かに僕に触れようとはしてくれているらしく、それはやはり人並みにありがたいことではあったが、僕がいくら彼女の前で自分をさらけ出したとしても、仮にこの場で全裸になったとしても、彼女は僕に触れることすらもままならないだろう。それは優劣などという考慮にも値しない要因のためではなく、根本的な性質に決定的な相違が存在するためである。僕は僕の不安を見つめることを選び、瀬名は彼女の不安を封殺することを選んだのだ。ただ違うだけだ。しかしそれはそのまま、我々の間にある空間を激流でもって引き裂く大河となった。「単に違うことが、そんなに変わって見える?」「まあね。少なくとも私には」「僕は違って当たり前だと思ってる。そこからすでに違うんだろうね」しばらく会話して、彼女は自分の時計を見た。「そろそろかな」「どこか出かけるの?」「うん。誰にも言ってなかったけど、私ね、彼氏がいるんだ」「そうなんだ」「お金、くれるの」「え」水素が

爆ぜるような、衝撃的な可能性が一気に頭蓋骨の中身を埋め尽くしてゆく。「私たちの間では当たり前だよ。彼と私、相性がいいみたいで、いつも彼は気持ちいいって言ってくれるんだ」「やめとけ」恐怖心は暴発する。口から飛び出た言葉は通常より震えていたが、通常より小さかったせいで、キックにかき消された。その彼という男と肉体関係を持ったことは確かなようだ。「え?何か言った?」瀬名がこんなにも違和感を抱えている理由がようやく分かった。知らなければよかった。瀬名は軽すぎるのだ。まるで紙細工のように、吹けば飛ぶしきっかけ一つでくしゃくしゃになる。インスタントな信頼を築くことによって生まれる相手と自分との感覚や意識の違いが、どれだけ自分の心臓を焼くかということを理解していない。「呼んでおいてごめんね。

また話そうね」瀬名は風のように去っていく。僕はどうしても呼び止めることができなかった、というよりも喉が渇ききっていたせいで声が声にならなかった。机の上の小銭が跳ね返す光を解けかけの氷が曲げてしまっていた。震えが止まらなかった。

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