学年集会のために、僕らは体育館に移動しようとしていた。息苦しい気配だけが周囲を満たしてゆく。誰かのため息や、気だるげな足音のせいで、暑さは最高潮に達しているかに思えた。脳の裏側が重い。体には重力と浮力が一斉に働いているような矛盾した感覚が波のように押し寄せては潰れてゆく。前方で女子生徒の悲鳴が聞こえた。「虫!虫!」と叫んでいる。虫に対して好き嫌いのない男子生徒に馬鹿にされながらも、その声は前のほうに押し流されていった。そこでは蝉が死んでいて、起き上がりそうになかった。蟻が何匹か、その周りを囲んでいる。蝉は彼らの栄養分になるだろう。虫が嫌いとか、害虫、猛獣だなんてのは結局、人間にとってだけ適応される

もので、他の動物からすれば肥沃な土に建てられたビルや護岸工事を施された川や下水は迷惑以外の何物でもない。普通だったらそんなことは考えないはずだが、僕はなぜか考える。考え、ひたすら小さくなる。というより、小ささを実感する。踏まないようにそっとその屍を避けた直後、背後でばりっと音がしたが、振り返ることが出来るほどの勇気はなかった。体育館は煮られた鍋の内側よりも暑く、生徒全員が扇風機の近くの教職員を恨めしそうに眺めていた。暑いですね、昨日は散々でした、あれはどうなりましたなどという声がぼそぼそと聞こえ、舞台の前に学年主任がマイクを持って立った時もその声は途切れなかった。汗が落ちて目にしみ込む。痛みがじわじわと広がるのを必死で我慢するが、先生の話は耳に入っては通り過ぎる。「最後に、五番通りに本校の生徒がいるとの目撃情報を受けている。言うまでもないが、五番通りは治安がいいとは言えない。心して、そういう場所には近づかないようにして過ごしてもらいたい」チャイムが鳴る。また木から蝉が落ちるような不安に駆られた。安藤は神崎に蹴られていた。それが習慣化していることに嫌気がさしてしまった。生徒はぞろぞろと体育館を離れ、寒気がするほど冷やされた教室に帰ってゆく。「なあ時瀬、そう思うだろ?」神崎がいきなり僕に問いかける。「何」「お前も、安藤が五番通りにいた奴だと思うよな?」「五番通り?何それ」「…知らねーのかよ、んじゃいいわ」明らかに冷めた様子で、神崎は安藤に何か話しかける。安藤が一瞬だけ、ふっとこちらを向いた。あまりにも感情のないその視線に急に貫かれ、すべての暑さが吹き飛んだ。決して愚かな人間のそれではない。けれど、僕には何を考えているのか分からない。あまりにも深くて、底が見えない。そういう暗さだった。少し時間が経って、冷や汗がだらりと背中を覆った。宇宙や天体について調べているときと同じような、未曽有の領域に踏み込んでしまったのではないか。彼は蹴られていたが、神崎が心配になってきた。そのうち殺されたりはしないだろうか。水分が欲しい。体の芯まで凍てつかせるほど冷たくて透明な水を浴びるか、飲み干してしまいたい。足取りは帰路でも重いままだった。心を占有する奇妙な違和感が、錆びのように突き刺さって離れない。いつにもまして荷物が重い。蝉が啼いている。せめて死ぬなら満足して、虐げられることのないようにと願うだけだ。かえってシャワーを浴びたらすぐ、家族とともに外に出かけることになった。晩御飯を食べに行くらしい。食欲が湧くかどうか怪しいところだが、時間が解決してくれることを願うしかない。買って三年にもなるのに未だに新車の匂いが抜けない、僕の大嫌いな自家用車に乗り込んで、死にかけているかのように後部座席にもたれかかる。父の「昔はこの辺りは危なかった」というぼやきで身を起こすと、そこは五番通りだった。歓楽街だとか、けばけばしい看板だとかのせいで、今も怪しい気配は漂い続けている。母はなんとなしに外を見ているようだった。僕もまた、何の目的もなく、疚しさを掻き消そうとするような外の光の群れを眺めていた。一瞬、安藤が見えた。気だるさが瞬間的な衝撃の刃に貫かれてその命を落としてゆく。声をあげそうになって押し殺す。こっちを見ていただろうか。あまりにも一瞬の出来事だったので、顔は確認できなかったが、あんな雰囲気を纏っているのは彼以外ない。見間違いであってほしいと必死に願ったが、直感を信じるならばその可能性はほぼなかった。家族は誰も僕の驚きに気づいていない。それがまだ救いだった。朝、神崎の問いかけに対して知らないふりをしたことが悔やまれた。僕は安藤をあまりにも知らない。いや、彼の家族ですらも彼を理解できはしないだろう。なぜあんな所にいたのだろう。しかし、踏み込んではいけないような気もする。怖いもの見たさすらも震えあがって、心の隅でその名を呼ばれないことに心血を注いでいる。その日は決定的にすべてが覆った日だった。その表情を忘れることはないだろう。

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