校舎内には気だるさを含んだ熱気が充満していた。空気は不健康を助長して、理不尽な天候を神様のように崇めている。下駄箱の周りで漂い蠢く、人の汚さまでも象徴するような異臭に鼻をつまみ、僕は錆びついて開きにくい下駄箱から黒ずんだ上履きを取り出した。ここまで近寄りがたい場所は、この校舎内にあと数か所くらいしかない。誰よりも早く到着して、三階の教室の扇風機のスイッチを押す。どう頑張ったところで、結局熱気は冷えたりしないし、蝉の声も扇風機の音も朝に練習する吹奏楽部のチューニングの音も耳に刺さっては煩いだけだ。血液の水分が吹き飛んで、赤くかさかさした血球の残り滓しか血管に残らなくてもおかしくないほどの暑さだった。昨晩もこの暑さに悩まされてあまり眠れなかった。僕はうつ伏せになって、少しでも睡眠欲を掻き消そうと空しい努力を続けたが、思考はむやみに早く巡り、一瞬の休息も許さない。そういえば、昨日の僕の写真は結局誰が送ってきたのだろう。約一名、心当たりはあるが、動機がない。僕と関わることにメリットを感じる人間はいないはずだ。ただそれだけが、放課後の楽しみだった。当然、そこには不安も同居している。余生が無為に終わることを避けたいはずが、体はこの状況をとっくに了承してしまっている。ただ首だけを振りながら、火口までの線路を進む列車に乗っていた。自暴自棄にも近い感覚や気だるさが体中を駆け回るが、そこに一切僕の意思は関与していない。それが少し怖い。膨大なネットワークを形成する体内の神経が、動物的な本能に支配されてしまうことは、人間としての自律を失うものではないか。どれだけ脊髄反射で放った言葉が大音声となって響き渡ろうとも、理性の監視のない言論に価値があるのか。自由と制限が同居するように、本心は理性なくしては存在しえないのではないだろうか。僕は突っ伏したままであたりの机を見回した。二つ左に、彼の机があった。「安藤」と小さく書かれた、背もたれに貼られたシールはもうズタズタだ。多分中はぐしゃぐしゃの紙切れや泥や石ころ、一つも縁がないのに罪状をでっち上げようとして誰かが忍び込ませたタバコの吸い殻が詰まっているだろう。目にそれらが見えてしまい、疎ましく思いながらも僕は自分の鞄の中からビニール袋を取り出して立ち上がり、机の中身を床に散らかす。有用そうなプリント以外は全て袋に詰め込み、一階の校舎裏のごみ置き場に捨てた。管理員の人がぶつくさ言いながらも捨ててくれるはずだ。再び戻ってきたときには、机の足元の散らかり以外は綺麗になっていた。彼に関わる全ての人は哀れだった。彼を攻撃する者は結局、そういった手段でしか自分の優位を確認することが出来ない。それは相対的であっても絶対的ではなく、いざ自分が攻撃される段になればなんの抵抗もできずただ散るだけで終いだ。彼を無視する者は、自分の無力を生涯その記憶に刻み付けることになる。本来背負わずともよい負い目を引きずるのは、心地いいとは言えない。彼に唯一関係ないのは、右から三番目の列の最後尾の彼女だけだ。苗字すらも覚えていなかったので、誰もいないのをいい

ことに椅子の背もたれを見に行く。「瀬名」とある。多分今が、人生で最も彼女に興味を持った瞬間だろう。どういう人かは知らないが、まあ多分人気者なのだろう、休み時間にはいつも人が集まっている。僕だったらとっくに自害している。僕は誰かの満足のために生きてゆく力はないが、人間の持つ、人に頼らなくては生きていけない性質を例外なく持ち合わせていたために誰かを満たさなくてはならない。誰かのために生きてゆく力がないということから目を背けること、即ち弱者として一方的な感傷を抱かないことが成人なら、僕は十九で死ぬべきなのだろう。それこそ、僕の意思とは関係なく、義務的に。退屈を紛らわせるために、僕は教室中の椅子の背もたれを見て回った。彼を攻撃する主犯格の「神崎」、その横でニヤニヤしながら事の顛末を眺める「斎藤」、時々後ろから苦々しい表情で神崎や彼を見る「田崎」、短い黒髪で、誰かに対して熱烈な恋心を抱いている様子の「吉江」…。全部の名前が気持ち悪いものに見えてきたが、自分の背もたれのシールを見るのは一番苦痛で、結局見ることが出来ないままだった。時計を見ても、まだ登校して十分しか経っていない。バスの本数が少ないせいで、極端に早いバスに乗っておかないと次がないのだ。扇風機などでは凌げないほど暑い。汗が滲みだすシャツは机の上にうっすらと跡を残した。僕にはもうすることがない。ただ放課後を待つだけだ。水筒のお茶も無駄にはできない。この後は多分、もっと暑くなる。山の向こうから、微かにオレンジ色を纏った太陽が覗いている。ずっとあの太陽に見張られながら、炎天下の登下校を終え、さらに教室での暑さのために全身が気化しようとしている。携帯の画面を見た。例の画像が表示されっぱなしだったので、急いで閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る