心継屋 ーしんつぎやー
結城光流
犬のかたちにあいた穴
犬を見送ってから、心に穴があいたよう。
犬のかたちにあいた穴。
この穴はきっと、犬でしか埋まらない。
けれどもたぶんこの穴は、あの子でないと埋まらない。
◇ ◇ ◇
犬の心にも主のかたちの穴があく。
主と離れる悲しみと寂しさで、大きな大きな穴があく。
「ぼく、あの虹の橋を渡っていいと、橋の支配人さんに言われたんです」
犬は、考え込むようにうつむいた。
「……渡っていいけど、渡らないで待つこともできる、とも言われました」
お座りの姿勢で首を傾けた犬。
「それから支配人さんは、ぼくの胸のところを見て、ここに行くように言ったんです」
そうっと顔を上げた犬は、不安そうに瞬きをする。
「……あの、これ、見えますか?」
犬の鼻が示したのは、ふさふさの毛に覆われた胸のところ。その奥にある心にぽっかりとあいた、不思議なかたちの真っ黒な穴だ。
「橋を渡るには、この穴を埋めないといけないと聞きました」
それまでずっと犬の話を聞いていた青年は、そこでようやく口を開いた。
「そうだね。穴があいたままだと橋の途中で動けなくなったり、最悪落ちたりもする」
その言葉に、犬はうなだれる。
「支配人さんが、橋を渡るなら、ここで、穴を埋めて
犬は迷っているように眉を曇らせる。
「
顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた
その胸にあいた穴。
あの穴を開けてしまったのは自分で。
それがとてもつらくて、もう一緒にいられないことが悲しくて、だからこの心にも穴があいた。
「ぼくのかたちをした穴…。ぼくは、お姉ちゃんのところに帰らないと」
橋を渡れば、橋の先で別の毛皮に着替えて、もう一度主と出会えるチャンスをもらえる。
大事なものと引き換えに。
「だけど……。ぼくのこの穴を埋めるには、お姉ちゃんのことも、ぼく自身のことも、全部忘れないといけないって、支配人さんから聞いて……。あの、本当に、だめですか。忘れないと、埋められないんですか」
大好きな大好きな主のことを忘れるなんて、主と離れるよりつらい。
「残念だけど、そう」
「……」
犬は絶望したように息を詰める。
青年は腕を組んで首を傾けた。
「まぁ、渡らなくても…。あの虹の橋のたもとで主が来るのを待つこともできるし」
主のかたちにあいた穴は、その人生に幕を引いた主が迎えにくると埋まる。懐かしい腕に飛び込んで、思い切り抱きしめられて撫でられると埋まるのだ。
だから橋のたもとには、主が来るのをじっと待っている生きものたちがたくさんいる。
そこにいる生きものたちは、犬も、猫も、うさぎも、鳥も。みんな、胸に主のかたちの穴があいている。
しばらくの間、犬は黙り込んだままだった。
青年は、壁一面の大きな
小さな引き出しがたくさんある箪笥は、奥の部屋にもその奥の部屋にもずらりと並んでいる。
青年のすぐ脇にも小引き出しが置かれている。これは仕事道具のしまい場所だ。
「……」
ずっと微動だにしなかった犬は、ぐっと
「……お姉ちゃんが迎えにきてくれるのは、たぶん、まだまだ先で」
ひとの生は長い。犬よりずっと。ここで待ちつづけるには、長すぎると思ってしまうくらいに。
「……ぼくは…ぼくが、お姉ちゃんに、会いたい」
犬は震えながら声を振り絞った。
本当は、忘れたくないけれども。
待ちつづけるよりも。
忘れても、もう一度会いたい。
心の穴を埋めて橋を渡れば、主の生きている世界にまた行ける。
別の毛皮になって、大きさも鳴き声も変わって。
主は気づいてくれないかもしれない。それでも。
もう一度会いたい。もう一度撫でてもらいたい。もう一度名前を呼んでもらいたい。
瞼をあげた犬は、青年に深々と頭を下げる。
「この穴を、埋めてください。お願いします」
「引き受けた」
青年は立ち上がり、百味箪笥の端から二列目、下から四段目の引き出しをあけた。
引き出しの中から出したのは白い布の包みと白い小瓶だ。
犬の前に戻ってきた青年は、床に布を敷き、小引き出しから小刀やへら、筆を取りだして並べた。
百味箪笥から持ってきた布包みの中は、犬の形をした白い板のようなものだった。
「それは……?」
怪訝そうに尋ねる犬に、青年は板のサイズや感触を確かめながら答えた。
「きみの主の想いのカケラだよ」
「おもいのかけら…?」
青年は小瓶を示す。
「こっちに入っているのは、言の葉の
目を瞠る犬に、青年は説明する。
「ひとの世には、欠けた器を修復する「
金継。
欠けた器のカケラを
「やり方はそれと同じだな。ここでは心の穴に想いのカケラをはめて、言の葉の雫で継ぎ合わせる。最後に、きみの記憶…思い出を、継ぎ目にまぶす」
その技法を「
「ちゃんと継ぎ合わせるには、思い出が全部必要なんだ」
伴侶として愛された生きものが虹の橋のたもとに来ると、たくさんある百味箪笥の空いている引き出しに、主の想いのカケラと言の葉の雫が宿る。
使われなければそれらは消えて引き出しはまたからになる。
想いのカケラは、主が伴侶に注いだ惜しみない愛情。
言の葉の雫は、主が伴侶にかけた言葉。
――いい子
――可愛い
――大好き
「……」
犬の目に涙がにじむ。
「忘れても消えるわけじゃない。心にはちゃんと残ってる。それに、別の毛皮に着替えても、継いだカケラはそのままらしい」
何も言わない犬を見て、青年は苦笑する。
虹の橋のたもとにきた生きものたちは、ひとのように言葉を話し、ひとのように泣く。
いま、ぽろぽろと涙をこぼして嗚咽を必死に押し殺している、この犬のように。
「さて、始めようか」
まずはカケラを、犬の心にあいた穴にぴったり合わせるために削るのだ。
◇ ◇ ◇
犬を見送ってから、いくつかの季節がめぐった。
以前ほど泣くことはなくなり、食べることも眠ることもできるようになった。
けれども、心の穴はぽっかりあいたままだ。
休日の昼下がり、まるで何かに導かれたように、気づけばショッピングモールのペットショップの近くにいた。
たくさんの子猫や子犬がいて、店員が客の相手をしている。
犬をまともに見るのは久しぶりだった。見ると泣いてしまうから、ずっと目に入れないようにしていた。
可愛いなと思った。
子犬は子犬というだけで可愛い。どの子も可愛い。
可愛いと思う。それだけ。
可愛いけれどもあの子ではない。
ため息をついて踵を返したとき、視界をかすめた毛並みにどうしてか足が止まった。
目が合った。
ひとが集まっているケージから少し離れたところにいる、かなり育った、子犬とはもはや呼べないサイズの犬。
じっと見上げてくるその犬。
「…………」
毛色も姿も、何もかも違う。
あの子ではない。
でも、――この子だ。
この子が、心にあいたままの穴を埋めて、継いでくれる。
根拠もなくそう確信した。
近くを店員が通る。
考えるより先に口が動いていた。
「すみません、この子を…」
初めて出会った瞬間にわかった。
このひとだ。
なぜかわからない。わからなくてもわかった。
また会えた。やっと会えた。
「さぁ、一緒にうちに帰ろう」
のばされた手が懐かしくて、震えるほど嬉しくて。
たとえ忘れてしまっても、たとえ毛皮が変わっても。
消えてしまうわけじゃない。
継いだ心に、残っている。
心継屋 ーしんつぎやー 結城光流 @yukimitsuru
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