聖餐

桑野健人

聖餐

 深い緑がさらに色濃く覆い被さる赤土のピントゥーラス渓谷をまだ幼い娘と歩いている。空は孤独な晴天で雲たちは未だに眠っている。世界が一つの国になって、未曽有の世界難こくなんを克服した後にも、その後遺症は娘にも刻まれている。だからこの地をと呼んでも、娘は愛らしく首を傾げるだろう。けれど、わたしはそう呼びたいのだ。

 娘がぎゅっとわたしの手を握りしめ、洞窟のなかに入る。洞窟のなかは静謐で、ふとわたしはあの頃のことを思い出す。



あの頃を思い出したい?



嫌な記憶。けれどわたしはそれを思い出すためにここに来たのだ。暫く歩いたのち、蛍のようなぼんやりとした光が洞窟の奥に潜んでいる。それは言葉には表し難い威厳に満ちている。あの人の言葉を借りるなら、

 壁面に敷き詰められ、様々な塗料で陽光をも想起させる、美しい手形たち。わたし達は息をのんだ。近づいて、実際に手形に触れてみる。ひんやりとした、それでいて温かい古代人の精神がわたしの身体に流れ込んでいく。懐かしい感覚だった。

「ママ、きれいだね」

わたしは黙って延々と続く手形の波を追っていった。

「どうしてたくさんおててがあるん?ママ」

娘は天井をあわや転んでしまいそうな姿勢で、宝石を想起させる無垢で美しい瞳をめいいっぱい見開いて、尋ねてきた。暫く考えたあと、わたしは言った。

「これが造られたのはね、あなたが生まれるずっと昔、言葉もなかった時代なの」

「ばらばらことばのころ?」

「いいえ。それよりももっと昔の話。人たちは狩りに出かけたり、木の実を取ったりして暮らしていたの。けれど昔の人たちはまだ力をもっていなかったから、動物に食べられたり、若くして病気で死んでしまったりしちゃったの」

「、、かなしいね」

「昔の人たちも、そう思ったの。自分の大切な家族や友達が突然いなくなってしまうんですもの。けれど、言葉もない時代、ましてペンも紙も手向ける花もない時代。彼らがいた痕跡は一切残せない。それってとっても悲しいと思わない?」

「うん。とってもとってもかなしいね」

「だから人たちは指を落として、その痛みとともに手形として洞窟に残した。そうすればずっと後の時代になっても、わたしたちに大切な人に対する思いや記憶が伝わるでしょ?」

「ママとおんなじだね」

わたしは肯いた。今でもわたしは小指の欠けた手を見れば思い出す。あの人のことを。あの人だけじゃない。犠牲になったすべての仲間たちが欠けた小指となってこの世界にカタチを残してきたのだ。それはすべてを肯定する。あなたは確かにここにいた。あなたが生きることは無駄ではなく、あなたが死ぬことも無駄じゃない、と。わたしは冷えた壁面の手形たちに頬をあて、懐かしいあの人の名前を、いつまでも循環する時に生きるわたしたちへ呼びかける。

先生ラビ、愛してる」

と。








「よくよく私はあなたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死なない限り、それは一粒のままだ。だが、死んだのであれば、それは多くの実を結ぶ」

                     「ヨハネによる福音書」第12章24節









「あなたは、カミ様の言うことが正しいと思う?」

すべてが白く静謐な部屋のなか、わたしの対角線上にいた彼女がおもむろにわたしに問いかけてきた。白いガウンを着せられた彼女の、息をのむ美しい黒髪は長く、絶対的な抱擁を拒絶するようだった。

「聖書の神様のこと?」

「いいえ。私たちのこと」

わたしはのこと、どこまでも清純なこの部屋に隔離され、カミに饗されることを言っているのだ、と了解した。わたしは考えるふりをしながら実際にはとうの昔に結論が出ていることを言うべきかどうか悩んでいた。あたりまえの話だった、この場所にわたしたちの代表、つまりとして選ばれたときから、それを考えない日は一日たりともなかったから。





 そう遠くない昔、カミは地上に降りてきて言った、

「汝らはなぜ自らを殺めるのか?この世界で自らを殺めるものは汝らだけだ」

わたしたちの仲間、途方もないくらい賢い仲間が結集して解を導き出そうとしたけれど結局カミを納得させることは出来なかった、あらゆる動物を使って実験を繰り返しもしたのに。カミはまた言った、

「汝らは進化しすぎたのだ、それ故に汝らは捕食される権利を奪われたのだ。だから汝らは自らで自らを除去せざるを得なくなったのだ、それは苦しかろう」

カミは善意だとか悪意だとか、そういうのを持たないのだろうとわたしは思う。その日からカミは饗宴を開き、任意のわたしたちを捕食することにしたのだった。救済だ、カミは言った。住んでいた教会にが届けられ(それが生贄のための召集令状だった)、わたしが選ばれたとき、周りの皆は随分騒いで、あるものはわたしのために泣いてくれたし、あるものはわたしのために怒ってくれた。けれどわたし自身は不思議と怖ろしくなく、一欠片の寂しさの他は幸せで満たされていた。怒ることも泣くことも筋違いだと思った。それはなぜ?キャンバスに垂らされた異物の寂しさはなぜ?





「わたしはカミ様の言うことを信じてるよ」

わたしは対角線上の彼女に言った。わたしがこの部屋に隔離されたときから、彼女は壁に向かって寝そべっていたので、どんな顔をしているかわからない。けれど、どうしてだろう、彼女はわたしの発言に怒るだろうなと思った。わたしは醜く言葉を補って空虚な弁解を行う。

「わたしたちはひとりぼっちに耐えられないんだよ。この世界のあらゆる動物や植物を殺したり、伐採し続けてひとりぼっちになってしまったわたしたちをカミ様は連環に戻そうとしてくれていると思う」

「ほんとうにそう思う?あなたは、私たちみたいなちっぽけな存在が、一日二回仲間が殺されるだけで先祖から受け継いできた罪過を贖うことが出来ると思うの?」

透き通った声を幾分強めて彼女は言った。言ったあとの彼女の肩は微かに上下していたように思う。わたしは少し戸惑ったけれど、無理もないと思った。彼女は今日殺されてしまうのだ、一日猶予があるわたしとは違うのだ。わたしは入れ違いで部屋から出ていった少女のことを思った。その少女は小指がないかわりに、から鮮やかな血を流していた。

「またね」

少女はあったこともないわたしにそう言って部屋を出ていった。血痕はすぐさま除去されて静寂が戻った。





「どうしてみんな、死んじゃうの?」

彼女の声は震えていた。わたしは自分の死ぬ姿を考えてみた。けれどどことなく靄がかかっていて、先は見えなかった。自分が死ぬことを想像することが出来ないからじゃないか、わたしは彼女にそう言いたかったけれど、彼女に問いかけられたわけでもなさそうだったので、わたしの口は開かれなかった。長い沈黙が続いた。それは時間的に考えたら5分くらいの短いものなんだろうけれど、わたしは無限に沈黙が続くんじゃないかと思った、っていえばありきたりな表現だけど、それでいかな?だって彼女が殺されることはないんだから。




どうして?彼女が殺されなかったら、自分が死ななかったら、いことなの?




「あなたが死ぬこと、それは名誉なことです。わたしたちを代表して贖罪すること、あなたの生涯にカミの糧になるという意味が与えられたこと。それは素晴らしいことだと思わないですか?」

教誨室で逢った初老の使徒は柔和な笑みを浮かべてそういった。彼?は持っていた梓の杖で厳粛に床を二度叩いた。その振動はわたしの耳を激しく揺さぶった。初めてわたしの心になにかが芽生えた気がした。わたしはもしかすると、途轍もなく取り返しのつかない場所にいるのではないだろうか?わたしはいや、そうは思わないと言わなければならないのではないか?けれどわたしはたちあがる。

「わたしはカミ様の供物になるために13年間生きてきました!」

無数の灯りに照らされて分裂した使徒たちの拍手喝采。わたしはやっぱり嬉しくなって、瑞々しいわたしの子葉を剥ぎ取った。だってわたし今までで褒められたこと、一度もなかったから。

「早く死にたいですか?」

「今すぐに!」




「あの子、お姉さんなんだって」

彼女はガウンで顔を二度三度拭ってから言った。あの子、わたしとすれ違ったあの子。少し笑って「またね」って言ったあの子。わたしより背は小さかったけれど、お姉さんだったんだ。

「最初白鳥の羽が届いた相手は末っ子さんなんだって。でもそれを庇って代わりにここに来たんだって。ばかだよね」

彼女はまた顔を拭った。わたしは鋭い痛みが何度も胸を突くから、その話をしないでほしいと思った。けれど、、彼女にとっても、わたしにとってもその話は必要なんじゃないかと思った。それはなぜ?




わたしは何もかもが遅れてる。授業をちゃんと聞いていてもテストでいい点は採れないし、運動神経も良くない。だから怒られてばっかりだった。わたしの人生に価値はない。そう思っていた、ずっと。けど、十歳のとき(二分の一成人式のときだったかな?)に先生から「カミ様」の話を聞いた時、とっても嬉しかった。わたしはばかだから、どうして嬉しかったのかはっきり言語化できなかったけれど、使徒のおじさんが言ってたみたいに、自分が生きてきたことに「意味」が与えられたからなんじゃないかな?その日の教室は阿鼻叫喚だった。抱き合って泣いちゃう子たちもいたし、怒って机を蹴りつける子もいた。仕方ないよね、これから毎日死ぬかもしれないという恐怖を思いながら過ごさなければならないのだから。だれかが自分の代わりに死んだことを喜ぶ毎日はどれほど苦痛なことだろう。そんな日々を何十年も繰り返したであろう先生は困惑するでもなく、説得するわけでもなく、苦々しげにいっていたっけ。

「カミ様に命を捧げることはこの世界くにを救うことなんです。みなさんも私も、この世界くにに生まれたものはすべて運命からは逃れられない。でも大丈夫。わたしたちにはカミ様がついています。みんな一つになるんです」

わたしは真っ先に選ばれて死にたいと思った。最期ぐらい誰かの役にたちたいしさ、わたしが死ぬことでその日一日は百億もの仲間たちが安穏を獲得できるんだから。もし教室の誰かに白鳥の羽が届いたら、わたしが身代わりになってもいいかな。わたしはたちあがって言った。

「安心して、みんな。わたしがまず最初に死ぬから!元気出してよ!」





自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。




わたしの名前が金色の刺繍で印字された白鳥の羽を、わたしは心待ちにした。けれど、ほんとうに白鳥の羽がきたときにも見ることはできなかった。先生、なんであのとき燃やしちゃったんだろう。まずはわたしに見せてほしかったんだけどね。




「うらやましいな、わたしは。誰かのために死ぬことが出来るなんてさ。わたしも誰かの身代わりになって死にたかった。それって意味のあることだから」

わたしはふとあの使徒みたいなことを呟いてみた。びくんと彼女の身体が動いた、と思ったときには彼女はわたしの傍まで来ていた、わたしの肩を彼女の柔らかい手が触れる、あったかい手のひら、汗が滲んでる。

「ばっかじゃないの?価値は与えられるものじゃない、すでにあるものなんだよ?だってわたしたちは生き物だから。無機物じゃないから。ほんとに、、あなたって子はばか。ばかすぎる。どうして生きようと思わないの?」

わたしは彼女が何を言っているのかわからなかった。けれど、彼女がわたしの肩を揺さぶって、その綺麗な顔を大粒の涙でぐしょぐしょにしているのを見ると、自然と視界がぼやけてくる。

「ねえ、私が一緒に逃げようっていったらどうする?」

「ついていくよ、どこまでも。ぜったいむりだけどね」

「むりとか言うなし」

わたしたちはひとしきり泣いたあと、しばらくふたりで笑いあった。それから互いにガウンを脱いだ。彼女の身体は白かった。けれど継ぎ接ぎのような傷跡が生々しく刻まれていた。わたしはなにも言わなかった。

「気になる、、?」

「気にしないよ。あなたが生きてくれるなら」

裸を重ねあわせて彼女の温かさを知った。彼女の手首に燦然と輝く一番星のちっちゃなほくろにわたしは生涯最初のキスをした。





「殺されるくらいなら、自分で死のう」

カミ様とわたしたちの先輩との契約が交わされたときから連綿と、そんなことをいう仲間たちがいる。彼らは大学生のグループだ。底抜け優しい性根の持ち主だったんだろう。未来を悲観し、誰かの死を喜ぶ生活に抗議するべく、互いにナイフを突き刺して折り重なるように斃れていく彼らを仲間たちはと呼んだ。けれど、わたしたちの仲間の多くがその運動を否定した。わたしは最初それがカミ様に対して無礼だからだと思った。それに誰かの糧にならない、つまり誰かの身代わりにならないまま死ぬことは良くないからだと思った。そうじゃない。そうじゃない、けれどわかんない。この気持ちをどう言葉にしたらいいんだろう?




「つぎ、×××さん、第Ⅱ聖書二十七章序盤を読んでください」

慌てて立ち上がったせいで椅子ががたがた音をたててしまう。わたしはみんなの笑い声に耳を赤くしながら、名誉挽回とばかりに読み始める。四年生の夏休み前、「修身・シン学」の授業だ。

「本来汝らは弱い生き物だ。にもかかわらず、食べられて終わるという自らの役目を放棄してあまつさえ自らを殺めることは造物主である我らカミに対する冒瀆である。さらに余罪は幾らでもある。裁きは必ず下される、この、我が手によって」

「自殺はいけないことです。カミ様は、、カミ様はお優しい方ですから、それを、それをお止めになろうとしました。ここの余罪という言葉、難しいですね。これは、わたしたちが今まで行ってきた環境破壊のことです。わたしたちはこの世界にあふれるほど増えすぎてしまったのです」

「増えすぎちゃったら、どうなるの?」

「減らさなければいけないでしょう」

「どうやって?」

「カミ様がなさいます」

まだ幼い私たちはこの世界に全知全能で博愛精神にとんだ上位存在が居るってことを信じて疑わなかった。ダビデの星輝く樅の木に団欒を囲むころには私たちは大人になっていた。私たちは誰かのために死ぬかもしれない。或いは誰かを間接的に殺すかもしれない。幸いにして教会の犠牲者はまだ誰もいなかったけれど、それで安堵するのは違うと思った。私たちが目隠しをしているだけなのだ。私の穴の空いた靴下のなかで桜の樹のような世界中と繋がる根っこのようなものが蠢いている。せっかくのパーティーも何もないも、伽藍洞の夜空にそれは疼く。いやな痛みだった。



なぜ誰かを殺してはいけないんだろう?なぜ自分を殺してはいけないんだろう?




「ばっかじゃないの?価値は与えられるものじゃない、すでにあるものなんだよ?だってわたしたちは生き物だから。無機物じゃないから。ほんとに、、あなたって子はばか。ばかすぎる。どうして生きようと思わないの?」





「そろそろ呼び鈴が鳴る。最後にさ、お願いが一つあるんだけど、いいかな?」

彼女は言った。わたしは肯いた。

「叶えられることなら、なんでも」

「私の小指を噛み切って欲しいの」





笑わせる。生きているから価値がある?それはわたしみたいな何もできない子の命でもそうなのかな?ばかばかしい。じゃあ、みせてほしいなわたしの価値を。あなたの価値を。先に贄となって死んだ、すべての者の命の価値をいまここに。



どうせわたし達は死んで、何も残らなくなるの。





「どうして?一緒に逃げるんじゃなかったの?」

「むりだって言ってたじゃん。自分が」

彼女は困ったような表情で笑った。

「理由、教えてよ。無責任だよ。生きていることが価値あることなんだったらさ、どうして一秒も長く生きようとしないの?どうして自分の身体を傷つけようとするの?」

彼女はまた笑った。その赤くなった瞳は透き通った涙で一杯になっていた。

「どうして、あなたが泣いてるのよ」

彼女は言った。わたしはガウンで自分の涙を拭うのに精一杯だった。

「あなたには死んでほしくない。だって、あなたはわたしが生きることを初めて肯定してくれたから」

そうだ。わたしは結局、彼女以外から「生きてほしい」と思われたことがなかった。両親を早くになくしてから、ずっと。白鳥の羽が来たときだってそうだ。みんなわたしが死ぬことを悲しんでくれたけど、「生きてほしい」とはお世辞でさえも言われなかった。当たり前。自業自得。この世界は誰かが死ななければ正常に回らないのだ。わかっている、そんなこと。でも、ちょっとだけ、寂しかったな。それがどうしてか、やっとわかった気がする。気づかせてくれたのは紛れもなく彼女だった。

「それをカタチにしたいの、あなたの思いを、私の思いを。私より先に死んだあの子と、あなたのために。確かに私たち生き物の価値は見えない。説明書なんてものもないし、値札がついてるわけでもない。けれど、確かにいたんだってことを私たちは大昔から様々なものに記してきた、カタチにしてきた。円環する宇宙の瞬きにすぎない時間に巡り逢えたことの奇跡を讃えるために。たとえ一瞬であっても生きることを選んでくれた、大切な誰かのために。私たちが生きていたというかけがえのない記憶はそうして受け継がれてきたの。でも、この部屋にはペンも紙も手向ける花もない。なら、身体に刻むしかない。私の悲しみが血の滴になってあなたに受け継がれる。そうすれば、頑固さんなあなたにも、確かに私たちの価値があるってこと、わかってくれるよね」

わたしは肯いた。彼女の小指は愛らしい無花果の樹の梢のように細かった。

「名前をきかせて」

「私はラビ。あなたは?」

「わたしはイスカリオテ」

わたしはラビのことを思った。ラビがせめて安らかにあの子と再会できるように祈った。わたしはラビ、ラビ、と呼びかけ続けた。短い悲鳴のあと、彼女の小指は撃たれた雁のような優雅さで墜落した。




「形骸?そんなわけないよ。だってあなたはここまで生きてきたんだから」





「ありがと、死ぬのがちょっと怖くなったよ」

彼女は私の言っている意味が分からないようだった。彼女がそんな風にそわそわして謝ろうとするから、怒ってるんじゃないよ、むしろ感謝してるくらいだよ、と私は言った。私はぽつりぽつりと続けた。

「お兄ちゃんは大学でに参加して死んだの。私はお兄ちゃんが大好きだった。お兄ちゃんは家族のなかで唯一、私に優しくしてくれたから。けれど、私を置いて死んでしまった。酷いと思った、だって約束を破ったんだもん。地獄みたいなこの世界の未来を唯一照らしてくれたお兄ちゃんがいなくなって希望を完全に喪った、ばかだよね。はなからこの世界に夢も希望もないんだから、、。でも埃だらけの屋根裏部屋で毛布だけで冬を越さなきゃいけなかったときも、そばにお兄ちゃんがいてさ、いろんなお話を聞かせてくれた、、。あったかかったなあ。話の終わりにいつもお兄ちゃんは言ってくれた。世界は変えられる。明けない夜はないって。もしいつまでも夜が続くなら、僕ら二人で星になろうって」







 抗議運動に加担した家は優先的にが送られる。けれど僕らは声を上げなければならない。僕は決行する。僕は家族に未練はない、むしろ憎んでいるくらいだ。羽を送られて死ねばいい。地団駄踏んで悔しがっても僕らからの罰は逃れられない。ああ、妹は連れていく。あの子がこれ以上ひどい目にあうのは耐えられないからね。



わかってる。決行は明後日だ。明朝に家を抜け出す、下手はしないさ。できれば黄昏時に逝きたい。大学の礼拝堂を使うか。明後日は妹と遊園地に行く。ああ、どうせあの世なんてものはないからね、せめて妹にはこの世界に幸福があることを教えてあげたいんだ。薬を用意しといてくれ、十歳の女の子だ、、僕は腹を切るよ、焼死は醜い。楽なのを選べよ。





脱退者?誰が、急がないといけないぞ。すぐそっちへ向かう。大丈夫、妹にはすべて話してある。僕らと一緒に死んでくれるよ。まて、盗聴は対策済みか?ああ、勿論だ。同志たちに万歳!





ラビ、、。いつ見ても綺麗な寝顔だ。ずっと愛してる、、。ラビ、、、、。






僕は君を殺せない。






「お兄ちゃんから捨てられて、私は両親からの虐待をひたすら耐える生活が続いた。何度も死のうとしたよ。血が噴き出しても痛くなかった。だから私は怖くなかった。けれどそのたびに両親から援けだされた。継ぎ接ぎだらけなのはそれが理由。勿論彼らに善意はないよ、羽が送られたら身代わりにするつもりだったんだ。私はもう限界だと思った。だから両親を殺すことを考えた」

「殺したの?」







 濁流が身体を駆けくだる感覚。私は手にしているものの重みを感じ取って震えている。既にそれは血に染まったような鈍い光を放っていた。私は鏡にうつる自分の顔が親よりも醜い顔で陰鬱の虜囚になっていることに気づいた。私は亡霊をかき消そうとした、私はあなたを見ていない!私は二階の寝室に駆け上がった。白い肌に落ちていた痣は彼らの血潮を暗示して、もう叛意を競い合っている。私は腕を斬り落としたい憤怒に駆られた。親殺し。私の悲願。殺されるくらいなら殺してしまえ!至上命令!






「私はいくじなしだった。私のナイフは親の咽喉許の寸前でそれ以上動かなかった。私は決行を諦めて屋根裏で死んでしまおうと思った。駆け出した私の頭の中にはなぜかという言葉が繰り返されていたの。それがなぜか、私にはわからなかった。お兄ちゃんのために死ぬ、それは私の使命でもあったはずなのに、ここぞというときにわたしの脳裏にお兄ちゃんはいなかった、だから彼のためのではないと思ったの。イスカリオテ、それは何故だと思う?」

彼女は無垢な瞳を此方に向けてひたすらに思考をめぐらしている。ごめんね。でも時間がないの。急かしてごめん、もう少しで私は何かがつかめそうなの。

に私は殉じようと思った、この世界の神秘に。お兄ちゃんが頭に浮かばなかったのは、彼がそのことを最も理解していたから、死ぬことと反対の方向に走るような人だから、、。でもお兄ちゃんは成し遂げられなかった、生きることの重責を担うには彼は優しすぎたんだよ、、。そのあとに流れ星みたい思索の波が押し寄せてきた。私はやっぱり死ねないと思った。すべての命に偉容が生まれる。すべてのものに価値がある。それを無に帰す行為には意味がなければいけない。弱いものは食われる、それはより強いものの血肉になって価値を繋ぐ意味がある。でも、、だとするなら、私たちを嗜好品として殺めるカミ様は」

「まちがっている」

凛とした彼女の瞳はあの日の私にそっくりだった。ああ、私はあなたに宿るのね。

 ベルが鳴り、私は立ち上がる。饗宴の幕があがる。私の小指のあった場所からはひたすらに赤い血が流れていた。鼓動が早くなる、すべての生き物への讃美歌のように私は思う。

「あなたが私をこと、きっと意味があるはず。私はまだまだ未熟者。カミ様に叛逆できるなんて思ってない。けれど、、イスカリオテ、あなたの名前は良い名前。きっとあなたなら」

彼女は向かって頷くと、もうそれっきり、その可憐であどけない顔を見せなかった。彼女なら大丈夫だ。きっと私に代わって世界を変えてくれる。私たちは長い間逢えなくなるだろう。でもきっとこの世界に未来があるなら、希望があるならさようなら。

「またね」



扉はふさがり、少女は磔刑に処された。少女はカミ様の回答に答えることができなかったのだ。しかし叛逆者はどうだろうか?彼女はすでに叛逆を始めている。現に、わたしたちはもう彼女の思考を覘くことは一切不可能だ。カミ様は焦慮に駆られている。なぜならば次の贄は自分自身なのだから。パンとワインは並べられ、聖餐が始まる。









「あなたはカミ様のことが信じられる?いや、カミ様というのも穢らしい、神の僭称者たちを、あなたは信じることができる?」

「それって、聖書の神様のこと?」

「いいえ。わたしたちのこと」

小さな叛逆者は熱を帯びた掌を天にかかげた。

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聖餐 桑野健人 @Kogito

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