第2話

聡、自宅。帰るなりノートPCを開け、インターネットブラウザを立ち上げた。検索エンジンから開くサイトは、同人誌即売会イベントのそれである。


「……はー」


また行くのか、あそこへ。


脳裏に蘇るのは、ここ数年の、イベントに出たときの記憶である。暇だった。時間の無駄だなー……と思いながら、パイプ椅子に座って過ごした。


幸か不幸か、聡の場合ははじめから、そんなに期待を持ってあれに挑んでいたわけではない。漫画を描くにあたり自分は絵が巧いわけでも、面白い話を作れるわけでもないことは知っていたからだ。ネットに作品を上げてもいたが、評判がいいことも、なかったし。


確かにそれは、悲しいか悲しくないかでいうと悲しい方に振り切れることではあったが、もっと人に見てもらうためには、という動機で頑張る気が起きず、描きたいものを描きたいように描くことをひたすらに優先してきた。

その選択は、正しかった。そうしなければ、これまで楽しんで作品を作り続けることはできなかったろう。少ないながらも自分の作品を好きだと言ってくれる人もおり、本来なら、自分の本が即売会で売れなくたって何も問題はないはずである。


なのになー。


気がついたらなんか、あそこにサークル参加することが、もうトラウマみたいになってるしなあ。

だって、頑張って色々用意して、その結果が見合ってないって、どうしても思ってしまって。


ほんとは。


百冊、刷れなくてもいい。ただ、あそこに座っている時間を、無駄だったと思わないような。「行ってよかった、楽しかった」と、心から思えるような。


ほんとはそんな体験をすることが、自分はずっと、たぶんはじめから、夢だったのだと思う。




* * *




締め切りまでは、あと四ヶ月だ。油断しなければ間に合うが、逆に言えば油断していると間に合わない。「あと四ヶ月」は、そんなときだ。

4コマ漫画を、最低でも16ページ分は書きたい。B5サイズで1ページに二つ描くとして、単純計算で32個のネタが必要である。

と考えると、今の段階では1日のうち少しでも長く、ネタを考えていた方がいい。




「おつかれース」


職場。和馬は得意先から会社の駐車場へ戻ってくると、ポケットからスマホを手に取り時間を確認した。十二時十三分。会社の昼休み中に帰ってこれた。

となれば、次に考えるは「聡さんと飯食えるかなー」。あの人は、最高に偉いことに、基本的に自炊している。伴って、昼食の弁当も手作りしてきていることが多い。なので今も、昼休みはその自作弁当を、休憩スペースで一人、または同僚と食べていることだろう。


であれば、様子を見に行かない手はない。同僚といるなら声はかけないけれど、一人でいるならご一緒したい。

会社の屋内に入り、階段で二階へ。休憩スペースを見回して、聡の姿はーーーあった。

カウンター席の隅で一人、いつものカジュアルな黒いジャケット姿だ。声をかけても大丈夫そうなことに内心ガッツポーズをしながら歩み寄る。彼は熱心に、紙に何かを書いているようである。


「寺内さん」

「! はい」


さっ、と聡が紙を裏返して振り返ってきた。紙は、カレンダーの裏紙らしい。年末になると得意先などから社内で使い切れないほど送られてくるので、余った分は文庫本ほどのサイズに切って、社員がメモ紙として使うこととなっている。


「って西野か……。お疲れ」

「お疲れ様です。ちょっと喋れたらなーとか思ったんですけど、忙しいですか」

「暇ではないけど。でもまあ、お前なら」

「?」


ぺらり。聡が、先ほど裏返した紙を再度裏返した。聡が何かを書いていた方の面が、見えるようになった。

和馬は彼の隣へ腰掛けながら視線を落とし、その内容をざっと見た。これはーーー


「あ、これって」


ピンと来て、顔を上げ聡の方を見た。聡が、若干照れ臭そうに頷いた。


「四コマのネタ。締め切りまであと四ヶ月なら、時間あるときに考えてかないときついから」

「そうですか、」


和馬は、嬉しい。聡さんは、本当にもう一度描く気になってくれたんだ。


「楽しみです」

「ふふ……ありがとな。本ができたら、もらってくれ」

「ぜひ。あ、印刷代と出店料、いくらですか?」

「あー、そういや出してくれるって言ってたな……。だけどいいよ、普通に、今まで通り俺が出す」

「え。なんでです」

「俺の本だし。イベントも、お前に付き合ってもら」

「『付き合ってる』んじゃないです」


むっと来て、少し声が大きくなった。「付き合ってる」というワードに、周囲の意識がこちらを向いたことに気がついて、和馬はやべ、と思った。

聡との交際は、基本的に自分たち以外には隠している。なので、墓穴を掘らないためにも、恋愛に関する話は、会社の人たちがいる前では避けているのであった。


「えー、と。その、付き合う、て感じじゃなくて」


声のボリュームを落として、続ける。


「何て、言ったらいいのかな……。こう、客人でなくて身内でありたいんです。俺は描く人じゃないけど、売る人ではある。うちの製品だって、製造とか企画の人だけのものじゃなくて、俺らみたいな営業とか、さと……寺内さんみたいな総務とか、他の部署のものでもあると思ってて。……伝わりますかね?」

「何となく言わんとすることは分かる」

「あの。ですから『ゆるり屋』を」

「ちょっ、サークル名」

「はい。『ゆるり屋』を、個人サークルじゃなくて俺とのサークルにしてもらいたいって感じです」


毅然とした態度で、言った。聡が、口をへの字に曲げて目を泳がせて、後頭部をぽりぽりとかきながら「熱烈だな……」と呟いた。和馬は薄っすら、彼と付き合いたての頃を思い出した。


「だけどほんと……いいのか? 思ったより高いかも知れないぞ」

「大丈夫ですよ。だってこれまでは寺内さんが一人で払ってきて、特に破産とかしてないわけでしょ」

「それはそうだけど」


ふー、と聡がため息をついて、


「……分かった。近いうち、いくらか言うよ」


こう、言ってくれた。




* * *




その週、土曜である。和馬の機嫌は、かなりいい。聡の家に遊びに来ていて、彼が作業しているのを、近くから見学させてもらっているからだ。

彼の作業場は、寝室のデスクである。ベッドの真ん前にあるので、和馬はベッドで寝そべりながらそちらを向いて、彼の背中越しに画面を見る形で、漫画のラフが描かれていく様を見ている。


「あー、そうだ」


画面を見、ペンタブレットで線を引いていた聡が、手を止めてこちらへ体を向けてきた。


「印刷代とスペース代だけど。印刷代が一万三千円、スペース代が五千円。トータル一万八千円、割り勘で、一人九千円」

「分かりました。ちなみに、何冊でその値段なんですか?」


聞けば聡の目が逸れ、唇の端がぴくりと強張った。


「……七冊」

「え。もっと刷りましょうよ。俺、もう少し印刷代出してもいいですから」

「や、そういう問題じゃなくて。あんまり余っても困るだろ」

「そんな余りませんって」

「だけどたぶん、予備が三冊か四冊来るからさ。実質、十冊くらいにはなるし」

「たぶんって、下手したら予備がない可能性もあるってことですか」

「うん。でもこれまでそんなことはなかったし、予備がなかったとしてもまあ、足りると思う」

「で……ですけど。今回は俺もいるんですよ。いつもより売れるって見込みでも」

「いやー……」


聡が濁し、表情を翳らせた。彼はもう、その辺りに期待を持つことができないのだ。和馬はそれが、悔しかった。


「やっぱり印刷代、俺が三分の二を出しますから。十五冊刷りましょう」

「十五!? それは多いだろ」

「多くないです」

「……。在庫ずっと持っとくのも、しんどいんだぞ。そう簡単に捨てられるもんでもないし」

「全部売ればいい話でしょ」


むきになってきて少し強めに言えば、聡が複雑な顔をして黙った。


「俺には正直、作品の良し悪しは分かりませんけど。でも、聡さんが頑張って描く漫画でしょ。せっかく完成するのに縮こまってちゃ、悲しいですよ」

「うん……」


そう、だよな……。


視線を落とし、自分に言い聞かせるように聡が呟いた。




* * *




このネタはもっとこうすれば面白くなるんじゃないか。

この台詞はもっとシンプルに、構図はこうした方が、伝わりやすいのではないか。

描いたことのないアングルだ。でも、挑戦してみよう……。


などということをこねくり回しながら漫画の制作にあたるのは、楽しい。眠る時間や食べる時間が多少削れたとしても、全然厭わない。




締め切りまであと一ヶ月。いよいよ、聡がこちらに構ってくれる頻度が減った。

寂しくないと言えば嘘にはなるが、和馬としては、それでよかった。彼が黙々とパソコンの画面に向かい、ペンタブレットとキーボードの上で手を動かす背中は、仕事中の彼と同じくらいか、それ以上に格好よく見えた。


「コーヒーいります?」


聡の部屋だ。和馬はもはや自分の家のように彼のベッドの上へプレイ中のゲームを置いて、パソコンに向かう家主に聞いた。「うん」聡が、画面から目を離しこちらへ体ごと向けて、応えてくれる。


「古い方じゃなくて、こないだ買ったやつがいいな。贅沢ブレンドみたいなやつ。覚えてるか?」

「はい。あの、ドリップの」

「そうそう。西野もそれ飲んでいいし……他のでも。好きなの飲んでくれ」


言われて、二人分の贅沢ブレンドドリップコーヒーを用意し、戻った。カップを差し出すと、「ありがとう」聡が言って、受け取った。


「進捗どうですか?」


和馬はベッドに腰掛け、聞く。


「この感じで行けば、余裕持って間に合うと思う。飯作ってる時間を漫画にあてられるの、マジ助かってるよ」

「よかったです。俺もなんやかんや、料理のスキル上がってくの楽しいっていうか。やっぱいいですね、誰か他にも、自分の作ったもの一緒に食べてくれる人がいると」

「お、じゃあウィンウィンだな〜。もう一緒に暮らすか!」

「いいですよ。会社に何かつっこまれたら、同棲始めましたからって言って」

「いいねー。じゃあまずは、親にカミングアウトするところから」

「……」

「……」


はあ……。


二人で、溜め息を吐いた。二十六歳と二十八歳。互いに実家に帰ると「嫁はまだ?」と親に言われる身だ。それへ「実は同性のパートナーがいる」と返す勇気は、二人とも、まだ出ない。




* * *




「っほあぁ〜」


平日、深夜零時半である。パソコンの画面に「データ送信完了」の文字が表示されると、聡は伸びをしながらそんな声を上げた。


終わった。ひとまずは。


締め切りまではあと、一日余裕がある。明日入稿をしても間に合うが、一通りやるべきことが終わったなら、早く楽になりたかった。

これで不備がなければ、この四ヶ月間向き合った漫画が、イベント当日に自分のスペースに届けられているはずだ。


二、三分そのままデスクに突っ伏して、起き上がると聡はパソコンでチャットアプリを立ち上げた。迷いなく和馬とのトークルームをクリックし、打ち込む内容は「入稿できた」。


時間的に、たぶん返事は来ないだろう。明日の朝以降返事があるか、直接会えばそこで、おめでとうございますとか言ってくれると思う。


「寝るかぁ〜」


言ってパソコンをシャットダウン、椅子から立ち上がり、後ろへ半歩。すでに風呂と歯磨きを済ませ寝巻きだ。そのまま、布団に入った。




夜が明けて、その夕刻である。

聡の家に遊びに行く予定である。が、退勤した和馬が真っ先に向かう先は、聡の家でなく最寄りのケーキ屋だ。聡の入稿を祝おうという話にはなっているが、ケーキを買っていくとは言っていない。サプライズである。


調子に乗ってケーキを四つ買い、今度こそ聡の住むマンションへ。玄関で出迎えてくれた聡に「ウフフ。これ」とケーキの入った箱を差し出すと、「うお!」聡が目を丸くした。


「お祝いです。一人二個」

「二個! 最高だなー西野……。ありがとう!」


嬉しそうな聡。彼にこんな顔を、イベントの後にもさせてあげられたら。




* * *




イベント前日である。

無料配布物は作らなかった。いくつ必要だろうかと考え出すと病むし、たいていの場合多く作りすぎるからだ。なので聡はそういった類のものは抜きで、既刊と値札と知り合いへの差し入れと、設営のための色々と、外泊セットをキャリーケースに詰めて、東京に来ている。


いつもはイベントのために一人で適当な時間に来て帰るだけだが、和馬がいるのならと、早起きして昼間は二人で観光していた。

東京には度々来るものの観光したことはなかったが、今回できてよかった。もしイベントが散々でも、和馬と遊んだのは楽しかったなと思えそうだから。



イベント会場最寄り駅の沿線上の駅近くにある、ビジネスホテル。和馬は聡と、この部屋に泊まることになっている。

先に聡がシャワーに行っている。壁越しに水の音を聞きながら、和馬はベッドに寝そべってスマホをいじっている。


やるから読んでていいよと渡された既刊の、奥付記載のURLから『ゆるり屋』の通販ページに飛び、こんなのもやってるのかぁと見始めて数秒後、和馬の眉間にしわが寄った。

ページ上部、通販ページ名兼サークル名のすぐ下、この店の、ちょっとした説明。「ゆるり屋は、いぬポチが運営する個人サークルです……」。


と。シャワールームのドアが開き、寝巻きに着替え頭にタオルを乗せた聡が出てきた。

ちょうどいい。ドライヤーを手に取ろうとした聡に、「あの」和馬はスマホの画面を見せた。


「うおそれ俺の」

「あとでここ、修正してくださいよ。もうゆるり屋は、個人サークルじゃないでしょ」

「、そ、そう……だな」


一瞬なぜか固まったが、そう、聡の返事。


「こんな感じか? 『ゆるり屋は、いぬポチと』……あー、お前の名前どうしよう。ねこタマとか?」

「いいですよ」

「ん。じゃ、『ゆるり屋は、いぬポチとねこタマが運営するサークルです』にしとくわ」


その後和馬がシャワーを浴びて部屋へ戻ってきて、スマホで先ほどのwebページを開くと、あの文章がきちんと変えられていた。

それを見て、和馬は密かに、嬉しくて顔が緩んだ。もしも聡と家族になれたとしたらと夢想するときの感覚に、近いものがあった。




* * *




いよいよ、当日だ。

聡は和馬とともに平日に起きるより早く起き、ホテルをチェックアウトして駅へ。予定通りの電車に乗ると、周りにはキャリーケースを携えた人が大半となる。この人たちの行く先と、目的。きっと自分たちと同じなのだろう。


「あの人たちもサークル参加者ですかねえ」


電車のドア際、手すりに捕まり自分の近くに立つ和馬へ「たぶんな」と返し、


ーーーなあ。イベント中、俺、適当なとこで時間潰してていいかな……、


と続けそうになるのを、聡は昨日から何度目か押し込めた。


いたくない。あの場に。いたって傷つくだけ。


どうしたって体が覚えている。今回は和馬がいるから、いつもよりはましかも知れないって。頭で分かっていたって、イベントサークル参加への恐怖は、そう簡単に消えるものではない。




会場に着いた。

サークルチケットは、ホテルを出る前に和馬に渡している。スタッフに提示し受付を通過、自分のスペースに向かうと、長机の上に小さな段ボールが置かれているのが見えた。

隣で「来てる」と呟く和馬に、「そだなぁ」と返した。新刊の入った段ボールである。和馬に手伝ってもらいスペースの設営を完了すると、聡はその段ボールを開けてまずは冊数を確認した。19冊。先にメールで知らされていた通りだ。注文が15冊で、予備が4冊。


現実世界に顕現した自分の作品を手に取って、感動はある。けれどその強さとして、「へー、この紙に印刷したらこんな感じなのかぁ」とか「こんなにある。そろそろ在庫を入れとく箱もパンパンなんだけどな」とかいう内心の呟きに勝てていないのは事実だった。


「19冊ですよね」


新刊を一番見えやすい位置に置くと、隣のパイプ椅子に座る和馬が言ってきた。


「うん」

「俺、色々勉強したんです。したら仕事でもこの二ヶ月くらいで、成立する商談増えて」

「おー、やるな」

「ですから……今日もきっと、いけます」

「……ありがとな。だけど、あんまし意気込みすぎるなよ。4コマは、そもそも普通の漫画より需要ない。ここの島に来る人自体、そんなに多くないから」

「そう、かも知れませんけど。でも、さばけない数ではないでしょう、19って」

「たぶ、ん?」


分からない。そんなにも手に取ってもらえたことはない。けれど、4コマでもっと刷っている人もいるだろうから、和馬の考えは合っているのだろう。


「やれるとこまでやります。全力、出します」

「ん。……頼んだ」


その熱意のこもった瞳が、イベントの終わる頃にはどれほど翳るんだろうって。

怖くて仕方ない。お前が頑張ろうとしてくれればしてくれるほど。




* * *




開幕のアナウンス。参加者の拍手。わーっと入ってくる一般参加者たち。サークル参加者は、忙しい人はもの凄く忙しくなるし、聡のようにそうでない人は、ただその光景を傍観するフェーズとなる。


「いよいよですね」

「そうだな……」

「お客さん来たら、俺が対応しますから。聡さんは、隣でニコニコしてお金受け取って本渡してくれれば」

「分かった。まーでも、うちは開幕直後に人が来てくれるようなとこじゃ、あ」


聡の言葉は、最後まで続かなかった。スペースの前で立ち止まった女性と、目が合ったからである。

長机に貼られたスペース名を確認しながら、女性が一人、なんとなくこちらへ向かってきているのは認識していた。当然のようにスルーされると思っていたけれど。


待ってましたといった感じで、まず和馬が立ち上がった。続いて聡も立ち上がった。「手に取って見ていただいて大丈夫ですからね」にこやかに女性へ声をかける和馬の横で、聡はにこにこしておく。


「ありがとうございます」女性が言うと、ぱらぱらと既刊を数冊と新刊の中を見た。そして数秒考えてから、「新刊と、これとこれ、一冊ずつお願いします」。既刊を二種、指差しながら。


「ありがとうございます」


二人で言って、本三冊分の一五〇〇円を受け取って、本を渡した。「ありがとうございます」女性がぺこりと頭を下げて本を肩から提げるトートバッグへ入れ、去っていった。


「まさか来るとは」


女性が行ってから、聡は呟くように言った。開幕直後に来るということは、たぶん、優先度が高いということなのだろう。知り合いでもなんでもない人で、自分の漫画にそう思ってくれる人がいると思わなかった。


「前のイベントのとき、買ってくれた人ですかね?」

「かもなぁ」


答えながら、聡は「そんな好きならSNSフォローしてくれればいいのにな……」と思ったりした。前のイベントのときから、フォロワーは増えていない。


ともあれ。


これで、一冊嫁あるいは婿に行った。自分用と和馬用と知り合い用が確実にさばけることを考慮すると、残り十五冊だ。


さあ、撤収までにあと何冊、手に取ってもらえるか。




* * *




正午。まだまだ人はいるものの、イベント開幕直後よりは会場全体が落ち着いている。聡が自分の買い物と知り合いに会うのに席を外しているので、和馬は一人で店番である。


これまでに売れた新刊は、五冊だ。

聡には「すげえよ西野」と言われたが、和馬としては目標は完売。まだ、足りない。

暇な間に、聡と色々と話した。「一人でも、始まったばっかのときに来てくれたのはすごいこと」とか「完成品をどっかに出すっていう機会があるだけでありがたい」とか「数なんて関係なくて、楽しめたらそれでいいんだよ」とか。和馬としてもそれはそうだということばかりだが、そう語る聡本人がそれで満足しているか、楽しそうかと聞かれると、見た限り……微妙、であった。全く違うとも言えないし、確かに楽しそうだとも、言えない感じ。


どうすれば、聡は心から喜ぶだろう。新刊を完売させるのでは駄目な気がしてきた。もっと根本的なところで、何か。何か……。


「ただいまー、と」


考えていると、隣に聡が帰ってきた。その肩に下げるトートバッグは、そこそこ重そうに見える。


「ありがとな、店番」

「いえ、そんな」


客足も今はないし、ちょうどいい。どさりと椅子の下に戦利品の入ったバッグを置いて、隣のパイプ椅子に腰掛けた聡に、和馬は聞いてみることにした。


「思ったんですけど」

「うん」

「聡さんて、どうしたらイベントを楽しめますか?」

「おほぉ〜〜」


「唐突に根深い質問が来たな……」。聡がしばらく唸り、


「……俺の作品が、確かに誰かを楽しませてるって。実感できたら、かな?」


腕を組み眉間に皺を寄せて俯いて、とつとつ、言った。


「ここで重要なのは……俺じゃなくて、俺の作品がってところだ。俺は……自分の性格とかステータスとかそういうの抜きで、純粋に作品で勝負して、広げていきたいんだと思う。あ、もちろん、西野とかネットの知り合いとか、俺自身への好感から協力してくれたり 買ってくれたりするのもすごくありがたいと思ってるんだけどさ。ほんとに、マジで」

「ええ、」

「……だけどどうも、根底ではそうみたいでなあ」


困ったもんだよといった感じで、聡がため息をついた。


「そう思うんだったら、絵とか漫画とか売り方とか修行しろって話なんだけど。やろうと思ったことはあるんだけどどうしても続かないんだ、楽しくなくて。って、言い訳だけどさー……これで稼ぐ気はないし、つらいこと頑張るのも違う気がして」

「……」

「それで、こんなだよ」


聡が、肩をすくめて見せた。和馬にはそれが、「もう考えるのにも疲れましてね」と言っているように見えた。


「でもそしたら、初めに来てくれた女性とかは? あと、今日買ってってくれた人も知り合いじゃないですよね」

「ああ。だから今日は、結構な収穫だと思ってる。西野のおかげだ」

「じゃあこの感じで少しずつ、そういう人が増えたら。聡さんは満足できるってことですか?」

「そだな。だと思う。で、こうやって何十分と暇なときってのもなくなって、ちょっと忙しくなるってときも出てきたりして。やり切ったなと思って家へ帰れるのが理想かな」


理想、つまり夢を語り出すと、聡の瞳に光が戻ったのが分かった。

それを見て、和馬の脳裏に蘇るのは漫画を描いている最中の聡である。真剣で、大変そうで、楽しそうだった。


そうか、この人は、描かないと輝かなくなる人だった。


この人には本当は、もっと描く理由があった方がいい。描いて、世に出して、誰かが受け取ってというサイクルの輪。大きくなればなるほど、この人は光っていくだろう。


「それ、叶えましょう」


気がつくと和馬の口は、そう言っていた。聡の口元が途端に少し、引き攣った。


「聡さんはそれを何年も目指してきて、一度諦めてましたけど。でも、今回からは俺がいますから。これまでと同じ結果にはならないはずです」

「ん……」

「だから、今日はあと十冊、さばけないかも知れないですけど……それでも『次』、予定してください。俺は聡さんの作品じゃなくて聡さんのファンなのが申し訳ないですが」

「いやいやいやいや」

「イベント楽しかったなーって言ってる聡さんを、隣で見てみたい。そのために俺もできることはやりますから」




「一緒に頑張りましょう!!」


ぐっ。と和馬のガッツポーズと眼差し。その熱が聡の内側にも移ってくるようで、


「わ……分かった。頼む」


なぜか、届く気がした。後ろ向きな思考は欠片も出ずに、ただ純粋に、夢に向かって進みたいって。そんな思いしか、出てこなかった。




* * *




夜。東京から帰ってきて家に荷物を置いて、聡は和馬とちょっといい居酒屋に来ている。

梅酒ハイボールを片手に和馬と会話する聡の気分は、「いい」寄りの「普通」だ。


新刊は結局、一冊が自分用、二冊が和馬と知り合い用、そしてーーー八冊、見ず知らずの人の手に取られていった。全部で十九冊あったうち、トータル十一冊がさばけたということである。

完売こそしなかったが、聡にとっても和馬にとっても、もはやあまり問題ではなかった。知らない人複数人へと本が渡ったという事実。これまでには感じたことのない、手応え。


「西野、次何飲む?」

「えーと。メニューください」


メニューを渡し、和馬がペラペラとページをめくり出すと、「うわすご」と声を上げた。

「見てくださいこれ」差し出されページを見ると、「ドンペリ プラチナ ¥140000」……。


「何気に初めて見ました。ドンペリってこんなにするんだ。ほとんど家賃二ヶ月分ですよ」

「なんか種類で違うらしいけどな。安いのだと、えー、ほら、二万だ」

「それでも高いですけどね」

「まあな」


応えると和馬が数秒そのページを見つめ……、


「でもこれ、この十四万。いつか飲みましょう」

「え!?」

「聡さんの理想、叶ったら。その日の夜にはこれ、いきましょう。そのくらい価値は十分、あることでしょ」


に、と口の端を上げて言われると。あー確かにと、聡の口元も和馬と同じに上がった。


「よく分かってるな。さすが俺のパートナーだよ」


自然と言えた。こんな台詞が。そんな日がいつか来るだろうと思いながら。


「まーけど、今日は普通のやつですね。俺ビールもう一回いこうかな。聡さんももうすぐなくなりそうですけど。一緒に頼んじゃいます?」

「そだなー……」


和馬からメニューを受け取ると、聡はさっと鞄から財布を取り出し残金を確認した。ざっと見て、一万三千円と小銭が少し。足りないけれど、カードで払えれば……。


「なー西野。俺が奢るって言ったら、ビールやめて二万のドンペリ一緒に飲まないか?」

「え、」

「嫌なら別にいいよ」

「いや、嫌じゃないですけど。い……いいんですか」

「ん。よし、じゃあ」


いつでも隣にいてくれたこと、これからもいてくれるつもりであること、色々、本当に色々、協力してくれたこと、おかげでまた、頑張ろうと思えたこと……。

それに対して感謝と祝福。その未来、君と、立ってみたい。

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最強コンビ 俺と、あなた。 ROTTA @shirona_shima

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